紫のキツネとさすらい人と海の魚の話

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 ランシィは深い山里で二十五まで過ごしていたので、海を知らない。川魚を釣って食べる習慣もない。  従って、目の前に並ぶ魚介類の料理も見たことがない。 「……レンフェイ、これは」 「うん?」 「食い物なのか」 「ああ。フータンっていうんだって」  向こうが透けて見えるほど薄く切られた魚肉を箸でつまみ上げ、ランシィは思い切り眉を顰めた。魚肉の色とよく似た透けるような銀髪が、酒場の明かりに照らし出されている。 「内臓に毒があるけど、処理してあるから大丈夫だよ」 「毒のあるものをわざわざ食べるのか?」 「美味しいからね」 「どこに毒があってどうすればそれを取り除けるのか、わざわざ調べてまで食べる必要があるのか?」 「ここの人たちはそうみたいだよ」  ランシィはまだ唸っていた。妙なところで頑固な男なので、納得がいかなければ食べない可能性もあることを、長くなってきたつきあいの中でレンフェイもわかり始めていた。 「こっちはフータンに衣を付けて油で揚げてあるよ」 「……揚げ物……」  同じく故郷を出るまで口にしなかったという揚げ物を前にして、またもランシィは考えあぐねている。 「別のもの注文しようか? 名物だからって絶対に食べなきゃいけないわけでもなし」  レンフェイはフータンの独特の食感を楽しみつつ、この港町でよく飲まれている米の酒を引っかけた。既に木のカップ三杯は空けているが、顔色は変わらない。 「この、ヨーユっていうのはどう? 煮魚がおすすめみたいだよ」 「煮物か」  すいません、とレンフェイが店員を呼ぶと、愛想の良い中年女性が大きな声で返事をした。 「ヨーユの煮魚、まだあります?」 「ありますよ」 「じゃそれ一人前」 「はい、ありがとうございます」  さっそく厨房へ大声で注文を伝える店員を尻目に、レンフェイは四杯目のカップを空けた。 「君の故郷には毒を処理して食べる習慣はなかったの?」 「ない。……いや、外のヒトが食べたら毒になるものもあったかもしれないが、少なくとも俺たちは毒だと思ってなかった」 「ふぅん。君がそんななら、君の妹も苦労しているかもね」 「……そうだな。クンファは輪をかけてなにも知らなかったし……」  ランシィは生き別れの妹の話題になると途端に人間味を帯びた顔になる。妹と共に旅をしているであろうクンファという少年も一緒に話題に上ることが多いものの、二人の行方は杳として知れない。  彼の旅の目的は、妹と少年を見つけ出すことだった。 「この辺りではフータンの毒は、精製して暗殺や儀式に使われるそうだよ」 「暗殺はともかく、儀式というのはなんだ」 「フータンの毒を呷ることでヒトでない者に生まれ変われると信じられていた時代があったそうでね。その名残だってさ……って、昼に宿の人から聞いた」  わざとらしく付け足してから、レンフェイはフータンの刺身を全て食べた。 「もう慣れたが、あんたいつの間に仲良くなったんだ」 「にこにこしてたら相手から話し掛けてくれるもんだよ。君ももう少し笑いな?」  眉間を指さしてやると、ランシィは難しい顔をして首を振った。彼の銀髪と紫の瞳はどこへ行っても衆目を集めるものの、寡黙な上に浮世離れした言動と雰囲気が、他者を寄せ付けなかった。 「まぁ向き不向きがあるよね」  レンフェイが苦笑した時だった。  酒場の外から怒号が届き、次いで町中がざわめくかのように騒ぎが始まった。 「なんだ?」 「……外かな。行ってみようか?」  頷くが早いか、ランシィは走り出していた。勘定をテーブルに置いて、レンフェイもまた駆け出す。店員に声を掛けたものの、返事はない。  二人と同じ野次馬が、町のあちこちから集まりだしていた。 「港の方だ」 「夜釣りの船が襲われたらしい」 「幽霊に取り憑かれたって聞いたぞ」 「巨大な魚じゃないの」 「乗ってた連中は皆いなくなったとか」  流れてくるのは不確かな話ばかりだった。人が多い方へ走っていけば、自然と騒ぎの中心へ近付いていく。 「こないだと同じ、大渦じゃないのか?」  ランシィの目が声のした方へ向かった。 「あんな大渦、何度も起きてたまるか」 「おい、あんた」 「ああ?」 「大渦ってなんだ」  声を掛けられた男は、夜目にもはっきり分かる銀髪に一瞬たじろいだが、ランシィはかまわず続けた。 「いつ起きたんだ」 「なんだお前、いきなり」 「あ、すみません急に! 僕達、気象や地理の研究のために世界中を旅してまして!」  自分でも無理があると思いながらも、レンフェイは横から口を出した。今度はさして珍しくもない栗色の髪と脳天気そうな顔をした青年だったため、男はレンフェイに話し始める。 「ほんの四、五日前に、ここらじゃ珍しい大渦が起きたんだよ。