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従業員専用休憩室に連れて来られ、簡素なソファに座らせられると、千田さんは唐突にジャケットを脱ぎ始めた。
「千田ナイトマネージャー?!」
「あ、やましいことするためじゃない!」
ナイトマネージャーが顔を真っ赤にして首を横に振って、こちらにジャケットを差し出した。
「急いでこれのボタン縫い付けてもらえる?!このあとCEOの元へ行かなきゃいけないのに、みんなバタバタしてるみたいで、裁縫できる子いなくてさ」
「は、はぁ。ソーイングセットでなんとかなればやりますが」
メガネを返して貰い、しっかりと掛け直した。
てっきり配膳スタッフの方へ行かされると思っていたから驚いた。じゃなきゃハウスキーピングでもするものだと思っていたが。
専門業者に外注しているようだし、それはなさそう。
ソーイングセットを持って来てくれ、千田さんは目の前の椅子にもたれかかって、深く腰掛けた。
「あー助かったよー。替えのスーツさっきクリーニングに出してしまったし、買いに行こうとしたらお得意様と鉢合わせしちゃって時間無くなったし、ごめんね、初仕事が縫い物で」
「いえ、忙しいですよね」
「夜間はいろんなトラブルに見舞われるし、昨晩も野良犬が迷い込んできたとかで疲れたよ〜」
そんなトラブルあるんだと思わず口元が緩む。
なんだか千田さんは副支配人らしくなくて、話しやすい気がする。
「野良犬は捕まえられたんですか?」
「そうそう!そのボタンがキラキラしていたおかげで、おびき寄せられたんだよ。
噛みちぎられちゃってたみたいでね」
ボタン回収するのに手間取ったんだーと、まるでここにずっといるスタッフだったかのような口調で言われて、笑ってしまった。
「千田ナイトマネージャー、緊張解そうとしてくれてるんですね。ありがとうございます」
ネクタイを緩めていたところだったらしく、千田さんはポリポリとこめかみ辺りをかいた。
「恥ずかしいなぁ、気遣いってバレちゃってたか。まだまだだなぁ、俺も」
要らぬ一言だったかと私も口を押さえると、千田さんは気にしなくていーよと笑ってくれる。
「それにしても渚お坊ちゃんの彼女ね」
預かったジャケットのボタンを縫いつけていると、千田さんが紅茶を入れてくれようとしていた。
「はい。高校生の時に付き合っていたのですが、大学進学の時に別れて、数日前に復縁したといいますか」
「えっ?!数日前に復縁したばっかなの?!おわっあっち?!」
「大丈夫ですか?」
なんかそそっかしい人だなぁ。
まるで大型犬みてるようで、ポットで火傷している千田さんに、冷水で冷やしたタオルを差し出した。
「暫く水で冷しておかないといけませんね」
「面目無い。まさか、渚お坊ちゃんの初恋相手が婚約者だなんて思ってなかったもんで」
アテテーっと冷水に冷して言う千田さんのフレーズを聞いて、耳を疑う。
「え?婚約者??」
ソファに座り直そうと背を向けていたが、くるりと振り返り、千田さんのそばにツカツカと歩み寄った。
「結婚を考える。という段階ではありますが、まだ婚約者という段階ではないはずです」
多分。いや、私たちはお互いをもっとよく知っていこうね。という風だったはずだ。
けれど、千田さんはキョトンとした表情を浮かべたのち、ニヤニヤとした。
「CEOが君を採用したって時点で不自然。
しかも、わざわざジェネラルマネージャーにまで彼に抜擢させて、君と共にいろんな部門に挨拶に回ったんでしょ?
それって、渚お坊ちゃんの“婚約者”か“婚約者になりうる存在”ってことだからだと思うけど?」
不自然とは思っていたけど、そういう意味だったのだろうか?
いや、今朝牽制されたばかりだ。
首を横に振って否定をした。
「野木社長、、、CEOは私を嫌ってると言ってました。なので、婚約者はあり得ません」
しかし、彼は盛大に笑い出した。
「あの野木社長が?!凄いね、君!
いや、間違いないよ!君はCEOに認めて貰ってるから大丈夫!へぇ、面白いなぁ」
興奮しながらポンポンと肩を叩かれて、唖然とした。
今の話でどうやって認めてもらえてると思えるのだろう。
「ワクワクするなー。結婚式は当然このエデンガーデンホテルで挙げるでしょ?お金がいくら動くのか考えただけでワクワク、ザックザク!」
どんどん飛躍していくから、もうどう話したらいいかとあぐねいた。
「あの、まだそこまで話してるわけじゃ、、、。
それに、私の家は普通ですし、野木社長にとってはなんの利益もない話です」
再びソファに座り、スーツから伸びた糸と針を手に取って縫い始めた。
「CEOのことあんま知らないだろうから言うけど、あの人天邪鬼っていうか、ツンデレなんだよ。すごい分かりづらいけど。
期待してる人に対して厳しいし、ツンツンしまくるけど、たいして興味ない人にはにっこり笑顔で指示を出すだけなんだ。
でも、君は嫌いだとか牽制されるようなことを言われたんだろう?」
冷し終えた手をタオルで拭い、再び紅茶のポットに茶葉を入れ、お湯を注ぎいれた。
頷くのと同時にボタンをつけ終え、糸を断ち切った。
「CEOに気に入られた人は、その期待を裏切らないためにもその牽制を押し抜けて上り詰めた。
上に抗う力を持てって意味だと思うけどね。
この意味、君はわかる?」
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