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第3話 ヤードン売りの少女
バンコクのフアランポーン駅の周辺の路上に夕方頃からたくさんのゴザ屋台が出る。売っているのは主にパパイヤの千切りを唐辛子などで辛く和えたソムタムという料理と、薬草などを漬け込んだヤードンという赤い酒。ゴザに座ってそれらを飲み食いしながらゴザ屋台の女との会話を楽しむ。地方からバンコクに上京して働く男たちの憩いの場になっている。
僕はここに足繁く通っていた時期があった。ひとりお気に入りの女の子がいた。名前はエム。年齢は二十代前半くらい。他のゴザ屋台の女たちは天秤棒にソムタムの材料と道具、それに瓶入りのヤードンなどをぎっしりと詰めて商売をしていたのだが、エムは大きめのトートバッグにヤードンだけを何本も詰めてそれだけで商売をしていた。
おそらく天秤棒やソムタムの道具などを買い揃えるお金がなかったのだと思う。ヤードンを飲むのには通常ショットグラスを使うのだが、それさえもペットボトルの飲み口の部分を切り取ったもので代用していたから。
しかし、エムは優しかった。僕が酔うといつも膝枕で介抱してくれた。彼女の膝の感触を頬に感じながらバンコクのねっとりと生ぬるい夜風に吹かれる。目の前の道路でクルマが渋滞を起こし、その排気ガスがもうもうと立ち上っているのが玉に瑕とはいえ、これ以上とないバンコクの夜の過ごし方に思えた。
そんなある日、エムが言った。
「ねえ、今度私のうちに遊びに来ない?」
もちろんオーケーした。断る理由なんてなかった。
後日の夕方、フアランポーン駅の前で彼女と待ち合わせをしてそこからトゥクトゥク(三輪タクシー)に乗り込んだ。そして着いた彼女のアパートの部屋に僕は絶句した。
広さは六畳くらい。窓と呼べるようなものはなく、天井に近いところに明かり取りのための小さな穴が開いているだけである。そこにエム、母、妹、弟の四人で生活していた。部屋の隅には洗濯物が積まれ、まだ五、六歳くらいの弟の玩具がそこらじゅうに散らばっている。
「ゆっくりしていってね。ヤードン飲む?」
「いや、大丈夫」
エムがバッグからヤードンを取り出しながらすすめてくるが、僕は断った。とても長居したくなるような空間ではなかった。窓のない部屋というのはまるで牢獄のような圧迫感がある。
彼女は手酌でヤードンをグビグビと呷り始めた。僕は弟の遊びの相手をし、適当に時間を見計らって腰を上げた。
「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ」
「もう帰るの? 今日は泊まっていってもいいんだよ」
「いや、大丈夫。また今度ね」
「あ、そう。じゃあ、三百バーツね」
「は? なにが三百バーツ?」
「私がヤードンを三本飲んでいるから一本百バーツで三百バーツ」
目が点になった。ゴザ屋台では女に飲ませたヤードンの料金も客が支払うことになっている。が、ここはゴザ屋台ではないし、ヤードンもエムが自分で勝手に飲んだのである。それをどうして僕が払わされることになるのか。
あまりに理不尽なボッタクリシステムである。が、それでも僕は料金を払ってエムの部屋をあとにした。彼女が僕を部屋に呼んだのはただの商売の一環でしかなかったのかと思うと非常に腹立たしかった。
それ以来、ゴザ屋台からは足が遠のいていたのだが、それからしばらくして日本から知人男性のMさんがやってきてバンコクの面白スポットを案内してほしいという。僕はゴザ屋台を案内することにした。
その日はエムはいなかった。代わりにいたのはエムよりもさらに若い外見の女の子。森の小動物を思わせるようなかわいらしい無邪気な顔で僕を手招きする。
「Mさん、ここにしましょう」
それに吸い寄せられるようにして僕はゴザに着いた。
彼女はエムと違ってヤードンとソムタムの両方をきちんと売っていた。両方注文した。彼女は慣れた手つきで調理を始める。クロックという日本のすり鉢のようなものの中にパパイヤの千切りなどを入れ、サークという棒でトントントンと叩きながら唐辛子やナンプラーなどで味付けをしていく。できあがったソムタムをフォークで一口食べた。
