#16 素直でいたい─Side 千夏

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 時折吹き抜ける夜風には、緑と夏の匂いが含まれている。ビル群やすすきのの雑踏の中では嗅げない匂いだ。  二度と関わるはずのなかった、とうに諦めてしまったはずの男と、全然知らない町の知らない場所で向かい合っている。この夜は、あの大雨の夜の続きなのではないかと──もっと言えば、あの別離の次の夜、つまりやってくるはずのなかった夜の再来なのではないかと、都合のいい解釈をしてしまいそうになる。 「俺は、千夏が」  嫌味なくらいにくっきりとした、情熱的な瞳がわたしを捉える。  風で前髪が揺れて、かたちのいい眉が露わになった。その造形の良さにときめくよりも先に、わたしの手を握る汗ばんだ手と、上擦った声があまりにらしくなくて(・・・・・・)、胸が急激に高鳴り始める。 「千夏が」  泡を吹いて倒れるのではと心配になるくらい、動揺している。やっぱりらしくない。どっちが本当のあなただろう。 「もういいよ」と背中をさすってあげたいけれど、残念ながら、その言葉の続きが聞きたい。きっとそれは、22歳のわたしが、31歳のわたしが、一番欲しかった言葉だから。 「好き、なので」  さわさわとざわめく木の葉の音に紛れてしまうくらいの声に、思わず「え?」と問い返した。聞き間違いではないかと不安になったのだ。 「だから……す、好きなんだって」 「誰が、誰を?」 「意地が悪いね」 「だって、声が小さすぎてよく聞こえないんだもん」  だから、もう一回、ちゃんと言って。べたついた手をしっかりと握り返し、端正な顔を見上げた。いますぐそのつるりとした頬に触れて、どれくらい熱いのか確かめてみたくなる。 「ねえ、もう一回」 「意地が悪いね」 「聞き間違いだったら困るし、恥ずかしい」 「こんなことを聞き間違えるくらい都合のいい耳を持ってるなら、とっくに察してよ」  真琴はなんとも自分勝手な主張を繰り広げてため息をつくと、やはりらしくなく髪をわしゃわしゃと掻いた。こっちが、本当? 「言わされるだけ言わされて、でもわたしは嫌いだからって切られるパターンだったら、リビングで寝る」 「なにその脅し。そうじゃなくてもリビングで寝ていいよ」 「冷たい」 「冗談」  冗談だよ、と念押しして、握っている手にもう片方の手を添えた。  今夜は、本当の立科真琴を見られる?相変わらず雑然とした自室のリビングの光景を思い出し、期待と一緒に苦い気持ちが上がってくる。
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