売る男、買う男

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売る男、買う男

 酒場の裏口で、暗い路地に積まれた樽に手をつき、後ろから男に犯される。それが今の俺の仕事だ。  女のような格好は服をたくし上げればすぐに突っ込めるように。濡れそぼった尻穴は男に口淫をしながらあらかじめ自分で十分に慣らしておいた証拠。  上品とは言えないこの場所では一夜の相手というよりは欲を満たす穴を求められることが多い。自分で慣らさなければ、痛い目に遭うのは俺の方。 「はぁっ……あ、ああっ、締まる……!」 「あんっ、あっ、いいっそこ、だめえ……っやんっ、」  立ちバックで犯されながら尻に力を込めておざなりに腰を揺らし、媚びた声を上げる。それでも今日の相手は白けることもなく俺の腰を掴む力を強めた。そのことに心中で舌打ちを一つ。  単純に痛いというのもあるが、それ以上にこれでは痕になってるかもしれないと思った。そういうものを付けられると、次の相手を見つけるのはやめなければならない。身体に痣のある状態で裸に剥かれ、痛みを与えられることが好きなのかと嬲られるかもしれないからだ。  前に一度欲張って引っかかって以来、リスクの高いことはしないようにしている。ロクデナシに当たると次の日どころか数日間収入が見込めないし、そうしている間は物乞い同然になるからだ。心身共に傷を負っては死んでしまう。 「あ、だめ、だめ、やんっ、あ、すごい、おく、おっきいの、当たって……!」 「あ、あっ、く、あ、ああ、いく、いくっ」 「あんっ、あっあっあっ、あ、あああ、あん!」  男の動きと声に合わせて声をあげ、ぐっと尻の中を荒らすものを締め付けると、男は俺の中に深く突き刺したままで欲を溢れさせた。ケチってこんな場所で盛った上に中出しとか……! こいつ! 料金上乗せしてやろうか!  ビクビクと俺の中で脈打つそこはじわりじわりと熱を出し、それが収まると俺の中から抜け出て行った。ずるりと柔らかくなったものが抜け、その感覚に肌が粟立つ。 「すげーよかった……」 「あ……っ」  覆い被さられ、俺のぶら下がったものに手がかかる。そのまま弾けるまで手淫されて、俺は手をついていた樽に寄りかかって息を整えた。力が全く入らないわけじゃないが、気怠さが身体の中を巡る。手淫は誰が相手でも極端にハズレを引くことはないから嫌いじゃない。  ぐったりとしていると、また尻の穴に指を突っ込まれる。男は楽しそうにそこから出る水音を味わって、中で出した自分のものをほじくり出した。汚れた指を、俺の内腿に擦り付けてくる。締めとばかりに尻たぶを揉まれた。 「サンキュ。また頼むわ」 「……機会があれば」  だらしなく開いた胸元に手を差し込まれ、不埒な手がからかうように乳首をかすめる。ぞくりと疼きを感じたが、相手には覚られなかったようだ。そのまま、服の中に金を落として男は去って行った。  それを見送って男が姿を消したのを確認してから、簡単に尻を拭って酒場へ入る。戸を閉めてすぐに金の勘定をしてみると、銀貨三枚が入っていた。宿代はケチられたがしつこくもなかったし、中出しされたことを踏まえても稼ぎとしては悪くない。娼館のような組織だったものじゃなく、俺は個人でこの仕事をしているから金銭関係の設定なんかは一律じゃなくその場で決められてしまうことが多い。割に合わないハズレを引くときもあるから、それを思えば今回はまともなほうだ。 「お疲れ。休憩入る?」  頭の中で素早く計算して少し口元を綻ばせたところで、酒場のマスターに声をかけられた。彼は優しい人で、俺がここで身体を売るのを許してくれていた。俺の身体を穴として売れるように調えてくれたのもマスターだ。 「ちょっと身体洗う。そんで、今日はもう客は取らない。こっち手伝うよ」 「分かった。湯の準備はできてるから」 「ありがとう」  俺は、記憶喪失、ということになっている。  ヴァーチャル・リアリティ(VR)という言葉が『脳内再生型』だの、『ダイブ型』だのという言葉を内包し始めて久しい。