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 信からデル・ジェスモデルのバロック・ヴァイオリンを借りてから2ヶ月後、イブは信に呼び出され、美紀と共に信の家を訪れた。 「ヴァイオリンの調子はどう?」  信がテーブルの3組のティーカップにダージリンティーを注ぎながら、イブに尋ねた。 「まだまだです。ピアノやってたからか左手はすぐに慣れたんですけど、右手の弓が上手く使えなくて…。ちゃんと信さんに教えられた通りに弾いてるんですけど」 「首と肩のコリもヒドいでしょ?」 「はい。何で解るんですか?」 「首から手にかけて力が入り過ぎてるのが原因だろうなって。ヴァイオリンを顎と鎖骨でしっかり挟むようにしてるんじゃない?」 「はい。ヴァイオリンが下がって来ちゃいそうで」 「力抜いて顎先に引っ掛けるだけで大丈夫だよ。後は、バランスが取れた楽な姿勢で弾くこと。それだけで、ヴァイオリンも落ちて来ないし首肩も凝らないから。前に渡したアレクサンダー・テクニークの本をしっかり読んで。あと、ストレッチを丁寧にやること」 「はい、解りました」 「イブさっき、右手のバランスが悪いって言ってたじゃん」 「はい」 「弓を持つ位置を少し中央寄りにして弾けばいいよ。野球選手がバットを短く持つ時みたいに」 「普通は端に持ちますよね」 「うん。でも、伝統や慣習なんか無視してもいいんだよ。もっとやりやすい方法があるんなら、そっちに切り換えた方が早く上達するし。頭を使って工夫することが大事なんだ」 「なるほど」 「そうそう、イブに渡したい物があるんだ。今日家に呼んだのも、その為なんだ。ちょっと待ってて」  信は部屋の壁に立て掛けてあった紺色のヴァイオリン・ケースを開けると、中のバロック・ヴァイオリンとクラシカル・ボウをイブに差し出した。  受け取ったイブは、ヴァイオリンと弓を様々な角度から見ると、 「渡したい物って、このヴァイオリンと弓ですか?」 「そう。初めに貸したヴァイオリンより少し小さいだろ?」 「あっ、そうですね。ちょっと小さい」 「1694年製ストラディヴァリの、レディースサイズ・ヴァイオリンのモデルなんだ」 「そんなのあったんですね」 「うん。弓も今までのより短くて軽いから、バランスも取りやすいよ」 「ホントだ。これなら楽に弾けますね」  イブが弓を軽く振りながら言った。 「知り合いにイブみたいに小柄なヴァイオリニストがいて、その子に聞いたらイブに貸していいって」 「ありがとうございます」 「少しでも軽くて小さい方が姿勢も崩れにくいし、首肩も凝りにくいしね」 「はい。信さん、ホントにありがとうございます」 「信兄ちゃん。そのヴァイオリニストって、ホントにタダの知り合い?」  美紀が疑わしい目つきで信に言った。 「は? 当たり前だろ」 「嘘だ」 「証拠でもあんのかよ」 「女の勘」 「そんなもん、全然証拠になんねーだろ」  信は視線を外し、ストレートのダージリン・ティーを1口飲んだ。 「私、長年信兄ちゃん見て来たから解るもん」 「信さん、そうなんですか?」 「違うよ。コイツがテキトーな事言ってるだけだから。それより、イイ本読んでイイ音楽聴いてる?」 「あ、はい。でも、質の高い音楽聴くのは解りますけど、お金と経営と自己啓発の本を読むのも必要なんですか?」 「うん。それらの知識を知らない為に無駄な苦労をしてる人は沢山いるからね。それに、人の上に立つ者は、知恵を使って他の人を導けないとね」 「人を導くって、私にはそんなこと出来ませんよ」 「イブはリーダーの素質あるよ。俺は、これからの『シュタイン』のリーダーにふさわしいのはイブだと思ってる。多分、他のメンバー達もそうだと思う。俺が優里亜に渡したリーダーのバトンを、優里亜から引き継ぐのはイブだよ」 「私、そんな…」 「リーダーってのは、望まれてなるもんなんだよ。自分の信じる道を1人で突き進んでいるうちに、いつの間にか後ろに人が沢山付いて来てたってのが本物のリーダーだよ」 「私、自信無いです」 「初めは誰だってそうだよ。自信なんて、やって行くうちに付くもんだから」 「ねぇ、信兄ちゃん。私はどう?」 「ダメだな」 「即答!? ひどーい!」 「美紀は責任が大きくない場所で自由にやらせる方がいいんだよ。上の人にもガンガン向かって行けるから、リーダーの暴走も止められるし」 「まぁね。我慢してたらストレス溜まるし」 「能力より適性が大事なんだ。責任によって能力が引き出される人と抑えられる人がいる。能力だけ見れば、イブより美紀の方が、押しも強いし、音楽の知識と基礎技術レベルも高いと思う。でも、リーダーは別に、押しが強くなくても、能力が高くなくてもいいんだ。俺が思うリーダーの条件は、『信頼感と期待感がある人』かな」  信は『状況に応じて優しい嘘が吐けるともっといいけどな』とも思ったが、そこは省いた。 「なら、私もイブがいいと思う」 「美紀まで…。私、責任とか考えて行動してないし…」 「イブはそのままで大丈夫だよ。じゃあ俺、これから出なきゃいけないから。作曲は今度ゆっくり教えるよ。2人共、これからの『シュタイン』頼むな。美紀、店長にも宜しく伝えといて」 「うん」 「イブも、ヴァイオリンと作曲頑張ってな」 「はい。ヴァイオリン、ありがとうございました」  イブと美紀が家を出ると、信は電話をかけ出した。 「あ、俺。今終わった。イブ、ヴァイオリン喜んでたよ。……うん、わかった。じゃあ、これからそっち行くから」  信は電話を終えると、祐介に偽のアリバイ作りの依頼メールを送り、家を出た。
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