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「ストップ!」  祐介がチェロの弓を振り、ピアノの由香とヴァイオリンのイブに演奏を止めさせた。  フォーレ『ピアノ三重奏曲 ニ短調 第1楽章』の演奏が止まる。 「イブ、もっと周りの音を聴け! 何度も言わせんな!」 「ハ、ハイ。すいません」  イブはギュッと目を閉じ、首を竦めた。 「今日はもう終わり。これ以上やっても時間の無駄だ」  祐介はチェロを片付け始めた。  今日、イブと美紀は、祐介と由香にアンサンブルを教えてもらう約束をしていた。  イブは楽な気持ちでスタジオに向かったが、そこで待っていたのは、チャラくて笑顔が絶えないいつもの雰囲気とは違う、厳しい祐介の容赦無い叱責の嵐だった。  由香と美紀は、厳しい祐介を平然と受け入れていた。  祐介との付き合いが長いので、音楽時の姿も知っていたのだろう。 「ねぇ、イブちゃん。曲覚える時、どんな順番で覚えてる?」  由香がイブに優しく尋ねた。 「順番? えっと、全体の構成を見て、軽く分析して、自分のパートの練習をして、それから他のパートを見て…」 「まず、自分のパートから詰めて行くのね?」 「あ、はい」 「チョット! 先に自分のとこからやるって、アンタ何考えてんの?」  先程の演奏に参加していなかった美紀が、呆れ顔でイブに言った。 「え、ダメなの?」 「ふぅ」  美紀は溜め息を吐きながら首を横に振った。 「初めに全体を把握して、次に他のパートをしっかり覚えて、それから自分のパートを仕上げて行くの。自分のパート中心で考えてると、質の高いアンサンブルは作れないよ。自分では他の人の音も理解しながら弾いてるつもりだろうけど、見る人が見たらすぐ解るから」  由香が言った。 「そうだったんだ…」 「自分のパートは思い入れがあるからつい優先したくなるけど、楽曲全体で考えれば、ピースの1つ、歯車の1部だから。たとえ、コンチェルトのソリストであってもね」 「それぞれが楽しく弾けば、自然にまとまったり、自分の楽しさがお客さんにも伝わるってワケじゃないんですね」 「クラシックを一切やらずに、エンタメだけで、ただ盛り上がればOKの客だけを相手にするんならそれでもいいけど、イブが目指してる場所はそこじゃないんだろ?」  祐介が、イブの知っている軽くて明るい表情で言った。 「はい。シュート(注:ガチンコのこと。ここでの意味は、ライティングも含めたステージ演出、マイク、電子楽器、スピーカー等の電子機器を一切使わず、アコースティック楽器のみで演奏すること)でも聴かせられる人になりたいです」 「イブ、オマエ信の影響受け過ぎ」 「えっ、何で信さんの影響って解ったんですか!?」 「そんな表現するの、信だけだからな。アイツ昔から、「俺はクラシックとエンタメの両方でトップ取る。そうすることでエンタメのレベルを引き上げて、シュートでも聴かせられる奴しか生き残れない流れを作る」って言ってたし」 「そのセリフ、私も聞いた事あります。妥協しない感じがいいですよね」  由香が言った。 「何で皆信みたいなツンツンしたヤツがいいんだ? 世の中にはもっと優しいヤツがイッパイいるだろ?」 「女に合わせてばかりの男なんか、一緒にいてもつまんないよ」  美紀が言った。 「音楽やってる時の祐介さんもイイ感じだよ。ビシッとしてて」  由香が言った。 「そっか? じゃあ、俺もこれからは常にツンで行こうかな」 「えーっ、それはダメ!」  美紀が言った。 「何でだよ」 「キャラ被っちゃうじゃん。祐兄ちゃんは、普段チャラいから、ビシッとした時、余計カッコ良く見えるんだよ。ギャップ萌えだよ」 「なるほどな」 「普段は、霧吹き顔にかけて、汗かいた風にして待ち合わせ場所に走って行く、インチキ祐兄ちゃんのままでいいよ」 「オマエ、見てたのかよ!」 「うん。知らない女とそのままどっか行ったよね?」 「祐介さん、浮気?」  由香がジト目で祐介を見る。 「いや、あれはタダの友達で…」 「浮気だね。麻衣さんに言お。美紀ちゃん、それいつ頃?」 「1ヶ月ぐらい前かな」 「待て、この事は秘密に。もうしないから、この通り」  祐介が両手を合わせる。 「どうしよっかなー」  由香が白々しく言った。 「美味しいお肉食べたいなー」  美紀も続く。 「何で俺がオマエらに肉オゴんなきゃなんねーんだよ! 別にオマエらに何も迷惑かかってねーだろ?」 「祐兄ちゃん、逆ギレ?」 「麻衣に言ったところで、証拠が無ければ何とでも言えるからな」 「証拠あるよ。スマホで撮ってたから」 「何っ!」 「いつか役に立つと思ったんだよね」 「う、嘘だ。俺は引っ掛からないからな」 「ホントだよ」 「あっ、もしもし、由香です。こんにちは、あのですね…」  由香が麻衣に電話をかけ出す。 「ま、待て。わかったから」 「すいません、やっぱり何でもないです。ちょっと麻衣さんに聞きたい事あったんてすけど、今解決しました。お手数掛けて申し訳ございません。あ、祐介さんがお話あるそうなので、替わりますね」 「オ、オゥ、俺。……いや、何でもない。……あぁ、わかった。あのさぁ、今日はこのメンバーで外で食べてから帰るから、先に食べていいよ。……わかった、じゃあ」  祐介は電話を切ると、溜め息を吐いた。 「ヤッター、祐兄ちゃんのオゴリでお肉だー」 「クッ、今月厳しいのに…」 「『庶々苑』がいいなー」  由香が言った。 「バッ、『庶々苑』だ!? ふざけんなよ、4人分だぞ!」 「さっ、片付けよ」  由香はSamantha Thavasaのベージュのバッグに楽譜を入れ始めた。 「ただいま…」 「お帰りー。祐介、どうしたの? 何かゲッソリしてるけど。食べて来たんじゃないの?」 「あぁ、一応な…」  祐介は自室へ入ると、黒のレザートートバッグからPRADAの長財布を取り出し、開けた。 改めて財布の中を見ても、出掛ける前に入っていたお札は、長いレシートに変わったままだった。
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