今までディスプレイで楽しんでいた仮想空間、仮想現実を、まさに実体験しているかのように、自分の意識がそっちへ行ってしまったかのように体感できるのが今におけるVRというものだ。  そんなVRを利用したオンラインゲームは多く、俺も提供される娯楽の一つとして、健全な男子高校生として親の許可が出た小学校高学年の頃から広く浅く触ってきた。ゲーム内の自分の容姿を徹底的に弄るのはそれだけでも中々に楽しく、友達の一人からは人形遊びに近いその行為に「女子か!」と言われてしまったが、結構楽しんでいた。  幅広くゲームタイトルのチェックをしていた俺は、そのうちの一つ、『Arkadia』というタイトルも少し触ったことがあった。  プレイヤーは神々の創ったアルカディアと言う世界に『客人(マレビト)』として招待され、そこで神々の加護を得て様々な技能(スキル)を習得し、レベルを上げて、モンスターを倒したり、ダンジョンの宝を漁ったり、薬や家を作ったり、動物を育てたりする。目的の設定されてない、いわゆる生活系のゲームだった。  その世界(アルカディア)で、俺は身体を売って生活している。厳密には、そうせざるを得ない状況へ追い込まれた。  オカルトな方面で"ゲームの世界から抜け出せなくなくなった"だの、"ログアウト不可能になった"だの、"ゲーム世界に取り込まれた"だのという話は、実は珍しくもなんともない。フィクションとしてはよくある方で、こういった『ハマった』話は実体験的怪談話の定番となっている。  まあ、まさか本当にそんなことがあるなんて思ってなかったし、それを自分が体験する羽目になるというのもまた同じ。しかも俺は『Arkadia』において最も勢いのある歓楽街を持つ都市、《ガクロウ》の場末で生活するしがない男娼キャラに『ハマって』いるような有様だった。平たくいうのであれば、自分の作ったキャラのまま、ポジションだけが、予め運営側で設定・用意されているモブキャラクターのものになっていたわけだ。  それはつまり、ゲームで言うところの神々の加護……身体能力の補正とか、最初に初歩的なスキルを五つ選べるだとか、そういう恩恵が全くないってことで。本当に正真正銘自分の力でなんとなしなくちゃいけなくて、でも先立つものも何もなくて。挙句の果てに街から出ようとすると問答無用でぶっ倒れて、目が覚めたら次の日の朝。男娼としての自分の部屋に強制的に戻っていた。  何度も検証した結果、男娼設定(ポジション)を大きく逸脱する行為をするとそういう現象が起こることが分かった。  街から出られないからモンスターも倒せない。だからレベルも上がらないし、レベルが上がるとスキルを取得やステータスを上げるのに必要なポイントを得られるがそれも得られない。モブポジションにハマったらしい俺はそもそも、レベルだとかスキルだとかと確認する術さえなかった。  ゲームであれば、そして俺が客人(プレイヤー)であれば、もっと状況は変わっていただろう。選択肢もあっただろう。自分の状態やアイテム、スキルを確認できるメニュー画面が見れなくても、ゲーム通りスキル習得イベントをこなせばあるいは、なにかしらの突破口となったかもしれない。  けれど俺の立ち位置は今プレイヤーではなく、本来なら人間が操作しない、人工知能によって動き、会話する程度のNPC(非プレイヤー)。モブだ。モブにあまりあるモブなのだ。そしてどうやらそういうモブにはプレイヤーのようにスキル取得イベントが起こらないようなのだ。そればかりか、部屋へ強制送還される始末。  俺には男娼という設定に沿って生きる以外に、道など残されていなかったのである。  ゲームにハマるのはまだしも、野郎にパコパコハメられる羽目になるなんてな。  とまあ、そんな軽口を叩けるようになったのはつい最近で、自分の状況と立場を飲み込めるまで随分かかった。  最初、俺を発見したのはマスターだった。