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(よし、行こう!)  レモン色のドレスを纏ったイブは、ステージへの階段を上り始めた。  ピンクのドレスを纏った美紀が続く。  今日は、カフェ『シュタイン』の定期演奏会  定期演奏会で、このステージで、何度も演奏してきた  でも、今回は今までのとは違う  ヴァイオリンで初めて人前で演奏するからだ  ピアノは物心が付く前に習い始めたものだった  でも、ヴァイオリンは自分の意思で始めたものだ  お店の先輩達も、私の為に時間を作って色々な事を教えてくれた  だからこそ、今回のヴァイオリンデビュー公演は絶対に成功させたい  演奏技術が足りないのは解ってる  それでも、今の精一杯を出し切って、先輩やお客さん達の期待に少しでも多く応えたい  だから、音楽の神様  私に力を貸して下さい  客席への礼を終えると、美紀はプレイエルのもとへ向かった。  イブはステージ中央に残り、バロック・ヴァイオリンの調律を確認し、構えた。  目を閉じ、1度深呼吸をしてからゆっくりと目を開け、丁寧に弓を引く。  楽曲は、J.S.バッハ『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 “アダージョ”』。  技術不足は承知の上で、あえてフォルテピアノとのデュオ曲ではなく、ヴァイオリン・ソロ曲から始めることにした。  ヴァイオリンをメイン楽器にすると決めたからこその、イブなりの決意表明だ。 「へぇー」  客席にいた祐介が思わず声を漏らした。  祐介が隣に座っている信に目で話しかけると、信は軽く微笑んだ。  ヴァイオリンの独奏は、ピアノの独奏よりハードルが高い。  ピアノは多声部を容易に操れるが、ヴァイオリンは同時に弾ける声部が少ない。  その分、音の強弱やニュアンスを常にコントロール出来るという強みがある。  ただ、弦楽器は調律が狂いやすく、ヴァイオリン等のフレットの無い楽器は、狂って行く調律に合わせ、音程をコントロールしなければならない。  ヴァイオリンは指板を押さえる場所が少し変わるだけで音程が大きく変わるので、弓や運指の僅かなコントロールミスが命取りになる。  演奏中に音律を切り替えたりなど、音程取りが自由で表現力が高い分、確かな耳と技術が無いと聴けたものではなくなる。  イブへの信と祐介の反応は、同じくフレットの無い擦弦楽器を弾く者だからこそのものだった。 (うん、イイ感じ!)  冒頭の和音からイブは手応えを感じていた。  出だしがスムーズに行くと、その後の演奏も良くなりやすい。  イブは完全に乗り、ゾーンに入った。  怖いくらい、音が気持ち良く抜けて行く。  リラックスしているのに神経がピンと張っている、不思議な感覚。  ──このままずっと、この感覚の中にいたい。  そう思った矢先だった。  16小節目の途中で突然イブの動きが止まり、店内を不自然な静寂が支配した。 (あれ、何だっけ?)  イブは頭の中が真っ白になった。  難しい曲でもないのに、ウンザリするほど弾いて来た曲なのに、何も思い出せない。 「飛んだな」  信は軽く眉間に皺を寄せると、ステージの方を見たまま、小さな声で祐介に言った。 「あぁ」  祐介が太股の上に乗せている両手の拳を握った。  イブは気持ちを切り替え、途切れた場所の音を思い出すのを止め、区切りの良い13小節のフェルマータの後から弾き直すことにした。  美しい流れを意識し、丁寧に演奏を始める。  祐介の拳が少し緩む。  だが、すぐに演奏が止まった。  14小節の途中だった。  弾き直してまだ間も無い。  何てことのないフレーズ。  1回目にはちゃんと弾けてたのに。  止まった場所にすら辿り着けていない。 (あ……あ……どうしよう…。怖い。ここから逃げ出したい…)  イブは固まったまま動けなくなった。  客席がざわめき出す。  美紀がイブの後ろ姿と客席を交互に見る。 「ヤバいな…」  信が呟いた。 「信、どうする?」 「……祐介。オマエの空になったグラス、他の客に破片が飛ばないように床に叩き付けろ」 「グラス? …あぁ、そういうことか。へぇーっ、信様やっさしー。普段冷たいくせに」 「うるせーな。