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「ええ……。山道を通る旅人が、悉く消えてしまうというのです。村人たちは、もののけの仕業だから行くな、と男を止めました」
ふん。もののけ、か。ぞっとしねぇな。
山寺の周囲が、闇に沈む。
こんな状況で怪談話とは、どんな了見なのか。先刻まで震えていた女の口から紡ぎ出されることが、酷く奇妙に思えた。
「男は、身重の女を案じ、いても立ってもいられません。村人の制止を振り切ると、一目散に山に分け入りました。道に迷いながらも記憶をたどり、ようやく女の住まいが見えて来た、その時――若い男の叫び声が響き渡りました」
思わず、甚六は唾を飲んだ。
上下した喉仏をチラリ、女が一瞥した。
「そっと……男が裏口から中を覗くと、白眼を剥いた若い男の顔がありました。喉を食いちぎられ、口の端から溢れる泡が畳を赤く染めていきます。ボリッ。グチャッ。骨を砕き、肉を噛む音がする度に、力なく垂れた手足が上下して、死してなお苦痛に藻搔いているようです。男は、なんとか悲鳴を堪えました。けれども、髪を振り乱し、一心に人肉を貪り喰らうもののけの顔を見て、腰を抜かしてしまいました。それは、あの美しい女……男の愛しい妻だったのです」
甚六は、雨とは異なる嫌な湿気が背中の辺りに滲むのを感じた。
「男は這う這うの体で草原に隠れると、夜半まで息を潜めました。そして、女が寝静まった頃を見計らい、懐刀で切り殺しました」
また雨足が強くなってきた。月のない夜だ。腕に抱く、目の前の女は、やけに白く見える。
「男は、産まれてくるはずのやや子も魔の者に違いないと、事切れた女の腹を裂きました。ところが――腹の中に、やや子の姿はありませんでした」
不意に涼しい風が首筋をくすぐり、思わず身震いした。柄にもなく、女の語り口に飲まれたか……。
「あら。ふふふ……」
女が甚六を見上げた。切れ長の黒目がちの双眸が、三日月のように細くなる。
なんだってんだ! 盗賊頭のこの俺が――泣く子も黙る『般若の甚六』様が、ざまあねぇっ!
「ねぇ、甚六さん」
女は甚六を見上げたまま、口角をニイと上げた。色のない顔に、唇だけ紅い。
「あんたのお父っつぁんの名は、五兵衛さんというのでしょう?」
「お、おめぇ……なぜ、それを……?!」
脂汗が、びっしり吹き出していた。
気づくと、女の両腕ががっちりと甚六を抱き締めている。
「やいっ、離せ、このっ……!」
振りほどこうと腕っぷしに力を込めたが、なんとしても離れない。
馬鹿な。この細腕の、どこにこんな力が――。
――ピカッ……!
その時、一際鋭く雷光が走った。
甚六をしっかりと捕らえる女の背後に、影がない。
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