雨音の鳴り止まぬ間に

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 僕たちは文芸部の活動を終え、図書室を後にしようとした。その時、雨音が聞こえ始めた。 「急に降ってきた」  僕の後ろにいた彼女が呟くように言った。僕は廊下の窓から鉛色の雨雲を睨んで言う。 「天気予報はアテにならないな」 「止むかな?」  彼女は少し弾んだ声で言った。僕はぞんざいに答える。 「どうせ通り雨だ。すぐ止むよ」  僕たちは踵を返し、図書室の中で雨宿りをすることになった。  僕たちは定位置に座った、図書室のカウンターの近くの席だ。誰が決めたわけでもないが、文芸部はこの席に座る。  僕は内心苛立っていた。部活なんかせずに早く家に帰りたかった。しかし、この学校は全生徒、部活に入ることを強制されている。  仕方なく、僕は一番楽そうな文芸部に入部したのだが……選ぶ高校、間違えたかな。早く家でゲームがしたい。  ふと彼女を見ると、分厚いハードカバーを華奢な腕で抱えて読んでいた。彼女は同じクラスの女生徒だ。  図書委員長を務める彼女が無類の本好きだと言うことは周知の事実である。僕もミステリーは好きな方だが、好きの度合いで言えば彼女の足元にも及ばない。  彼女はいつも物静かで本を読んでいる。たまに思う、彼女はアンドロイドかなにかで感情の起伏というものを知らないんじゃないのかと、それほど物静かなのだ。  ただ、理知的な瞳をページに落とし、黙々と本を読んでいる。  文芸部は僕と彼女しかいない。彼女のページを捲る音と、シトシトとした雨音だけが図書室の中に響く。  青春とは謳歌するものだと僕は心得ている。しかし、ここにいると青春は黙読するものなのかと思えてくる。  僕は図書室の椅子にチョコンと座っていることに我慢できなくなり、書棚をあさりに行った。  退屈だったので、いつも見る文庫本の書棚ではなく、もっと、図書室の奥の方の書棚を見に行った。  僕より背丈の高い本棚が立ち並び、そこには日焼けた百科事典が並んでいる。むせかえるほど、紙とインクと埃の匂いがする。  そんな中、大きな百科事典の影に隠れるように、小さな本があることに僕は気がついた。引き抜いて表紙を見る。  タイトルは「んんぶぶだげいせい」と、全くもって珍妙なものだった。僕は興味を惹かれ、その本を持って席へと戻った。雨は未だ止まない。 「その本、なに?」  彼女が顔も上げずに訊いてきた。僕はタイトルを噛まないように読み上げた。 「んんぶぶだげいせい、だ。僕も何かは知らない」 「図書員として、ここにある全ての本を知ってるつもりだけど、私、そんな本知らない」  この珍妙な本は彼女の興味を惹いたようで、ページから顔を上げ、僕の持ってた本を彼女はしげしげと眺めた。 「その奇書、どんな内容なの?」  彼女はガラス玉のような瞳を僕に向け、そう言うので、僕はページをめくって目次を読んだ。 「一篇、この度はありがとう。二篇、生まれる前。三篇、肺呼吸と鰓呼吸。四篇、イマイチド。五篇、ヘビたちの休足」 「なぁにそれ?」 「さぁ?」  彼女は僕の隣に来て、本を覗き込んだ。彼女からフワリとイチジクの香りがする。僕たちはその「んんぶぶだげいせい」の一篇を読み始めた。  ある日不思議な本を見つけた。そんな書き出しで始まる。主人公はどうやら、僕たちと同じ高校生のようだ。  主人公はある日、図書室の隅で珍妙な本を見つけた。タイトルには不思議な言葉が記されており、主人公は興味を惹かれ、その本を借りた。  主人公の印象では、その本は珍妙でどこか不吉な雰囲気を放っていたと言う。  それから、テスト期間や文化祭で忙しく、主人公はその本の存在を忘れていた。しかし、その本はひょんなことから主人公の目の前に現れた。  その本は異様な、不吉な雰囲気を放っており、借りたは良いものの主人公は読むのを躊躇し、机の奥へと仕舞い込んだ。  この物語はどうやらホラーのようだ。淡々とした筆致からそれが伝わる。僕はふと彼女の方を見た。彼女は怯えた目つきをして、文字を追っていた。僕は再び、ページに目を落とす。  それから、主人公はまた本のことを忘れていて、そのまま高校を卒業し、しばらく経ったある日、机の奥から不思議な本が、三度現れた。  主人公は嫌な予感を感じながら長年封印していた本の内容が気になり、表紙を開いてみることにした。  ゴクリという、彼女の固唾を飲み込む音が聞こえ、僕はページをめくる。  そこで彼女は小さく「っわ!」と叫び、僕の腕にしがみついた。そこで、僕は初めて彼女がホラーが苦手だということに気がついた。  結構、意外だった。アンドロイドか何かだと思えてしまう彼女がホラーを怖がるとは、意外だった。 「大丈夫か?」 「大丈夫。悪いけど、それ読んでくれない」 「いいのか? だって、怖いんだろう」  僕は僕の腕にまとわりつく彼女の方を見て言う。 「怖くないもん、続きが気になるから読んで」  そう言われて、僕は仕方なく本を音読した。 「私がその不吉な雰囲気を放つ本を開くと、背後に気配を感じました。異様な気配です。一瞬で人のものでないことに私は気がつきました。 「私の額には脂汗が浮かび、指は震えて止みません。