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第2話 バンコクの心霊スポット
タイ人のほとんどは幽霊の存在を信じている。そんなタイ人を見てバンコク在住の日本人の多くは「幽霊なんているわけないのに。タイ人は頭おかしいよな」なんて鼻で笑う。
僕はこれについては完全にタイ人寄りである。僕は幽霊や神などの存在を信じている。というより、確信している(ただし宗教には属していない)。だから「幽霊なんていない!」という人のほうがよほど頭がおかしいと思っている。
僕はバンコクの日本人向けフリーペーパーの編集部でも働いていたことがあるのだが、そこでいっしょに働いていた日本人男性のAさんと幽霊のいるいないで論争になったことがある。その論争の結果、Aさんと二人でバンコクの心霊スポットに行き、それを記事にしようということになった。
その心霊スポットの場所は知り合いのタイ人から聞いた。バンコク郊外の廃墟となったボールペン工場。かつてそこに強盗が押し入り、工場長が殺され、その死体はバスタブに放り込まれた。そのバスタブは現在も廃墟内に残されており、それを三回叩くと工場長の霊が現れるのだという(なにかのゲームのような設定だが……)。
現場に到着したのは夜の帳が落ちた午後八時頃。敷地をブロック塀が囲んでおり、その上で木の葉が風に吹かれて闇夜の中にざわざわと不気味な音を響かせている。その近くには建設中の家があり、まだ何人かの大工が作業を続けていた。
「じゃ、行こうか」
Aさんはなんの躊躇いもなく壊れたブロック塀の隙間から敷地に入っていこうとする。僕はそれにストップをかけた。
「いやいや、ちょっと待って」
「なんだよ」
「まだ心の準備ができてない」
「なに言ってんだよ。さっさとバスタブを叩いて写真撮って帰るぞ」
僕とAさんが話していると、そこに上半身裸の大工の男がやってきて訊いた。
「どうした? そこでなにをしている?」
「ここが有名な心霊スポットだと聞いてやって来たんですが」
「ああ、そのとおり。よく若者たちが胆試しに来てキャーキャー言ってるよ」
「実際に幽霊は出るんですか」
「どうだかな。夜中に悲鳴のようなものが聞こえてくることはあるけどな。よし、俺が中を案内してやろう」
大工の男を先頭に、それにAさんが続いて敷地に入っていった。二人の姿はすぐに暗闇の中に消えた。僕は少し迷いながらも二人のあとについていくことにした。写真撮影は僕がすることになっていたのだが、その責任感からというわけではない。ホラー映画やサスペンス映画などではビビッて逃げた奴から先に殺されていくからである。
ザッ、ザッ、ザッ……。
視界のほとんど利かない暗闇の中に落ち葉を踏みしめる足音が響く。僕はその足音を頼りに二人についていく。ここまで真っ暗だと思っていなかったので懐中電灯は用意していなかった。
「ちゃんと写真撮れよ」
暗闇の中からAさんの声が聞こえた。僕はカメラのレンズを適当な方向に向けてシャッターを押した。フラッシュが焚かれ、土で汚れた白い壁の残骸がほんの一瞬だけ照らされる。その後も懐中電灯代わりに何度もシャッターを押した。
「お、これだな」
前方からAさんの声。そしてバン、バン、バンとなにかを叩く音。
ま、まさか……。
シャッターを押した。そのまさかだった。フラッシュの中に照らし出されたのはバスタブを前に立つAさんと大工の男の姿。Aさんは三回叩くと工場長の霊が現れるというバスタブをなんの躊躇いもなく三回叩いていたのである。まるでなんの躊躇いもなく人を殺すサイコパスのようである。
僕はバスタブにレンズを向けて何度もシャッターを押した。撮影が終わるとあたりはまた暗闇に包まれる。静寂。頭上で木の葉がざわざわと揺れる。Aさんが言った。
「今このどこかに工場長の霊がいるのか?」
僕は最後にもう一枚だけパシャリと写真を撮った。
翌日、撮った写真をパソコンの画面で一枚ずつ確認していった。が、バスタブやその他の写真をどんなに隅々までチェックしても幽霊らしきものはひとつも写っていなかった。
「ほら、これで幽霊なんて存在しないということがわかっただろ」
Aさんは勝ち誇った顔で言う。
しかし、彼はこの約五年後にタイ人の奥さんに預金通帳をもって逃げられている。僕はこれは五年遅れで発動された工場長の呪いではないかと睨んでいる。
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