酒場に顔を見せない俺――ややこしいがこの時点ではそういう設定であるモブキャラクターだ――を心配して見に来てくれたというのだからマスターはいい人だと思う。  混乱し、怯えさえ見せて取り乱した俺を、マスターは辛抱強く待ってくれた。ここがどこなのか、俺が――モブが――どういう生活をしていたのか。  俺はそれを受け入れられなかった。プレイヤーとしての特権を何一つ持たないために、苦い思いで酒場の給仕と、連れ込み宿として機能している上階の掃除のみを手伝うことになった。その中でゲームではありえない程の痛みも経験し、痛みや死への恐怖から、今は冒険心も薄れて良くも悪くも小さく収まっているのは不幸中の幸いだと思いたい。  マスターは俺にいろんなことを教えてくれた。生活する上で必要なことは勿論、簡単にできるからと生活魔法なるものを教えてくれた。これはゲームにはなかったスキルのようだったが、だからだろうか、俺は覚えることが出来た。  生活魔法はかまどに火をつけたり、綺麗な水を生成したりと素晴らしく使い勝手がよく、体や衣類、部屋を綺麗にするのにも使えた。俺がそれを夢中で使ってしまって、使いすぎの疲労で倒れた時は苦笑されたのも良い思い出だ。  マスター自身は下を見れば余程上品だが、職場である上等ではない酒場(遠吠え)は、その周辺も含めて治安が悪い。絡まれ脅され身ぐるみを剥がれるのはまだマシで、最悪殺されることもある。  できる限りの自衛をしていたものの、結局俺は身体を売ることを決めた。身寄りのない者に対するレイプが横行していたし、この街は、属さないものに対して保障はしない。一人で生きている者には最大限の自由があるが、だからこそ誰にも守られない。  俺はタダで好き勝手に身体をいたぶられ、人としての尊厳を傷つけられるより、割り切って、そこそこに扱われ、金をもらった方がいいと結論づけた。  自分にそんな強かさがあったことには驚いたが、男としてのプライドがどうのと言ってくるようなやつは周りにはいなかった。給仕仲間は勿論男も女も身体を、股を開いているわけで。だからだろう、決めることができた。  酒場での給仕は、酒場側に雇われてするものじゃない。男娼や娼婦が自分を売るために行われている。チップは酒場から出ることもあるが、たかが知れている。それでも俺は宿の方の掃除のおかげで弾んでもらえたが、身体を開いて得る額に比べると慎ましいと言うには厳しく、率直に言ってシケていた。食うに困るほどに。  記憶が欠如しているということで通していたため、身体を売ると決めた俺はマスターに仕込んでもらった。俺のポジションだったモブにもそういう設定があったらしく、期せずして同じ道を辿ったと言える。  ここで念のために言っておくと、男娼は女も相手にする場合もあるし、相手が男でも、自分が突き立てて喜ばせることもある。  俺は仕事として女を喜ばせることには向いてなかった。自分がやるだけならともかく、サービス業としてそういう気持ちの切り替えさえできなかった。男の場合は選択肢の中にさえ入れられなかったのは仕方がないだろう。  幸か不幸かそういう風に男を買う人間は圧倒的に少なく、しかもその手の人種は金に困ってない場合が殆どで、男を買うにもよくよく吟味をするのだという。だから男娼であったり男ながらに身体を売るというのは、イコール挿入される側ってことなのだ。  俺としてもあらかじめ自分で心身共に準備ができるし、収入が見込める。嬉しくはないが、稼ぐ手段があるのはありがたかった。  マスターは優しく俺の身体を開発してくれた。わざと痒みを誘うために羊の毛を俺の穴の中に入れて、傷薬としても使われる即効性のある軟膏を塗り込め、尻の穴に指を突っ込まれることに慣れさせた。痒みをどうにかして欲しくて俺は腰を振ったし、マスターが中を指で引っ掻いてくれると気持ち良くて泣くほどに乱れた。それは性的ではないものの間違いなく快感であり、前を手淫と口淫で責め立てられながらの開発行為は一ヶ月ほどかかって無事、終了した。マスターが手慣れていたこともあるだろうが、穴を弄られることに抵抗がなくなった頃には、マスター相手なら俺もそれなりのことはできるようになっていた。  