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時折吹き抜ける夜風には、緑と夏の匂いが含まれている。ビル群やすすきのの雑踏の中では嗅げない匂いだ。
二度と関わるはずのなかった、とうに諦めてしまったはずの男と、全然知らない町の知らない場所で向かい合っている。この夜は、あの大雨の夜の続きなのではないかと──もっと言えば、あの別離の次の夜、つまりやってくるはずのなかった夜の再来なのではないかと、都合のいい解釈をしてしまいそうになる。
「俺は、千夏が」
嫌味なくらいにくっきりとした、情熱的な瞳がわたしを捉える。
風で前髪が揺れて、かたちのいい眉が露わになった。その造形の良さにときめくよりも先に、わたしの手を握る汗ばんだ手と、上擦った声があまりにらしくなくて、胸が急激に高鳴り始める。
「千夏が」
泡を吹いて倒れるのではと心配になるくらい、動揺している。やっぱりらしくない。どっちが本当のあなただろう。
「もういいよ」と背中をさすってあげたいけれど、残念ながら、その言葉の続きが聞きたい。きっとそれは、22歳のわたしが、31歳のわたしが、一番欲しかった言葉だから。
「好き、なので」
さわさわとざわめく木の葉の音に紛れてしまうくらいの声に、思わず「え?」と問い返した。聞き間違いではないかと不安になったのだ。
「だから……す、好きなんだって」
「誰が、誰を?」
「意地が悪いね」
「だって、声が小さすぎてよく聞こえないんだもん」
だから、もう一回、ちゃんと言って。べたついた手をしっかりと握り返し、端正な顔を見上げた。いますぐそのつるりとした頬に触れて、どれくらい熱いのか確かめてみたくなる。
「ねえ、もう一回」
「意地が悪いね」
「聞き間違いだったら困るし、恥ずかしい」
「こんなことを聞き間違えるくらい都合のいい耳を持ってるなら、とっくに察してよ」
真琴はなんとも自分勝手な主張を繰り広げてため息をつくと、やはりらしくなく髪をわしゃわしゃと掻いた。こっちが、本当?
「言わされるだけ言わされて、でもわたしは嫌いだからって切られるパターンだったら、リビングで寝る」
「なにその脅し。そうじゃなくてもリビングで寝ていいよ」
「冷たい」
「冗談」
冗談だよ、と念押しして、握っている手にもう片方の手を添えた。
今夜は、本当の立科真琴を見られる?相変わらず雑然とした自室のリビングの光景を思い出し、期待と一緒に苦い気持ちが上がってくる。
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