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今朝はクライアント先への直行だ。
事務所に寄らなくてもいいので、いつもより時間に余裕はある。
とはいっても、気持ちは穏やかではなない。
部長は苦手な相手だと、すぐ俺に押しつけてくる。
滑車のリズムに揺られながら、憂鬱な気分は攪拌を続ける。
これを降りたら、行く先で愛想を振りまくだろう。
そしてすぐに、帰りの電車が恋しくなるだろう。
毎日、毎日。こんなことを繰り返している。
それでも、こうして人に紛れることは、悪くはない。
ひとりでいながら、ひとりではない。
今日は普段と路線が違うので、乗り合わせているのも、知らない顔ぶれだ。
それもまた、行きずり感があっていい。
コトン。
足元に何かが落ちる音がした。
足元から目線をあげると、ばあさんと目が合った。
床に落ちた傘を拾って渡すと、嬉しそうに目を輝かせた。
こちらが照れるではないか、ばあさん。
「あんた。電車は好きかい」
「え。まあ。嫌いではないですけど」
急に周囲がざわつきはじめた。
見回すと、自分とばあさんを取り残すようにして、皆が車両の隅へと離れていく。
なんなんだ。
自分も人の塊のほうへ移動すると、
怪訝な顔をしたOLが、一歩下がった。
「電車が止まらないって本当なの?」
「うん。ばあさんの相手に選ばれたひとが、納得させないとダメなんだ」
「ばあさんの相手?」
俺はひそひそ声の二人に問いかける。
「そ。つまり今日はあんた」
「どうして?」
「目が合ったんでしょ? 話しかけられたらもう、そいつがターゲットさ」
「やだ! 私、次の駅で降りたいのにぃ」
「俺もさぁ、乗り込んですぐに、ヤバイと思ったんだよな」
「あの。いったい」
「とにかく。ばあさんが話に満足して降りてくれないと、電車は止まらないんだよ!」
「はあ?」
奥の方から「また、あのばあさんかよ」と舌打ちまで聞こえた。
「そこ、ごちゃごちゃうるさいよ! あんた、こっちきてあたしの話を聞いとくれよ」
ばあさんの怒声が響く。
「さあ。早く!」
俺は塊の中から背中を押されて、つんのめって、ばあさんの前で膝をついた。
滑車のリズムが、刻々と身体を刻む。
コトン。
「あんた。電車は好きかい」
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