いいから早くやれよ」 「ハイハイ」  祐介は人がいない方向の壁と床の境目にグラスを強く投げ付けた。  店内にグラスが割れた音が響き渡り、聴衆が音のした方を見る。 「失礼致しました」  祐介が席を立って割れたグラスのもとへ行き、周囲の人に頭を下げる。  信は祐介が聴衆の意識を引き付けている間に、ステージ後方にいる美紀に強い視線を送った。  美紀が視線に気付くと、信は左手で自分の方に掌を向けてVサインを作り、次に親指を立てて手首を捻った。  美紀が頷く。 「イブ、『香音(かのん)』」  美紀はイブに声を掛けると、信作曲『香音』のモチーフを使いながら即興を始めた。  祐介に向いていた聴衆の意識が徐々にステージの美紀へ移って行く。 「そっちはどーよ?」  自分の席に戻って来た祐介が信に尋ねた。 「サイン送った。美紀がちゃんと受け取ったよ」 「何て送った?」 「デュオの曲に替えろって」 「そっか」  祐介は自分の席の椅子に座ると、アイスカフェラテを1口飲んだ。  美紀は区切りの良い場所の少し前でイブに目で合図すると、即興からの流れで『香音』の第1楽章を弾き始めた。  続いてイブが旋律を奏で出す。  良い出だしとは言えないながらも、ドン底状態からは抜け出し、曲が進むに連れ、本来の瑞々しい歌い回しが出だし、今度は最後まで弾き通す事が出来た。  第2楽章はピアノ・ソロの為、イブはステージ後方に下がった。  『香音』は今日やる予定ではなかったが、美紀が機転を利かせ、ヴァイオリン・パートの負担が少ないこの曲にその場で差し替えた。  その為、準備無しでの演奏になったが、美紀の演奏は、作曲者の信やこの楽曲を小さい頃から知っていることもあり、16歳にも拘わらず、ベテランピアニストのような円熟感のある演奏だった。  第2楽章の演奏が終わり、イブと美紀が礼をすると、美紀がステージを下り出した。  イブは一瞬驚いたが、美紀に続き、拍手の音に包まれながらステージを下りた。  時間の枠も演奏予定の楽曲も残っていたが、美紀は独断で打ち切った。  イブのヴァイオリンデビュー公演は苦い結末で終わった。  終演後の客席で、信、祐介、優里亜、紅亜が、今日の定期演奏会について話し合っていた。  4人の話題の中心は、やはりイブの事だった。 「ま、仕方無いよな。あそこは止めて良かったよ。美紀の判断は正しいよ」  祐介が言った。 「でも、イブちゃん、『香音』で持ち直して来てたよ」  紅亜の表情が曇る。 「イブが背伸びし過ぎた感はあるな。今の実力で組むプログラムじゃなかったってことだ。打ち切って当然。ヤル気は買うけどな」 「信も冷たいよ。ん、お姉ちゃん、どうしたの?」 「私、ちょっとイブちゃんのとこ行って来るね」  優里亜は席を立ち、バックルームへ向かった。 「じゃあ、私も行く」 「待て。オマエは行くな」  信が紅亜を手で遮った。 「何で?」 「いいから優里亜に委せろ。自分の壁は自分で越えるしかねーんだ。中途半端な慰めは何の役にも立たねーよ。さ、俺らは帰るぞ」 「何でお姉ちゃんはいいの?」 「優里亜は慰めに行ったんじゃねーよ。バトンを渡しに行ったんだよ」 「バトン?」 「そう、俺が優里亜に渡したバトン」  信はバックルームの方を一目見ると、店の出口に向かって歩き出した。 「なぁ、紅亜ちゃんを行かせなかったの、バトンの事だけじゃなかっただろ?」  店からの帰り道、途中で紅亜と別れてから、祐介が信に言った。 「まぁな」 「何でだよ?」 「紅亜は神童だったからな」 「それがどうかしたのか?」 「紅亜には、本当の意味でデキない奴の気持ちを解ってやる事は出来ないってこと。イイヤツだけどな」 「優里亜ちゃんなら出来んのか?」 「優里亜は、才能に溢れた紅亜と一緒に暮らしながら自分のスタイルを作り上げた。イブも、才能があって何でも器用にこなす美紀の傍で一緒にやって来た。同じ立場だったからこそ伝えられることがある」 「何を伝えたんだろうな?」 「さぁ。それは優里亜が自分の言葉で伝えることだから」 「なぁ、これから飲み行かないか?」 「そうだな」  2人の姿は、ネオンの光の中へ溶けて行った。
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