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額から伝う水滴を手の甲で拭うと、甚六は山道を外れたことを悔やんだ。この季節と時間なら、残照が手掛かりになる。方向を違うことなど有り得ないのだが、不意に啼泣する空に惑わされ、すっかり迷ってしまった。梢を割って、雨礫が矢のように身体を打つ。足場の悪さと、ぬかるみに気を取られながら、半時ほど笹藪を掻き分けると、古びた山寺が見えた。
朽ちた柱が山門の跡を窺わせるものの、塀は崩れ落ち、辺り一面を膝丈ほどの雑草が生い茂っている。境内に鐘楼は見えず、さして大きくもない本堂だけがポツリと立つ。軒先の反り返りと、勾配のきつい屋根の特徴を見るに、元は禅寺だったのだろう。手をかざして目を凝らすと、本堂の正面に短い石段が見えた。
しめた、あわよくば……。
雑草を踏み散らし、一気に石段を上り詰める。壁際に立てば、大柄な甚六でもなんとか庇の下に収まることができた。
扉の格子から中を覗く。割れた床板から雑草が伸び、叩きつける雨粒に葉先が激しく揺れている。瞳を上げると、天井が所々抜け落ちていた。これでは、中で休息など到底無理か。まだツキはあれど、世の中そこまで都合良く回っちゃいないもんだ。甚六は扉を背にすると、濡れた着物の裾を絞った。
春雨かと思いきや……畜生め、本降りになりやがる。
深い木立を背景に、斜走する雨粒が見える。草葉を叩く音がバチバチと鋭さを増した。
――ピカッ!! ガラガラガラッ……!
「ヒッ!」
雷の恫喝に、短い悲鳴が続く。声のした方へ首を伸ばすと、いつの間にか石段脇の暗がりで細い影が震えている。女だ。
「ねぇさん、そこじゃ足が濡れるでしょう。こっちに、あと一人くらいは入れますぜ」
甚六が声をかけると、藤色の仕立ての良い小袖の陰から、面長の白い顔が覗いた。年の頃は、22、3――年増と呼ぶにはまだ若い。商家か武家の奥方といった風情の上品な女だ。
見たところ独りみてぇだが……はぐれたのか?
甚六は訝ったが、とりあえず若い女と雨宿りというのも悪くない。
「ほら、隣を空けますんで……なにもしやしませんから」
下心を悟られないよう、殊更猫なで声を出す。
「――あい、すみません……」
警戒よりも寒さが勝ったのか、女は足早に石段を駆け上がってきた。白百合のような華奢な手が見えたので、甚六は武骨な浅黒い手を伸ばして掴むと、グイと自分に引き寄せた。女の肩が胸に触れた拍子に、桃のような甘い匂いが鼻を掠め、クラリと軽い目眩を覚えた。着物に香を焚きしめるような女とは、久しく縁がないのだから仕方あるまい。
へへ……こりゃあ、とんだ果報だぜ。
鼻の下を伸ばしつつ、甚六は女の細腰に太い腕を回した。
「おやめくださいまし……」
女は身をよじってみるものの、甚六はがっちり抱いて離さない。
「こんな所でなにもしねぇよ。もっと寄りな、濡れちまう」
着物の上からでも柔肌が分かる。その感触を堪能するだけで、今は勘弁してやろう。
ビカッ……! 稲妻が夕空を走る。
「ヒャッ!」
瞬間、女が甚六にしがみつく。
へへっ……雷様、ありがてぇ。
女の顔が甚六の胸に押し付けられて、思わず口元が緩んだ。
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