手ほどきを受けて男娼として酒場に立つようになってから、もう二年が経つ。  二年という時間と、男娼という仕事は俺の中のいろんなものを潰し、押し流し、苦しめた。それでもなんとか腐る手前で踏みとどまっていられるのはマスターがよく気にかけてくれるからだ。給仕仲間もお互いがライバルながら、酒場を仕切るマスターの人柄のせいだろうか、気さくな奴が多く、よく外に連れて行ってもらったり、他愛のない話をしたり、美味いものを分けたりした。あいつらには感謝してる。  帰りたい、という思いはある。が、帰れる見込みもないし、そんなことを考えていると気分が塞ぐから、俺は出来るだけ未来のことを考えないようにしている。  汚れを払う生活魔法は便利だが、やはり風呂や、湯で濡らした手ぬぐいで身体を拭くのは気分がいい。  俺はマスターから桶一杯分の湯を貰い、娼婦向けに開放されている一室を借りて身を清めていた。使用料としてチップを置くか、部屋を綺麗に使い、掃除しておくのが条件だ。  腰は思ったより酷いことにはなってなかったが、精神的にもう今日は誰かを相手にするのは無理そうだった。気持ちが完全に萎えていた。仕事と言えど奉仕するというのは気力を使う。仮に楽しんでやっていたとしても、だ。  尻穴に指を突っ込んで中まで綺麗にする。これは腸内洗浄がてら給仕として立つ前にもするのだが、こういった魔法の対象になったものがどこに行くのか不思議でならない。不思議な力だから魔法なのだ、と言われて一応、納得はしているのだが。  念のためにと尻穴にすりつぶした薬草を混ぜ込んだ軟膏を塗り込む。指程度でも門が擦れると、ひきつれたような小さな痛みが走った。まあ、ジェルも十分ではないし、ここにどんだけ仕込もうと、そして行為直前に準備しようと、腸という性質上吸収率は抜群だから時間が経てば経つほど乾いて行くから仕方が無い。今日は早く終わったからマシなほうだ。  即効性を発揮した軟膏により内壁の感覚が随分良くなったのを確認し、俺は指を引き抜いた。息を吹きかけるようにして指を清める。このあらかじめ設定した言葉や動作で魔法が発動するというのも『Arkadia』の特徴だった。……そういうことを思い起こす度、ゲームと現実の境目を感じて気が重くなるけど。  俺は軽く息をついて、身なりを整えた。今夜はもう客を取らないが、代えの服を置いてるわけもないので女のような格好はそのままに、胸元をがっつりと開けていたのをきちんと閉じた。  階段を降り、調理をしていたマスターに声をかけて給仕に入る。マスターは腕っ節が強いから基本的にはカウンターに立っているのだが、調理も好きらしく調理場にも立つことがある。たまに振舞われるまかないは絶品で、いい子にしているとありつける。よって、給仕仲間はマスターには頭が上がらない。みんな胃袋をガッツリ掴まれているのだ。俺達が客の取り合いで喧嘩をしたり険悪にならないのは偏にマスターの手料理があるからと言っても過言ではないだろう。それくらい、食えなくなるのは惜しい美味しさなのだ。  今日ももしかしたら、と思うと心が踊った。当然、給仕をする手も弾み、そのおかげでつまみ食いを許してもらえ、いつになく寛容な心でその日は最後まで給仕をすることができた。  最後の客を見送って、店の前に出した置き看板を下げる。ごみを拾い汚れを取り、机と椅子を整えて終わり。最後に酒場の前が散らかってないかを確認するために外へ顔を出すと、一人の男と目があった。 「……なにか?」  窺うように僅かに首をかしげると、そいつはにっこりとほほ笑んだ。  身なりが良い。服は清潔だし、軽装ながらきちんと帯刀している。その武器は基本的なロングソード。金色の柔らかそうな髪の毛は緩く波打っていて、襟足は刈り上げている。長さは前下がりになっていて、前髪は顎に達するほどで、額を出すように向かって左側に寄せられていた。おかげでよく見える顔立ちは上品そうに見える。