第1話 カレン族の少女

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第1話 カレン族の少女

 僕はタイ北部のタートンという街からガイド兼運転手付きでクルマをレンタルし、山奥にあるカレン族の村を目指していた。前日にタートンで泊まったゲストハウスでカレン族の首長の女の子の写真を見たのだが、それがものすごい美少女だったからである。僕はかわいこちゃんに会うためだったら金と労力は惜しまないのである。 「もう少しで着くぞ」  クルマを運転するガイド兼運転手のタカシが言った。彼は十年ほど前に千葉県で魚をさばく仕事をしており、そこではタカシという日本語の名前で呼ばれていたという。だから僕も彼をそう呼ぶことにしていた。 「なあ、タカシ。カレン族の村に泊まることってできるのかな」 「たぶんな」 「ゲストハウスかなにかある?」 「いや、そんなものはない。村人のうちに泊めさせてもらえばいい」 「そんなことできるの」 「それはあんたの交渉次第だろうな」  カレン族の村の入り口の前でクルマを止めて降りた。村はすっかり観光地化されてしまっていた。入り口近くには記念撮影用のカレン族の顔ハメ看板なんて置いてあるし、村の中に並んでいるのもカレン族のアクセサリーや布織物を売る土産物屋ばかりだった。  一軒の土産物屋でひとりのカレン族の女の子が織物をしていた。白く薄い生地の民族衣装を纏い、首には金色の首輪が何重にもなって巻かれている。僕がゲストハウスで見た写真の女の子とは違うが、草原に咲く一輪の花のような清純さと美しさがあった。  もし彼女に頼んだらうちに泊めさせてくれたりするのだろうか。いや、まさか……。彼女と目が合った。にこりと笑った。 「あ、あの……」  僕がもじもじしていると、横からタカシが入ってきて単刀直入に言った。 「よお、あんた、彼をうちに泊めさせてやってくれないか」 「は……?」  彼女は織物の手を休めてきょとんとする。そりゃそうだ。ものの頼み方にはもう少し順序というものがある。が、タカシはそんなことお構いなしに一気に捲くし立てる。 「寝床を提供してやるだけでいいんだ。メシもいらない。彼は日本人だがタイ語を話せるから問題ない。宿泊料はいくらだ。百バーツでいいな。あんたのうちを案内してくれ」  女の子はうなずいて腰をあげた。どうやら交渉成立したらしい。何事もダメもとで頼んでみるものである。  土産物屋の並ぶ道を横に折れたところに藁葺き屋根の民家が並んでいた。そのうちの一軒が彼女のうちだった。 「それじゃあ、俺はこれで帰るぞ」 「ああ、ありがとう」  タカシと握手して別れた。  入り口で靴を脱いで上がらせてもらった。女の子の名前はマツ。年齢は二十五歳。彼女は僕のために部屋に布団を敷いてくれた。 「私はもう仕事に戻るけど、ゆっくりしていってね」 「ありがとう」  マツが行ってから布団に横になって部屋を見まわした。テレビや炊飯器などの電気製品もしっかりあった。壁にはタイ国王の肖像画が飾られ、床には玩具のピストルが転がっている。高床式で床下からはピヨピヨと雛鳥の鳴き声が聞こえる。部屋は竹編みの薄い壁の向こう側にもうひとつあり、その入り口はカーテンだけで仕切られていた。  村の中を散策してみることにした。ほんの十五分程度ですべてまわれてしまうような小さな村だった。ゆっくりと時間をかけて土産物屋を冷やかし、一軒の店で葉巻のタバコを買って吹かしたりして時間を潰した。  ベンチに腰かけてカレン族の女の子たちを眺めた。彼女たちの首輪が気になった。こんな話を聞いたことがあった。今ではカレン族の首輪は単なる見世物になっていて観光客のいないところでは外している、と。  日が暮れてからマツのうちに戻った。マツはすでに帰ってきていた。観光客は僕以外にひとりもいなくなっていたが彼女は首輪をつけたままにしていた。四、五歳くらいの男の子と女の子もいっしょだった。 「ごはん用意したから食べて。口に合うかどうかわからないけど」  マツはちゃぶ台に料理を並べていった。豚肉と白菜を塩コショウで炒めたものと魚のトマトソース煮。ご飯は二皿によそられていたが、彼女は少し離れたところに座って僕が食べるのを見ているだけだった。子供二人はテレビを観て笑っていた。 「いっしょに食べないの?」 「私はもう食べたから」  料理は素朴な味わいで美味しかった。もう一皿のご飯は僕のおかわり用のものらしい。食べながらマツに訊いた。 