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東側の客室へ向かうと、ハウスキーパーたちがリネン回収ワゴンを押して行くのが見えた。
薄茶のベストに白の手袋をはめ、マスクを身につけている。
その中でハウスキーパーたちと野木くんが話しているところだった。
彼が仕事をしている。その姿が不思議に思えた。
普段は私のために笑顔で率先してやってくれる彼は、ホテルのために仕事をしている。
彼が今生きているその世界は、一体どんな世界に見えているのだろう。
清楚にまとめられた黒髪、それに似合わない灰色がかった青い瞳、スッと通った鼻筋、健康的な肌。
少し幼いと思っていたその横顔は、いつのまにか大人っぽくなっていて、7年という歳月を思い起こさせる。
高校生の頃とは違うドキドキを今感じている。
あぁ、私、野木くんに恋してるんだ。
ふと振り返る彼の視線とぶつかり、柔和に微笑まれる。
胸の中に響く鼓動しか耳に聞こえてこない。
私はこの優しい目をする彼を好きになった。
守ってくれるから、好きと言ってくれるからだけじゃない。
私が彼を幸せにしてあげたいと、切に思ったのだ。
改めてそう思うと、胸の中にあるプレッシャーや劣等感も吹き飛んでいくようだった。
私は彼が好き。
有言実行しようと努力して、手を抜かないところも、約束を守ろうもするところも、本当は繊細で、傷付きやすいところも、甘えてくる彼も大好きだ。
ベッド上の激しい彼はまだよく理解できてないのでこれから分析しようと思う。努力します。
泣いてるところに興奮とか、苦しんでるのが可愛いとかよくわからん。
歩み寄って来るや否や、野木くんに腕を引かれて客室の一つに入った。
「本当はイチャコラしたいところなんだけど、時間がないからテキパキ点検行こー!」
「はい、ジェネラル・マネージャー!」
ベッドメイキング、照明、カーテン、絨毯、浴室、エアコン、洗面台、リネン、アニメティ、その他色々!!
細かなチェックを素早く確認していった。
タブレット端末を手に、客室の点検完了や、メモ書きなどをサラサラとタッチペンで入力していく彼を見るたびに、綺麗だなと思ってしまう。
なんでそんな見目麗しい姿なのか!!
高校生の時は毎日、彼の愛情表現に困惑したり、なんで好きなんだろう?と考える毎日だったし、勉強で彼に追いつこうと必死だった。
自分の感情の『好き』というものだけに焦点を当てたかったが、度重なるトラブルで恋という感情を追えなかった気がする。
そしてこの、コツコツと裏仕事する感じ、凄くホッとする!!!
社長の顔色や先輩のタイムスケジュールに合わせた、あのひたすらに人の顔色を伺っていなきゃいけないストレスから解放されて、幸せだ。
あぁ、他人のスケジュールにバタバタしなくていいなんて幸せ。
やっぱ私秘書に向いてる性格じゃなゃない。
ノウハウは糧になったが、どうもしっくりこなかった。
千田さんが外国人観光客と話している姿を見て、どれほど羨ましく思ったことか。
私もお客様と話がしたい。
日本のおもてなしで、楽しかったと言われたい。
ここは何としてもフロントに志望したい。
コンシェルジュになりたいとも思うけど、私みたいなペーペーがコンシェルジュなんて畏れ多くて志望すら出来ない。
そういえば、共同学園祭の誘致の時、“コンシェルジュみたい”って言われたのがキッカケで、ホテル業にしっかり携わってみようと思ったんだ。
ホテルの鏡とされているコンシェルジュ。
エデンガーデンにも、絶対に切りたくないというコンシェルジュがいる。
その襟元にはコンシェルジュ会員の金色の2本の鍵が交差したバッジ、レ・クレドールが付けられていて、物腰柔らかな老人、四辻 智徳さん。
椅子に座ったきり、空き時間は読書だという。
暇さえあれば、バイクに乗って一人旅を楽しむのだそう。
そうやって見聞を重ね、数多な出会いに感謝している。と、数年前に出版された本に書いてあった。
あとで挨拶行った時にサインもらえるかなー。
「乙葉、めっちゃ生き生きしてるね。こういう仕事好きなの?」
テキパキとこなしていく単純作業を楽しそうにしているのを見て、野木くんはクスクスと笑っていた。
「同じことの繰り返しって安心できるから、つい。予測不可能な事に対しての反応に弱いみたい」
安寧な生活をしてきたからこその反応だろうか。
野木くんは乙葉はそういうイメージあるよねと納得して頷いている。
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