1 ひとりたび

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 濱家は安曇野に別荘を持っていて、伯母の涼子は演奏会のオフシーズンである8月を、ここで過ごすことが多かった。開業医である伯父の信介(しんすけ)は、お盆休みになると、こちらへやって来る。奏人は5日間安曇野に滞在し、信介の顔を見てから、北海道に戻る予定だ。 「お疲れさま、お茶淹れるわね、ゆっくりして」  伯母は家の前庭に適当に車を停めた。奏人の家の周辺では見ることがない、濃い緑の背の高い森。その中に、家々がお互い少し離れて建つ。さわさわと風が吹き、蝉が鳴いていた。  奏人は自分の家とは別世界のような、洋風のリビングに通されて、ソファに腰をおろした。母から持たされたお土産を、リュックから出す。伯母は冷たい紅茶を出してくれた。その華やかな香りが、ちょっと自分を大人にしてくれるような気がした。 「あの、おばさん、僕のことはお構いなく……宿題とか本とか持ってきてるし……」  奏人は手土産のお菓子を差し出した。一応母から、そう言うように言われていた。 「あらやだ、そんな挨拶をするように(しつ)けられてるの? 可愛くないわよ」  お菓子を受け取った伯母に笑われて、奏人は恥ずかしくなり(うつむ)く。 「分かってるわよ、かなちゃんは世話のかからない子だから私もOKしたんだし」 「……はい」 「食べたいもののリクエストは承るわ、のびのび過ごしてちょうだい……ああ、明日ピアノを聴かせてね」  ほどなくして伯母は、グランドピアノのある音楽室に向かった。奏人は鞄からノートを出して、大きな窓にかかるレースのカーテンを開け、その場に座る。この窓から見る庭が好きだ。黄昏始めの光を浴び、木々の葉が不思議な色に輝いていた。  奏人は伯母の弾くモーツァルトをBGMにして、4Bの鉛筆をノートに走らせる。家ではありえない、至福の時間だった。
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