赤い番傘

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 或る日の朝、田崎はいつものように散歩に出かけ、観音寺の築地塀沿いの往来に差し掛かると、一段と凛とした。彼は少しでも江戸時代の名残を感じる、この通りを好んで歩き、武士を先祖に持つ血が騒ぐのか、身が引き締まる思いがするのであるが、何故だか、今日に限って首元がむずむずして来た。で、虫の知らせのように感じていると、上空に黒い雲が立ち込めて来て、やがて雨がパラパラ降って来た、その時だった。 「傘はいらんかえ~」と背後からハモった声が聞こえて来た。  田崎はびっくりして振り返ると、赤い番傘と青い番傘をそれぞれ差した青年二人が仲睦まじそうに立っていた。  その二人が醸し出す一種独特の奇妙奇天烈な風采に瞠若たらしめられた田崎は、赤い番傘を差した青年にそれを差し出された。 「あげようか」  江戸文化が好きな田崎は喉から手が出る程、欲しくなって血を思わす赤黒くて生々しい色に見入っていると、雨足が酷くなって来た。 「ほら、雨が強くなって来たから、ね、ね」と青年に勧められた田崎は、もう迷いなく赤い番傘を手に取って、さっと差した。 「ふふ、めちゃめちゃ似合ってる~アンサンブル~」と青年二人はまたしてもハモると、相合傘になって踵を返し、田崎からいそいそと離れて行った。 「お、おい!君たち!」と田崎は呼んでみたが、彼らは足早に突き当りの三差路まで行くと、左に折れて直ぐに田崎の視界から消えてしまった。  な、なんなんだ?あいつらは?ボーイズラブか?それにしても何でくれたんだろう?と田崎は端倪すべからざる謎めいた二人に呆気にとられ、暫くその場に佇んだ。  雨はそれからも降り続けたので田崎は赤い番傘を差した儘、自宅に向かった。その道々赤い番傘から滴り落ちる雨水が赤味を帯びて見えたので染料が溶けてしまうんだなと思ったが、番傘の赤色が色褪せる様子はなかった。それもそうだが、赤い雨水の雨音が妙に際立って不気味に耳朶に響いて来るのも奇怪で錯覚か気のせいかと思いながらも鳥肌が立ち、総毛立ってしまうのだった。  それでも田崎は不思議と赤い番傘を気に入ったので、それからというもの雨の日は何処へ行くにも愛用し、自邸の部屋でも自社の社長室でも飾って眺めたりして仕舞いには番傘に取りつかれたように雨の日でなくても肌身離さず持ち歩くようになった。  それと共に田崎の会社は左前になり、赤は縁起が悪いからかと思いながらも赤い番傘を所有し続けたら経営は悪化するばかりで文字通り赤字になり、遂に倒産に追い込まれた。  田崎は先祖が武士ということもあって武士に憧れ、鑑定書付きの本物の日本刀の大小を持っていたが、斯くなる上は切腹自決をしようと臍を固めた。それ程までに武士への憧憬は強烈なものがあり、死ぬ潮時が来たと思ったのだ。  介錯は腹心の部下である専務の永田に任せ、永田は飛び降り自殺する腹積もりでいた。  だから場所は会社ビルの屋上で執り行われた。大の方を持たされ、ガタガタ震え蒼褪める永田。その気色から窺える通り彼には介錯仕る腕が無かった。それだから、その惨状たるや地獄絵のようになって田崎は辞世の句を詠んで小刀で切腹した後、それこそ三島由紀夫がそうなったように落ちなかった首の深く切り込まれた刀痕から噴水のように血潮を噴き出し、腹からも血塗れの腸を露にしながら暫く蛇の生殺しのようになった。  何せ首には血管と共に神経が集中しているから、のた打ち回りながら想像を絶する激痛に苦悶し、呻吟しなければならなかった。その断末魔を見届けるに忍びなかった永田は、悲鳴を上げながら屋上から飛び降りた。  実は永田の先祖は江戸の世の或る雨の日、観音寺の築地塀沿いの往来で田崎の先祖の辻斬りに遭って田崎同様に馘首し損ねられ、差していた番傘を生血で赤く染め上げたのだった。その先祖の返報を永田は結果的に成し遂げた次第だ。で、こうなるように仕組んだのは他でもない、あの青年二人に化けた貧乏神と死神であった。
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