たまたま祭の前で、どこの船も沖に出ちゃいなかったから良かったものの……」 「原因は?」 「分かるかい。日和もいい、波も穏やか、ハイマオだって昼寝してるような日だったんだぞ」 「……原因不明の大渦か」 「あれだ!」  別の男が夜の海を指さす。かがり火と波で揺れる灯りの向こうに、船とは名ばかりの板きれの山が流れていた。 「むごい……」 「難破したにしちゃ、板が綺麗だな」 「ありゃ生き残りか? ひでぇ有様だな……」 「生きてるだけマシだろ」  港の桟橋に、ずぶ濡れの男が引き上げられていた。二人は人混みを掻き分け、その男へ向かう。 「おいあんた、しっかりしな!」 「担架持ってきたぞ! 誰か手伝ってくれ!」 「ひとまずルーモン先生のところへ!」  男達に紛れてなんとか担架の近くへたどり着いたランシィは、びしょ濡れになった男の袖を掴んだ。  誰もが遭難者へ視線を送る中、レンフェイだけが紫の瞳が赤く染まる瞬間を見ていた。 「あちっ」 「なんだ?」 「とにかく行くぞ!」  ランシィは手を離し、担架の後ろの野次馬に混ざった。 「少しは温まったはずだ」  ぼそりと呟いたランシィの声を拾い、レンフェイが「珍しいね」と返す。 「手がかりになる男かもしれない。死なれては困る」 「ごもっとも。後は俺が様子を見ておくから、君は船の方を見てきてくれないか?」  小さく頷いて、ランシィはそっと野次馬の群れから離れていった。  既に彼の瞳は、常の紫に戻っていた。  ルーモン先生と呼ばれる男は、短く刈り上げた白髪頭を掻いて遭難者を見回した。  既に濡れた衣服は脱がされ、暖かな綿のシャツとズボンに身を包んでいる。その上から布団に毛布に湯たんぽにとこれでもかと温められ、頬に赤みが差していた。 「後は意識が戻ったら、消化に良い物を食べさせてやればいい。ゆっくり体力も戻るだろう」  それにしても、と老眼の始まった目をしょぼつかせながら、港町唯一の医師が首を傾げる。  ずぶ濡れだったはずの衣類は生乾き程度で、冷え切っていたという男の体も運ばれた時点で僅かながら体温が戻っていた。だが、乾期でもないのにこの短時間で湿気が飛ぶとは思えなかった。  ルーモン医師と共にその疑問を共有できる者はしかし、この場にはいない。  遭難者を連れてきた男達と野次馬で、小さな医院はいっぱいである。それぞれが好き勝手に喜び合ったり男の来歴を予想したりと収拾が付かない状態であった。  ルーモンは節くれ立った手を大きく二度叩く。 「さぁ、今夜のところは戻りなさい。明日、この男が落ち着いたら事情を聞いてみよう」  長年、この港町で漁師達や旅人の面倒を見ている医師の鶴の一声は絶大であった。ざわめきはそのままだったものの、医院の内外に集った者達は三々五々に散っていく。  その中で一人、やや古風な貫頭衣をまとった青年が流れに逆らってルーモンの元へやってきた。 「おや……旅人かね?」 「ええ。初めまして、レンフェイと申します。世界を旅して気象や地理、風土を書き留めている者です」 「ほう、外つ国の学者さんか。格好からしてチュンファの学者かシェンチャンの神官あたりか」 「さすが、よくご存知ですね」 「こんな小さな港町までやってくるような物好きは、大国にしかおらんよ。それにしてもおかしな時に来たものだ」 「そうみたいですね。先日も波の穏やかな日に大渦が起きたとか」 「ああ。あれは私も驚いたよ。五十年以上ここに住んでいるが、あんなことは初めてだ。この人があれに巻き込まれて生き残ったのであれば大した運だが……」  眉間に皺を寄せて、ルーモンは首を振った。 「まぁそれはあるまいよ。あの大渦はこの港にいても見えるところで起きたんだ。もっと早くに流れ着いていないとおかしい。それに渦の目撃者は山ほどいたが、難破船があれば一緒に見えていてもいいはずだ」 「へぇ。じゃあもっと別のところで遭難したんですかね。こういう人は少なくないんですか?」  少し悩んでから、ルーモンはまた首を振った。 「ひとつきに二人もいれば多い方かな。先日の大渦の前にも子どもが二人流れ着いたから、珍しく多い」 「子どもが二人?」 「ああ。旅をしていると言っていたよ。うちに一晩泊まっていったが……。まぁ、今夜はもう遅い。ここらについて興味があるなら、明日また来なさい」 「ありがとうございます。ルーモン先生。お言葉に甘えて明日お伺いいたします」  丁寧に礼を取り、レンフェイは去っていった。  ようやく最後の客がいなくなり、ルーモンは安堵の息を吐く。 「はて、チュンファの学者やシェンチャンの神官なら髪を束ねているはずだが……」  三度ルーモンは首を傾げたものの、眠気に負けて床についたのだった。  
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