間違ってもこの辺をぶらつくようなゴロツキって感じじゃない。上辺を装うタイプは少なくないが、俺を見る緑の目は真っ直ぐで、表情も穏やかだった。かといって、どこぞのお坊ちゃんにしては気さくな印象を受けた。  ……冒険者かな。  実力は兎も角、およそこのアルカディアで一番の人数を占めるのは冒険者というものだ。宝探しは勿論、モンスターを倒してその個体から得られる肉や角、骨、毒、そしてモンスターの核となっている魔晶石を売ることで生計を立てている者の総称。客人(プレイヤー)を除くと殆どが身分が低かったり、家や家族など、資産を持たない者で占められている。いわばアルカディアの人間社会の受け皿的職業。それ故に職業組合(ギルド)の中でも群を抜いて大規模で、人手だけはある為、冒険者ギルドを通して彼らに欲しいものを依頼することは一般的だ。ただまあ、質はピンキリ。優良な冒険者は勿論いるのだが、犯罪者のようなヤツもいる。そういうのはそういうので闇ギルドってのがあるが、そっちは正真正銘の犯罪者ギルドだったりする。それに比べて冒険者ギルドは門戸が広く、ゴロツキと変わらないヤツも多い。そして問題をあちこちで起こすために、そういう奴らはどうしても目を引いてしまう。よって冒険者のイメージはあまりよくない。信用を得ている限られたものであれば兎も角、胸を張れる職業ではないのだ。  それを踏まえて男を見ると、騎士、という推測も出来るが、あれは少々特殊な手順を踏まないと対外的に騎士と認められなかったはずだし、騎士であれば普通、見回りでもないのにこんな時間にうろついたりはしない。彼らは騎士団の寮で生活をしていて、正式に届が無ければ外泊や夜間の外出は認められていないと聞いたことがあった。そもそも、この《ガクロウ》に騎士団は存在しない。居るのは個別に雇われた用心棒だ。 「……君、今晩空いてる?」  蕩けそうな笑みを浮かべた男は、がっつくような所作でこそなかったものの、あっという間に俺との距離を詰めた。それでも腰や肩に手を回すことなく、かといって武器に手をかけて脅すわけでもなく。ただ俺に質問をぶつけた。 「あ……すみません、今日はもう」 「そう、残念」  俺が首を振ると、気にしないでいいよと言って、男は酒場の入口から奥へと声を掛けた。あっさりしている。こういう時しつこい奴は疲れるし助かった。そういうのに限って金払いは悪いし嫌な思いをすることが多い。それを思うと、第一印象としては悪くない。 「おい、クロード。居るんだろう」  クロード、というのはマスターのことだ。  知り合いなのだろうとは思いつつ念のため男を見張るように見つめていると、店の奥からマスターが顔を出し、表情をほころばせた。……うん、変な人ではないらしい。 「早いじゃないか。入ってくれ」  マスターが快く引き入れたのを確認し、俺は店前の状態をチェックしてから、俺の挙動を見ていたらしい男を促して店内へ戻った。  店はもう終わったから、知人か、特別な客人なのだろう。さっきマスターが調理場にいたのも明日の仕込みとこの客をもてなす準備だったのかもしれない。  俺は軽く会釈をして引き上げようとしたのだが、男に手を掴まれ、引きとめられた。 「なあクロード、彼を紹介してくれないか」  手を引かれ、男は俺を見つめながらマスターにそう訊ねた。自然と俺とマスターの目が合う。マスターはふむ、と一呼吸置いてから一度俺に目配せをしてきた。確認だろう。そして俺が嫌そうにしてないのを見て取ると、口を開いた。 「彼はウチの酒場で給仕をしているアルクだ」  マスターに紹介されながら、俺は軽く頭を下げた。  アルクというのはモブとなった俺の名前だ。ゲームの『Arkadia』における俺の名前でもあったから、一応自分の名前として呼ばれることに違和感はさほどない。ただ、残念ながらこれまで本名を伝える機会には恵まれていない。  こういう『他者からの紹介』というのは、少し特別な意味合いを含む。今回であれば、男が紹介を、と言ったのは俺に対する紳士的な振る舞いであり、俺を尊重するよ、という意思表示。