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「、、、、いや、解りません」
「だめだこりゃー」
あちゃーと笑って言う千田さんに、ボタンをつけ終えたジャケットを差し出した。
「やー、流石女の子!そして役員秘書さんだ。俺の火傷もフォローしつつ、しっかり話してくれてありがとうね!
CEOにボタン取れてるの見られたらニコニコされちゃいそうだったから、一安心だよ」
危ない危ない!と眉根を下げて笑う千田さんは、ジャケットを受け取って袖を通した。
千田さんは事情を知らないから婚約者だー!と言うが、野木社長は私を餌に、野木くんを青柳組から引っ張り出したいだけだと思う。
嫌いだと言ってきた人が、いきなり手のひらを返して婚約者扱いすることなどあり得るのだろうか。
しかも、何も肩書きもない私なんかを。
野木社長を見る限り、野木くんを大切にしているのは良くわかった。
良いビジネスパートナーだと野木くんは言っていたけど、それはきっとCEOとして取らなきゃいけない立場だったのだろう。
野木社長は、何か企んでいるのだろうか。
でも、もし、千田さんの言う通りだったのなら、なぜ手のひら返しをしたのだろう。
何も後ろ盾のない私に。
「千田さん、ネクタイ直します」
なかなか綺麗なシルエットにならないのを手こずっていた千田さんをみかねて、スルッと緩めて再び締め直した。
「これで完璧です」
口元を緩めて微笑み、サッと身を引いてソーイングセットを片づけて、出してきた場所へ元に戻した。飲み干した紅茶のセットを洗い場で洗って拭いていると、千田さんはそれを眺めていた。
「渚お坊ちゃんが君に惚れた理由が分かったかも」
キュッと洗い場の蛇口を締めて向き直ると、千田さんは顔を赤くしてこちらを見下ろして言う。
「俺を誘惑しちゃだめだよ?!」
、、、?
「はい?」
目が点になるのは、私の理解力が足りないからなのだろうか?
かっかっと耳まで赤くしているが、寝不足でおかしくなっているのではないだろうか。
眉間に皺を寄せていると、千田さんはさっきまでの勢いが削がれ、目も合わせてくれなくなった。
なんか、気さくで良い人だと思ったのに、変な人だ。
よくわかんない人すぎて、苦手かもしれない。
「あの、ちなみに部門はどちらなのでしょうか」
「そうだ!こんなのんびりしてる場合じゃなかった!俺が持ち上げられる女の子が必要だったんだよ!」
また腕を引かれてピューッと連れて行かれる。
なかなかに忙しない人だなぁ。
フロアに出ると、さっきまでの忙しなかった千田さんの雰囲気がピリッとしたものに変わった。
掴まれていた腕も離され、ゆったりした優雅な歩き方にかわり、ゆとりのある表情で廊下を歩いて行く。
「必ず顔は前を向いて、お客さまの視線に合わせて歩くこと。フロア内では絶対走らない。笑顔を絶やさない。困っている人がいたら必ず声をかけるか、そばにいる人に伝えてね」
立ち居振る舞いは星河グループでも学んだが、ここはさらに上級ホテルだ。
しっかり千田さんのやることを見て学んでいこう。
目の前を通りかかったお客さまに対して紳士的に挨拶をしていく様や、ホテルマンとして基本を丁寧に教えてもらった。
外国人観光客が通りかかると、千田さんはすぐにその人たちの後を追って行った。
特に変わった様子はなかったのだが、どうしたのだろう。
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