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ピアノ連弾版のブラームス『交響曲第4番 第4楽章』の最後の音が完全に消えると、カフェ『シュタイン』店内に拍手が鳴り響いた。
イブと美紀は立ち上がってステージ中央へ行き、礼をした。
改めて大きな拍手が起こる。
(私の音、ちゃんと届いたかな)
イブは窓際の席に座っている冷たそうな男を見た。
男はイブの視線に気付くと、冷静な表情のまま軽く頷いた。
(良かった。少なくとも、ダメ演奏ではないみたい)
続いて男の向かいの席のショートカットの女性を見ると、女性は拍手をしながら笑顔で頷いた。
店内が明るくなり、休憩時間を告げるアナウンスが流れた。
イブは美紀と共にバックルームに引き上げると、額にタオルを軽く当てて汗を拭い、アイスティーを1口飲んだ。
アイスティーはダージリンのストレートで飲むのがイブ流。
これは、コーヒーも紅茶もストレート派の、先程の冷たそうな男の影響だった。
バックルームのドアがノックされ、窓際の席にいた男とショートカットの女性が入って来た。
「イブ、美紀、お疲れ」
男が言うと、イブが答えた。
「信さん、紅亜さん、お疲れ様です」
「2人共良かったよ」
紅亜が笑顔で言った。
「まーね、私とイブなら当然でしょ」
「ちょっと美紀、勝手にハードル上げないでよ」
イブが言った。
「紅亜、そろそろ行くぞ」
「うん」
「イブ、美紀、今日はスゲェモン聴かせてやるよ」
「スゲェモンって何?」
美紀が信に尋ねる。
「それは見てのお楽しみだから。ま、たまにはフルパワー出してやるよ」
信は不敵な笑みを浮かべ、バックルームを出て行った。
休憩時間終了のアナウンスが終わり、信と紅亜がステージへ上がると、イブと美紀の時より遥かに大きな拍手が起こった。
自分達の演奏の時に信と紅亜が座っていた窓際の席で、イブは驚きの声を上げた。
「うわぁ、スゴいなー、やっぱり」
「だってプロだもん。当然じゃん」
向かいの席にいる美紀が淡々と言った。
信と紅亜は、カフェ『シュタイン』のオープニングスタッフとして、ホール業務をしながら演奏を行っていたが、その後、プロの音楽家になり、店を辞めていた。
2人は店を離れてからも、時折、店の定期演奏会にゲストとして出演している。
それは、店にいた頃から応援してくれている常連さんからの要望だけでなく、後輩スタッフ達へ模範を示す為でもあった。
1曲目は、信作曲の『紫恍(しこう) 第1曲』。
4分の7拍子のプログレッシブ・ロック風の楽曲だ。
信がグァルネリ・デル・ジェスのバロック・ヴァイオリンで主題を弾き出すと、紅亜がこの演奏会の為に家から持参したエラールのフォルテピアノで、主題を繰り返しながらヴァイオリンに絡んで来る。
2人は中間部の速いパッセージの掛け合いから一気にギアを上げると、緊張感と勢いを保ったまま最後まで駆け抜けた。
曲が終わるとすぐ、信が『紫恍 第4曲』の冒頭フレーズを弾き出す。
12音技法を取り入れたスピーディーで硬質なこの楽曲を、2人は鋭利な刃物で切り裂くように演奏して行く。
息をする余裕を与えぬ緊張感に、聴衆は完全に飲み込まれた。
演奏後に拍手は起こらなかった。
2曲合わせて約2分、イブと美紀がブラームス『交響曲第4番』で40分以上かけて作り上げた世界は、わずか2分で完全に崩された。
張り詰めた空気の中、紅亜がステージを下りる。
信はステージの中央から客席を見渡し、イブと美紀に視線を送り、目を閉じると、2度深呼吸をした。
そして、ゆっくりと目を開け、デル・ジェスを構えると、最後の曲を弾き出した。
「こんなにも差があるとは思わなかった。もっと近付けてると思ってた。2人共、普段は私達とかお客さんのレベルに合わせて、抑えて弾いてたんだね」
美紀がバックルームのテーブルに突っ伏したままで言った。
小学校からの親友のイブにであっても、こんなにも悔しい泣き顔は見せたくなかった。
「うん…」
「最後の信兄ちゃんのヴァイオリン・ソロ曲、『麗韻(れいん)』だったっけ? スゴ過ぎて何も言えないよ」
「うん……
「……」
「…ねぇ、美紀。ヴァイオリンと作曲って、今からじゃ遅いと思う?」
美紀はイブのあまりにも意外な発言に、思わず顔を上げてしまった。
美紀の真っ赤な目を見つめ、イブは更に尋ねた。
「15からじゃ無理かな」
「無理ってことは無いと思うけど…。ピアノやってたし、理論もそれなりに知ってるから、全くの初心者ではないし…」
「決めた! 私、これから作曲とヴァイオリン始める!」
「ちょっ、ピアノはどうするの?」
「辞めはしないけど、メインではもう弾かない。ピアノの才能がある美紀と一緒にいて、私はピアノじゃないなってずっと思ってたんだ。他にやりたいパートが無かったから続けてたけど、でも今日、信さんの曲と演奏聴いた時、ビビッと来たの。私の道はこれだって」
「本気なの?」
「うん。私、頑張るからさぁ、私のヴァイオリンと美紀のピアノで、オリジナルの曲もやって行こうよ」
「オリジナルの曲かぁ。そうだよね。信兄ちゃんとか他の作曲家もいいけど、最終的にはオリジナルの曲で勝負したいよね。信兄ちゃんも、自分のオリジナルの曲とスタイルを作り上げたから、あんなにスゴくなれたんだもんね」
「うん、そうだよ!」
「じゃあ、決まりだね!」
「あ、でも、ヴァイオリンどうしよう。私、ヴァイオリン買うお金なんて無いよ」
「信兄ちゃんなら使ってないヴァイオリンあると思うから、借りれば? で、ついでに、信兄ちゃんに作曲とヴァイオリン習えばいいじゃん」
「そっか。まだ店にいると思うから、今信さんに聞いてみる」
イブは半分ほど残っていたアイスティーを一気に飲み干すと、バックルームを飛び出して行った。
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