それに応えるのは、マスターが俺の人柄といったものを好ましく感じているとか、信頼しているということで、所謂『お墨付き』になる。同時に、軽く扱ってくれるなという牽制でもあるのだ。普通は自分の信用の保証をしてもらうためのものだが、それはコネでなにかを融通してもらう場合の話で、今回には当てはまらない。  どうしてこんな手順を踏んだのだろうと内心首を傾げていると、マスターは男を俺に紹介してくれた。 「アルク、こいつはカミュ。昔馴染みだ」 「どうも」  握手を求められ、応じる。肉刺(まめ)だらけの硬い手だった。 「何度か……いや、何回も、かな。ここで飲んだことがあるんだけど」  握られたまま見つめられ、投げかけられた言葉に、俺は目をまたたいた。  酒場兼連れ込み宿であるマスターの店は、営業時間も相俟ってそんなに明るくない。とはいえ店の中で悪さをされないようにとそこそこには明るいが、暗黙の了解というか、給仕はカウンター席に座る客には絡まないという不文律がある。チップを払うのが嫌だったり、娼婦としての仕事に励む給仕の誘いを受けたくなかったりする人はそこへ座るのだ。同時に、そこへ座るということはそれを知る常連か、マスターに馴染みがある人かと絞られてくる。そして俺達はそこに座る人間は金にはならないからと、殆ど意識しない。 「君がまだ身体の仕事を始める前に、少し話をしたんだけど」  俺が思い出そうとしているのを手伝おうということだろうか、カミュと紹介された男は俺を伺うように首を傾げた。  しかし、俺がこの生活に慣れたのは恥ずかしながら最近のことであり、それであってもストレスの多さを感じているわけで。自分の置かれた状況を必死で飲み込んでどうにかしようとしていた時期の客のことなど、余程親密になるか頻繁に顔を見せるかでない限り覚えているはずもなかった。 「……すみません、覚えがありません」 「残念だ」  繋がったままの手から、彼の体温が染み込んでくる。カミュ……さんの表情は柔らかいままで、気分を害した様子はなかった。 「クロードから話は聞いてるんだ。自分のことで精一杯だったのは一応、知っているよ」 「え?」  それでもまあ申し訳ない気持ちになってしまうのは長年育った環境のせいだろう。  そんな俺をどう思ったのか、カミュさんは朗らかに笑った。咄嗟にマスターを見ると、マスターは軽く頷いていて。 「こいつも昔、似たような境遇だったのを思い出してな。記憶喪失だというから、世話をしたことがあったのさ」  はあ、と気の抜けたような俺の返事にもカミュさんはにこにことしている。  そろそろ手を離して欲しいな、と思ったところで、マスターは思いついたように提案した。 「折角だから、今日は三人でもいいか」 「え?」 「非常に残念だけど、今日彼は予定があるそうだよ?」 「そうなのか?」  離してくれる素振りのないカミュさんとマスターの顔が同時に俺へ向けられる。 「ええと……それは、その、カミュさんのさっきのお誘いにはお答えできないという意味で……予定そのものはないですけど」 「ああ、そっちか。じゃあいいだろう」 「でも、折角お二人でお話されるんですから、俺がいても……」 「いいじゃないか、僕はもっと君と話がしたいな」  遠慮すると、カミュさんが冗談めかしてそう言ってくる。ぎゅっと握り直された手が熱くなった気がした。 「お前……」  マスターの呆れた顔と声を向けられた彼は、少し唇を尖らせた。 「少しくらい良いだろ?」 「悪いとは言ってない。……どうだ、アルク」 「え?」  マスターに振られて、俺はでも、という言葉が口をついて出かけた。しかし、それは次に素早く差し込まれたカミュさんの言葉によって、全く別の言葉へすり替わっていた。 「クロードの手料理一緒に食べよう?」 「お邪魔します」  狙った獲物に合った餌を用意するとは、なかなか侮れない男なのかもしれない。
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