第2話 猛将楊定

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第2話 猛将楊定

怒号、鋼同士のぶつかり合う音。轟く馬蹄。あるところでは悲鳴が上がり、かと思えば耳の近くで矢が空を切り裂く。 馮安(ふうあん)の甲冑にも二、三本の矢が刺さっている。さいわい鎧下で止まっているため大事には至っていない。 ある程度まで進んだところで、あえて馮安は円陣を組んだ。戦術どころか、敵も味方もあったものではない。(えん)人は、ただ憎しみを。(しん)人は、ひとの形をした猛獣の討伐を。互いが、互いをどう、より無惨に殺すか。そればかりを考えている。その狂奔に飲まれるわけにはいかなかった。 「総大将の旗は見えるか!」 「は、押し込んでおられるよう見えます!」 「なんだと!」 左、やや後ろからの声であった。あわてて馮安は馬首を巡らせ、向き直る。見れば、確かに「大燕」のほか、金に縁取られた「慕容(ぼよう)」の旗が戦場のただ中にて翻されていた。 慕容沖を取り囲む兵らは精鋭である。敵味方入り乱れる中にあり、それでも無人の野を進むがごとくであった。 まさに戦場の主、とでも評すべき佇まいではあった。 だが、問題はそこではない。 「ばかな、少しでも鼻が利く将なら、たちどころに狙ってくるぞ!」 馮安が言い終わるか否かの内に、慕容沖(ぼようちゅう)軍の正面が「盛り上がる」。かと思えば、「(よう)」の旗が押し飛ばされる燕軍の向こうより現れる。 「燕将どの、ふだん空を飛んでおられるせいかな! 地をゆく虎の恐ろしさを存じ上げておらぬようだ!」 「楊定(ようじょう)どの、貴公が虎とは、初めて聞いたな! さだめし山猿とばかり思っておったが!」 ひと目で返り血とわかる汚れを満身に浴びる大男、楊定に対し、慕容沖はかけらほどの物怖じも見せないでいる。周りの兵はともかく、慕容沖自身はいまだ戦塵にまみれたところもない。 楊定が、がははと笑う。 「猿! なるほどな、確かにわがふるさとは山あいよ! ならばこうは言えような、燕を狩るのに、虎と猿とでは、どちらが長けておるのか――」 騒がしい戦場のただ中、馬五頭ぶんはゆうに離れているはずの馮安のもとにすら、その風切り音は届いてきた。 「と、なっ!」 破砕音とともに、燕の重装騎兵二名が、ただの長刀ひと振りのもとに、つぶれた。 息を合わせるかのように、楊定の後ろから、武士というよりは盗賊と呼ぶ方がふさわしい男たちが躍りかかってゆく。 慕容沖に動搖は見えない。臣下の血肉を身に浴びながらも、鋭く応戦の号令をかける。 「この身を餌に差し出したかいがあったわ! ここで貴公を討ち取れれば、もはや苻堅(ふけん)なぞ恐るるに足りぬ!」 「そうかね、ちょうどおれも似たような命を賜っておってな!」 前方二名の穴は、速やかに他の槍兵が埋めた。押し寄せてくる山賊に過たず風穴を開け、追い払う。 慕容沖の隣りにいる弓兵たちから二本、三本と矢が放たれるも、楊定は腰に佩いていた剣を抜き、はたき落とした。 「ヌルいッ!」 片手に剣、片手に大刀。遠近それぞれからの攻撃をさばくために手にしたのだろう。それはいい。ただし、実際にさばけるかどうか、は全く別の話だ。 対する慕容沖は、それでも揺らぐ様子がない。ならばまだ奥の手も持ち合わせているのだろう。とはいえ、そこに頼ったままでいるわけにも行かない。 なにかだ、なにかの手立てを。 そう、馮安が考えていたところ。 馮安からは楊定を挟んで、その向こう。 ひとりの男が馮安を見、石に結びつけた紐を掲げ、慕容沖を指さし、ついで指を楊定の後ろに動かした。 行動の意図を、自身の役割、いま立たされている境遇に照らす。 迷っている暇はない。馮安にとって最も望ましい結果に基づいて解釈し、顎先のみで石を投げるべく促す。対手がにやりと笑う。 楊定の大刀が、新たに燕兵を薙ぎ払う。