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「ねぇさん。こんな場所に独りで来たのかい?」
女の震えが収まるのを待ちながら、甚六は優しく話し掛けた。沈黙を、雨音が埋めている。
「はい。母の命日なので、こちらに参った次第です……」
「へぇ……おっかさんの墓参りか」
「貴方様は、何故こちらに?」
今更――てめぇの言い訳を用意していなかったことに気づいて、胸の内で舌打ちする。
「俺は……商い、の帰りなんだが……この辺りは初めてで、迷っちまってな……」
商いなどと言いながら、身一つで手荷物もない。咄嗟に口をついた嘘にしても、あまりに見え透いている。
「まぁ。それはお困りでしょうね」
にもかかわらず、女は神妙な面持ちで同情を示した。胸を撫で下ろした甚六は、勢い調子づく。
「いいや。お蔭で、ねぇさんに会えたんだ。むしろツイてらぁ」
「まぁ……ふふふ」
甚六に慣れてきたのか、女は身を寄せたまま笑みを浮かべた。艶っぽい仕草。うなじの後れ毛。襟元からチラリと覗く肌襦袢。
全く。こんな雨なら悪くねぇな……。
甚六の身体がじわりと火照る。しかし、女はよほど冷えたのか、なかなか熱が伝わってこない。
「時に、こんな話をご存知ですか?」
ふと――雨音を押し退けて、女が口を開いた。
「うん……?」
「この辺りに、古くから伝わる話です」
顎を引いて見下ろすが、黒髪に隠れて女の表情はよく分からない。
「昔、旅の男が山越えの途中で道に迷い、偶然、古びた山寺にたどり着きました。お堂の中で休んでいると、夜半過ぎに扉を叩く音がしたそうです」
まるで今夜の自分とそっくりだ。甚六は、無言で促した。
「扉を開くと、月明かりの中に美しい女が独り……男は招き入れ、二人は契りを交わしたそうです」
この雨が止んだら、俺もおめぇと……などと甚六は淫らな想像を巡らせる。そんな下心を知ってか知らずか、女は訥々と語り続ける。
「女は、近くの山中に居を構えておりました。そこに男を連れて行くと、二人は時を忘れて睦まじく暮らし……やがて女は身籠りました。ところが、男は旅の者。どうしても郷里に戻らなければならず、泣く泣く女の元を去りました」
遠くなる稲光を眺めながら、甚六は黙って聞いていた。雨が宵を急がせる。夜の帳が駆け足で下りてきたようだ。
「あっという間に半年が過ぎました。男は、やや子が産まれる前に戻ろうと、再び女の山に向かいました。ところが、麓の村まで来ると、妙な噂を耳にしたのです」
「――妙な噂?」
思わず、甚六は言葉を返す。いつしか女の話に引き込まれていた。
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