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野木くんを連れて、人気の少ない従業員用通路まできた。
細い通路にはガイドポールが並んでいる。
「野木くん、どういうこと?」
振り返り、彼の顔を見上げる。
前髪の一部が乱れているのすら色気をはなっていて、思わずドキッとした。
胸元に光るエデンガーデンの一員であるピンバッジが、光を反射して輝いている。
彼は憂いた瞳で眉を歪めていて、申し訳なさそうに私を見下ろした。
「ごめん。まさか、親父があんな強硬手段取るとは思ってなかった」
「“婚約者”のこと?」
コクンと小さく頷く彼は、深くため息を吐いた。
野木くんと野木社長はどのような話で彼がここにいることを許可したのだろうか。
「俺は、乙葉の両親が少しでも納得出来る様に、このホテルに本腰を置いて、働いていることを強味にしようとしたんだ。
極道で入手したお金では納得出来ないだろうから、自分自身で働いたお金で、乙葉を幸せに出来ることを証明したくて。
総支配人になったのは、若頭として間違いを侵さないように、、、。
組のみんなも、この会社のみんなも、乙葉を守って行くつもりでいた。
ある程度の時期がきたら、組から抜けることを視野に入れて考えていたんだ」
そんな風に考えてくれていたの?
思わず頬が熱くなる。
不純な動機とか思って申し訳ない気持ちになった。
でも、こうして隠し事なく話してくれたことが素直に嬉しかった。
いつも、私に心配かけまいと話してくれなかった彼の考えを、聞けたことに安堵してしまう。
「野木社長はなんで働くことを許可したの?その時に条件を出されたの?」
「出されたよ。
売上を今より2倍にすることだって。
正直、毎月固定化されている売上を2倍にするのは厳しいと思った。でも、俺には乙葉がどうしても必要だし、君のご両親に堂々と、君が“欲しい”と言える男になりたかったんだ」
プロポーズはまだ正式にはされていない。
なのに、今の野木くんの気持ちが伝わってくる話で、心は既に満たされている。
「そんな風に思ってくれていたなんて、、、野木くんばかり大変なことになってるよ」
抱きしめたくなる感情をどうにか抑えた。
私も野木くんも、お互いの親に認めてもらおうとしていた。気持ちは同じなのだ。
「私も、野木社長にどうしたら“渚”くんに釣り合う人になれるのか、どうやって振る舞ったら良いのかって考えてた」
「えぇ?そんなの気にしなくて良いのに」
「気にするよ!世界を股にかけたホテル御曹司だよ?!」
「そんなこと気にさせないくらいに良い男になってみせるから。
プロポーズもまだ出来てないのに、こんなことになってごめん。
まだ乙葉にはプロポーズできないし、タイミングも今じゃないと思ってる。
俺にはまだやらなきゃいけないことが残ってる、、、。
段階を踏んで、、、、」
話している途中に野木くんの言葉が止まった。
彼の灰色がかった青い瞳が、こちらを瞠る。
「なんで泣いてるの?」
野木くんの大きな手が頬を撫でると、頬が濡れていたことに気がつく。
「あれ?何でかな」
ポロポロ、ポロポロととめどなく溢れてきた涙は、彼の手を濡らし続けた。
「、、、あんな展開になったんだ。心の準備も出来てないのに不安になったんだよ」
私よりも彼の方が心の中を理解してくれてるみたいで、優しい声音につられて、更に涙が溢れてきた。
こんなことで泣くなんて情けない。
だけど、得体の知れない大きなものが私の背中にのしかかってきて、怖いと思った。
彼は今後この野木グループのトップに立つかもしれない。その時には、青柳組との関係性はどうなってしまうのか、私には想像も出来ないでいる。
「不安にさせてごめんね」
力強い腕が背中に回ると、安心させるかのようにぎゅっと抱きすくめられた。
ここがホテルの従業員用通路だということも忘れていて、涙が治るまで抱きしめてくれていた。
「遅めのランチ食べに行こ。ここのフレンチ美味しいよ?」
「フレンチ?」
「うちのホテル自慢でもある2つ星だよ。食べたら元気出るから」
これも研修の一貫としてだけどねと笑って言う。
メガネを取り、ハンカチで涙を拭おうとポケットに手を入れた。
そのポケットに、先程野木くんが何かを入れてくれたことを思い出す。
指先に触れた感触で、何かわかった。
野木くんには先にレストランへ向かってもらうよう伝えて、それをぎゅっと握る。
彼が入れてくれていたのは、コンタクトレンズだ。
メガネの意味を理解したからか、コンタクトレンズを持って来てくれたのだろう。
なんでもお見通しすぎて、彼無しの人生はやっぱり考えられないと思った。
好き、とても、大好きだ。
私の声をちゃんと聴いて、不安を取り除こうと懸命に頑張ってくれている。
私がこんな泣いてばかりいては、野木くんをガッカリさせてしまう。
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