その機を見計らった慕容沖が、懐より小ぶりの弩を取り出し、楊定の眉間に向け放った―― そこに、合わせて。 対手の男より、石が飛ばされた。 楊定は慕容沖よりの必殺の隠し矢を難なく弾きながら、なお石にも目を留めていた。驚くべき対応力では、あった。 だが、その石は楊定を狙わない。 飛んで来た石、正確には石にくくりつけられていた縄をつかみ、馮安は馬にむち打ち、長安に向けて走る。 すなわち、楊定の後方に向けて、である。 「うォッ――?」 縄はうまく楊定の胸甲にかかった。馮安、そして対手が速やかに走り、楊定を鞍から引き剥がす。 古今無双の驍勇とはいえ、馬の力においそれと勝てる者などいない。その巨躯がふわりと浮き、馬の尻あたりに落とされる。 その動きを、どれだけ慕容沖が予期していたのか、どうか。 「楊定を捕らえよ! この機を逃せば、永劫にそなたらが殺され続けるものと知れ!」 とはいえその号令は鋭く、迷いのないものだった。 地に落ちた楊定に、素速く縄が打たれた。慮外の剛力を示す武将である。念の為四肢を外された上で、慕容沖の前に転がされる。 「んぉー……」 四肢には激痛が走り、加えて自らの死が、目の前に迫る。しかし、なおも楊定に揺らぐそぶりは見受けられない。 「見事だ、慕容沖どの。我ながら、こうもたやすく捕らわれるとは思いもよらなんだ」 「なに、おれが何かをできたわけでもない。そなたにたたえられるべきは、馮安どのと――」 いちど慕容沖は馮安に視線を飛ばしたが、そこからすぐに軍中を向く。 「進み出られよ、馮安どのに石をお投げになったお方よ! 楊定どのを捕らえることが叶った殊勲の第一は、そなたである!」 楊定捕縛の報は、速やかに戦場に向け喧伝された。以降見るからに敵手の勢いは減退し、そのため慕容沖らも馬から降りる。 そろそろ、日も暮なんとしている。長安城にこのまま取り付き、うかつに攻めでもすれば、宵闇はむしろ守り手を助ける。 敵手の反攻は許さぬようにし、後方では野営のための準備が始まっている。 その中から、ぬるり、と。 「陛下より直々のお呼び立てを賜りますとは、勿体無きこと」 背筋をぴんと伸ばした威丈夫が包拳とともに進み出る。その口許には、穏やかな笑みが結ばれていた。 ぞわり。 男を目の当たりとして、ひと呼吸にも及ばないほどの、わずかな間。 馮安の、毛穴という毛穴が、開く。 男が馮安の姿を認め、わずかに目を薄らがせる。とはいえすぐに慕容沖に目を転じ、ひざまずく。 「あえて天のご照覧なさる場にこの鄙夫(へんぷ)をお呼び立てくださりましたこと、さて、どう見立てましょう。戦場における僭越は百も承知。なればこの素っ首、陛下のみもとにさらけ出すが良いのでしょうか」 言うと、その襟元を開いてみせた。そのふるまいを眺めることしばし、ふ、と慕容沖が笑う。 「よくよく目端が利くことよ。ならば馮安どののこともご存知の上で、こたびの挙止に出られたのだな?」 「遠目にてお姿は拝見しておりました。その華々しき武勲を耳としましたことも、幾度となく。ならば、こちらの見立を汲んでいただけるものと信じ、投じた次第にございます」 「では、馮安どのを試したのだな?」 つい、苦笑が漏れそうになる。目の前の男を、いままさしく試しているのは、他ならぬ慕容沖自身である。 「いかにも。察していただけねば、陛下の身に何が起こったともわかりませぬ。ともなれば僭越もなにもございませぬゆえ」 その返答を聞き、慕容沖は大いに笑った。 「わかった、わかった! その目端、豪胆さ! 認めぬ訳にもゆくまいよ、大燕広しと言えど、そなたほどの男はそうもおるまい! ならば改めて、この沖の力となって頂きたい。名をお教え頂いてもよろしいか?」 「は」 男は一度襟元を正すと、改めて慕容沖に包拳してみせる。 「姓は慕容(ぼよう)、名は(えい)。かたじけなくも慕容の末席を汚す凡夫にございます」
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