よしずく

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よしずく

 個展は今回も順調にお客様を集めていた。  芳名帳への記入もたんとだ。  古参の方、新規の方、国内外バラエティ豊かに。  会場へ毎日顔をだす静司は、いつの個展でも最後まで疲れを見せない。  どころか、どんどん絵も本人も輝きや独特の空気を増してゆく。  お客様うっとりおぼれる。  幻想的な雨の世界の青い絵に。  ある日夕方、本日も個展終了後、ふたりはやはりあの絵の前に居た。 『ナンムの雨』だ。  秀彦は違和感を感じた。  絵が、育っている。  何がどうとかは云えない。  ただ、絵がどんどん近いモノになっている。  魂へ。  ふたりへ。 「秀彦も、やっぱ?」  目をあわせればだいたいの意思疎通はできるふたりだ。  うなずいた秀彦に寄り添い、静司は何かを予感していた。  そう、今日も雨の日だった。  梅雨があけるころに、個展も開催期間を終える。  あと残すところ数日の日、学校の課題で秀彦がいっしょできなくも、静司はひとり散歩に出かけた。  にわか雨のやんだあとだった。  ほんのりしっとりした夕方の世界を泳ぎゆく。 「美しいとはこう云うことさ」  公園のベンチ、小さなスケッチブックにエスキースをしたためた。  どっかの赤い豚さんのキャッチコピみたいなことをつぶやいて。  ちょっと描いてから、雨合羽着てきたから濡れていいから、ベンチの背もたれにもたれかかり、深く息をした。  目をとじる。  雨の香りで満たされる体。  目をあけ見あげる儚い夕空には、まだ水けを含んでいると思われる雲の群れ。  もうひと雨くるかな?  描いていた三枚目あたりで、気配を感じ画材を合羽の中のバッグへしまい、立ちあがった。  辺りは宵闇に染まろうとしている。  予想どおり空の雫が滴ってきたなかを、かぶったフードにあたる雨音心地よく家路についた。  ああそうか、もうじきだ。  この世界に未練はなくとも、なつかしいと思えるほど生きたことが、胸にぬくかった。  いよいよ、個展は最終日になった。  もちろん雨の日だった。
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