「どう? 美味しい?」
女の子が訊いた。
「うん、美味しい! こんなに美味しいソムタムを食べたのははじめてだよ」
僕がそう褒めると彼女は「きゃはははは」と天使のような笑い声をあげる。僕はそのあまりに耳に心地良い笑い声をずっと聞いていたくて、彼女を喜ばせる言葉を何度も口にした。
Mさんをほったらかしにしていたことにしばらくしてから気付いた。彼はタイ語がわからないので僕が間に入って通訳をした。Mさんは女の子に次々と質問を浴びせ、そこでいろいろなことがわかった。
彼女の名前はニウ。年齢は十四歳。まさかの中二である。学校が休み期間中でその間だけ田舎から出稼ぎに来ているのだという。
ニウはMさんがタイ語がまったくわからないということがわかると、大胆にも僕にこんなことを言ってきた。
「ねえ、この人放っておいて二人でどこか遊びいこうよ。カラオケとか」
「ダメだよ。君はまだ仕事中だろ?」
「今日はもう店じまいにする」
「君がよくても僕がダメなんだよ。今日はずっとこの人のガイドをしないといけないんだ」
「ちぇッ、つまんないの」
ヤードンを何本か空けたところで僕とMさんは腰を上げた。
それからはMさんを中華街のヤワラー通りへ案内し、そこからタクシーに乗せてホテルに帰した。ニウのことが気になってゴザ屋台のところへ戻った。彼女はまだそこにいた。
「さっきいっしょにいた人は?」
「ホテルへ帰ったよ」
「わーい、やった、やったー! これで二人で遊びに行けるね」
彼女はそう言ってぴょんと跳びあがり、僕の腕にぎゅっと抱きついてくる。そしてすぐ隣のゴザ屋台のおばちゃんに、
「それ片付けておいてね」
と言い、自分の商売道具をそのままにして僕の腕をグイグイと引っ張った。十四歳の女の子に抱きつかれて僕の鼻の下はだらしなく伸びきってしまっていたのだが、それでもかろうじて理性を保ちながら言った。
「行かないよ。そういうつもりで戻ってきたんじゃないんだから」
「どうして? やっと二人きりになれたんだよ?」
彼女は少し潤んだ瞳で僕の顔をじっと覗き込んでくる。ま、まずい……。理性が根こそぎもっていかれそうになる。僕の心は十四歳の小便臭いクソガキに完全に翻弄されていた。手玉に取られていた。
いっしょにカラオケに行くくらいなら大丈夫だろうか。子どもといっしょに遊園地に遊びに行くのと同じようなものである。しかし、金銭面での心配もあった。僕の財布にはあまりお金が入っていなかったし、ニウの連れていこうとしているカラオケ店がどのくらいお金がかかるのかもよくわからなかった。
「ごめん。やっぱりダメだよ」
逡巡の末にそう答えた。
「……そう、わかった。じゃあ、コンビニでお菓子買ってよ」
それくらいのお金ならば十分にあった。それにしてもお菓子がほしいとは……。僕に大人顔負けの色仕掛けをしてくるとはいえ、やはりまだまだ子供なのである。
すぐ近くにあったコンビニに入った。しかし、ニウがカゴをとってその中に次々と放り込んでいったのはお菓子ではなかった。シャンプー、リンス、洗剤などの日用品である。少しも遠慮することなくそれらをぎっしりとカゴに詰め、その重みで足取りをよろけさせながらレジカウンターへもっていった。
ピッ、ピッ、ピッ……。
商品がひとつずつスキャンされるごとにレジに表示される金額が上がっていく。そしてそれといっしょに僕の苛立ちも募っていった。その金額がついに千バーツを超えたとき、僕の怒りに火がついた。
おい、コラ、このクソガキ。てめえの田舎ではシャンプー、リンス、洗剤などのことをお菓子というのか?
ゴゴゴゴゴ……。
背後の僕の殺気に気付いたのだろう、ニウはハッとして顔を振り向かせる。そして僕の顔を見ると、舌を出して「てへッ」とおどけてみせた。僕は怒りを抱えながらも、そんな天使のような愛くるしい表情を見せられてしまっては、
「こーいつー」
と彼女の額を人差し指で突くくらいしかできなくなってしまうのである。
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