息が荒くなり、眩暈がしました。それほど、背後からキリキリと圧迫感を感じるのです。 「背後の何者かがうめくように何か言っています。私は恐怖心を抑えて、そのうめき声を注意深く聴きました。 ……この度はありがとう……読んでくれてありがとう…… 「そう言っているようでした。私は振り向くと、そこにはもう、誰もいませんでした。私はこの本を母校に返しに行きました。人気のない百科事典の影に隠すように置いてきました。 「あれは……きっと、あの本の作者の思念が現れたのでしょう。長年、読まずに放置していたのに、いざ、本を開くとお礼を言うだなんて、きっと、良い作者さんなのでしょう。 「それから、私は本を買ったり、借りたりしたら、すぐに読むようになりました」  こう、物語は締めくくられていた。僕が朗読を終えると、彼女はやっと僕の腕から離れてくれた。  僕は彼女の体温が残るワイシャツを払ってから、彼女の方を見た。彼女のガラス玉のような瞳は微かに潤んでいた。  そんなにも、ホラーが嫌いなのか。 「全然、怖くありませんでした。良い話でしたね」  彼女は普段の自分を装って、そう答えてるようだが、声が震えていた。雨は未だ止まない。  僕は適当に「そうか」と答えた。雨音だけがしばし、図書室内に響く。それから、心を落ち着かせたのか、彼女が口を開いた。 「それにしてもこの本はなんだろう。作者はどんな人だろう」 「後書きを見てみないか? 何か分かるかも」 「確かに、そうしてみよう」  最後の方までページを捲り、後書きを開く。えーと、なになに。 「私たちはこの本を未来に向けて書いた。この本を読んでくれた人の心の片隅に残り続けることを切に祈っている。だって」 「私たちってことは合作なのかな? 他の篇も見てみようか」  それから僕たちは残りの四篇、生まれる前。肺呼吸と鰓呼吸。イマイチド。ヘビたちの休足も読了した。雨は未だ止まない。  どの篇も独特な書き口だった。どれも不思議な本にまつわるストーリーだった。感動的な話もあれば、冒険譚のような話もあった。そのどれもが珍妙で面白くあった。  読むのに二、三十分費やしたが、雨は未だ止まない。 「ねぇ、あなたはどの篇が好き」  不意に彼女が小首を傾げてきいてきた。 「ああ、僕は肺呼吸と鰓呼吸かな、本の中で魚と人が共存するのは幻想的で興味深い、序盤のミステリー的な展開も気に入った理由だ。君は?」 「私はイマイチドかな。恋に疎い男女が一冊の本に出会って、今一度、自分の気持ちに向き合うようになって、それで付き合うようになるのは綺麗な流れで面白かったね」  彼女は胸に手をあて、文章の一節一節を思い出し、噛み締めてるようだった。  それにしても、物静かな彼女とは思えない口数だ。きっと、この不思議な本「んんぶぶだげいせい」により気分が上がったからかもしれない。 「そうだね、最後の告白シーンは良かった。しかし、一体この本はなんなのだろうか?」  彼女が言った通り、奇書なのだろうか?  彼女もそれが気になっているらしく、顎に手を当て悩んでいる。  僕は今一度、本の表紙を見つめた。 「んんぶぶだげいせい、これってアナグラムじゃないか?」 「アナグラム、確かに、そうかもしれないわね」  頭の中で文字を組み替えると、直ぐに元に戻せた。 「これ、先代文芸部(せんだいぶんげいぶ)のアナグラムになってるよ」 「本当だ。あなた、すごいね!」  彼女は大きな瞳を僕に向け、まるで、偉人でも見るかのような尊敬な眼差しを送っている。僕の心がキュッとしまった。純粋に賞賛されたのはいつぶりだろうか? 「となると、私、もう一つ気がついちゃった」 「なんだ?」 「目次の篇の頭文字だけ読んでみるとさ。このたび、生まれる、肺呼吸、イマイチド、ヘビたちの、で『後輩へ』ってなるの」 「おお、本当だ」  彼女はなかなかの慧眼の持ち主だ。 「じゃあ、つまり、この本は僕たちの先輩、先代文芸部員が未来の後輩に向けて残してくれたものってことか」  僕が言い、彼女は頷く。  それから、彼女は少し言いづらそうにモジモジしながら、けれども、はっきりとした口調で言った。 「ずっと言いたかったんだけど、私たちもこういうの、作ってみない? ほら、私たちって文芸部なのに、小説とか書いたことなかったでしょ」  そう言う彼女の語調は徐々に熱を帯び、一歩ずつ僕に近づいてくる。挙句には僕が少し顔を動かせばキスを交わせてしまいそうなほど、顔を近づけて彼女は小説を書く良さを語った。  彼女の吐息を間近で感じる。 「ねぇ、いいでしょ?」  そう言う彼女は真剣だった。彼女のヒシヒシとした想いが伝わってくる。そんな想いは眩しくって、僕は目を逸らした。頬も紅潮していたかもしれない。  未だ雨がやまない中、僕は力なく答えた。 「別に……いいけど」  彼女は笑みを浮かべ、小さなガッツポーズをとった。僕は創作なんて興味は無かったが、それでも、彼女がこんなに喜んでいるのだから、イエスと答えて良かったと思う。  それから、彼女は窓の外を見て、つぶやくように言った。 「雨止まないと帰れないね」  僕はもう少しだけ、雨音を聴いていたい気分になった。
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