「この子供二人はマツの子供?」 「そう」 「何歳のときに結婚したの」 「十八のとき」 「どうしてそんなに早く結婚するの」 「十八はそんなに早いほうじゃない。早い人だと十六で結婚するから」 「日本だったら十六で結婚する人なんてほとんどいないよ。もっと青春を謳歌してからにすればいいのに」 「でも、それ以上年をとるときれいじゃなくなっちゃうでしょ」 「全然そんなことないと思うけど……。旦那さんは?」 「チェンマイに出稼ぎに行ってる」 「兄弟は何人?」 「ぜんぶで十人。チェンマイとかチェンライとかミャンマーとか各地に散らばってる」 「結婚はカレン族同士でしないといけないの?」 「昔はそうだったけど、今はそんなことはない。自由だよ。私の兄にもひとりタイ人の女性と結婚したのがいるし。あなたは結婚は?」 「離婚したばかり」 「そう……。ごめんなさい」 「いや、ぜんぜん大丈夫」  僕は自分のプライベートなことを少しだけ語った。愛のない結婚生活を送っていたときよりも今のほうがずっと幸せだということなど。 「そうか。でも、また結婚したいという気持ちはある?」 「うん。いい人がいたらね」  食事を終えてからシャワーを浴びさせてもらうことになった。村の中に公共の水浴び場があるという。が、その案内された場所を見て唖然となった。水道の水をタライに溜め、それを桶ですくって水浴びできるようになっているのだが、そのまわりを囲っている塀が二辺にしかなく、塀のないほうからだと僕の全裸が丸見えになってしまうのである。誰も来ないうちに素早く水浴びをするしかなかった。  マツのうちの消灯時間は早かった。午後八時にはテレビと電気を消して子供二人といっしょに隣の部屋に移ろうとする。そこが寝室になっているらしい。そのときになっても彼女はまだ首輪を外そうとはしなかった。 「首輪は外さないの?」 「外さないよ」 「ずっと?」 「五、六歳くらいからつけ始めて、それからは新調するとき以外、外すことはないの」 「へえ……」  僕は部屋に敷かれた布団にひとり横になった。が、こんなに早い時間に眠れるはずもなかった。マツの柔らかそうな肌を脳裏に思い浮かべた。彼女の夫はチェンマイに出稼ぎに行っていると言った。ならば子供たちが寝付いたあとになにかあってもおかしくはない。 「私、寂しいの……」  そう言って僕の寝床にそっと忍び込んでくるのではないか……。そんなことを悶々と妄想していたらさらに寝付けなくなった。  やがて雨が降り始めた。藁葺きの屋根では雨を完全に防ぎ切ることはできず、僕の寝ている少し横あたりにポタポタと雨漏りさせていた。  隣の部屋の入り口にかけられたカーテンがパサッと音を立てて開いた。そこに立っていたのはマツだった。  うわ、本当に来た!  僕は目を閉じて寝ているフリをした。  ミシ……、ミシ……。  彼女は足音を忍ばせて近づいてくる。足音が止んだ。僕は薄く目を開けた。マツはテレビにビニールを被せていた。雨漏りから守るためのものだろう。それが終わるとまたすぐに隣の部屋に戻っていった。  雨足はさらに強くなっていった。まるで雨に打たれながら寝ているかのように四方から雨音が聞こえてくる。僕は深い安らぎを感じながらいつの間にか眠りに落ちていた。  朝になった。壁の隙間から新鮮な朝の光が差し込んでいた。床の下からはピヨピヨと雛鳥の鳴き声が聞こえる。うちにいるのはマツひとりだけで子供たち二人の姿はなかった。 「朝ごはんできてるよ」  マツが用意してくれたのは山菜と豚肉の炒め物と卵焼き。ご飯は前日の夕食と同じように二皿によそってくれた。  食事を終えてから僕はすぐに荷物をまとめて出ていく準備をした。宿泊料はタカシがマツと交渉して百バーツということになっていたが、食事までごちそうになってそれでは悪いので三百バーツ払うことにした。しかし彼女はその受け取りを拒んだ。 「いらないよ」 「いや、そういうわけには……」  僕が無理に押し付けるようにすると、彼女は少し考えてから二百バーツだけ受け取った。 「また遊びに来てもいい?」 「いいよ。なんにもない退屈なところだけど」  村を出たところにアスファルトで舗装された長い一本道が走っている。ここで待っていればチェンマイ方面行きのソンテウ(乗り合いバス)が来るという。僕は地面に腰を下ろし、葉巻の煙草を吹かしてそれをのんびりと待った。
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