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姉が横たえられた円い桶のなかにとぽとぽと水をそそいでいく。喪服の袖がちょっとだけ濡れた。白木の桶がぬるい水で満ちる。髪がぶわあとうねりながら浮かびあがって、白紙にうす墨を流したような観世水模様を画いた。最後の雫が拡げた淪が落ちついて、水の表が鏡のように静かになると。
月が降りてきた。
ぽっかりと桶に収まった月は遠い空で輝いていたときよりもやわらかく、青かった。
月は動かぬままに女のまるい額をなぜて睫毛の先端に接吻をする。頬をなぐさめ、呼吸のない鼻さきを愛おしむ。濡れた経帷子が張りついた肩さきに掛かり、わき腹をたどりながら腰に。あたかも峰々の緩い稜線を夜毎になぞっていくように。
月が姉を擁いた。
あ、はじまった、とおもった。
姉の肌に月が宿ったみたいに濡れた絹の張りついた細い身体の輪郭が、ぼうと果敢なく輝きはじめた。青白い光が経帷子の白絹を透かし、素脚の緩い曲線を際だたせる。成熟した女のからだ。けれどもまるまった膝頭の幼けなさはその昔、母親に叱られて押入れに閉じこめられたときと変わらない。わたしだけが知っている。
幼い頃から母に叱られるのはいつだって姉だった。門限を破った。自転車のふたり乗りをしていた。郭公の雛を拾ってきた。けれども怒られるときにはいつだって、わたしも一緒だった。唇をとがらせて、姉は最後の最後まで「でも」「だって」と勇ましく反論したが、けっきょくは押し入れに閉じこめられて終わる。
あなたは関係ないじゃない。黙っていれば怒られたりしなかったのに、なんで。と暗がりのなかで非難めいたまなざしをむけてくる姉に、わたしはまだ泣きやまずに嗚咽を溢しながら「だって」といった。
だって、姉さんが好きなんだもの。
怒られるのだって一緒がいい。
そういうと姉は急に黙ってしまった。眠っちゃったのかなと思いはじめた頃になって、姉はぽつんといった。
私も好きだよ。
真横からするりと華奢な腕が伸びてきて、やさしく、頭をなぜてくれた。髪を梳いてくれる指がとても暖かかったのを憶えている。嬉しくて、嬉しくて、きゅうと胸のあたりが傷んだ。わたしの「好き」と姉さんの「好き」がまったく違うものだったなんて、きっと、思いもしなかったのでしょう。
だからあんなに遠くまでいってしまったのでしょう。それとも知っていたの。わかっていて、距離を取ったの。
触れることはできないから視線でゆっくりと、その曲線をなぞる。水底に横たわるしなやかな脚。ひき締まっているのに張りのあるふくらはぎの力強さと、きゅうと締めあげられたような足頚の頼りなさ。こんなにも細い脚で、彼女は何処までもいってしまった。
吸い寄せられるように水鏡に人差し指を浸けかけて。
「あ……」
光が。
姉を擁する光がひとつ、ふたつと、みなもから舞いあがる。ほたるが燃えたつように。あるいは燃えつきるみたいに、妙なる光の群はゆらゆらと月に昇っていく。
つられて振り仰げば、青くさえ渡る満月に眩んだ。
地上の死をことごとく吸いあげてきたかのような静謐な光が巡り巡っていま、わたしの額にそそがれる。香油を施すように。月のまわりには縹渺たる光の環が架かり、細く刷毛でなぜたような雲にうす紫がかった虹を映していた。
雲のかなたまで光の群は舞いあがる。
その度に姉のからだはほろほろと端から順に崩れていった。土に腐ることもなく、火に焼かれることもなく、姉は月に融ける。
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