青で満ちるこの世界

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青で満ちるこの世界

 名残り惜しいように再来してくださったお客様、どうしても空かなかった予定がやっと空いてやっと来れました、と、涙してくださるお客様、様々。  並んだ絵達の値札には、どれも、購入済みの丸いシールが貼られている。  ただ、あの絵だけは違った。  あの前代未聞ななんかのイイもんな絵、『ナンムの雨』は。  ほしい! と、どんだけ熱心に拝みたおされても、静司は応じなかった。 「これは、俺と秀彦が還るための地図なんスよ。じゃ飾るな、て、いろんなヒトのいろんな水け吸わしたほうが、良い子な地図になれんですよ。まじすみません。かわりにサインいかがっスか? イラスト添えちゃいますよ」  いかがですよくださいありがとうございます。  ヒト、て、すなおだなァ、と、静司は物販していた画集やポストカードご購入のお客様にすらすら描かせていただいた。  秀彦も今日ばかりは一日がんばってくれた。  会場で静司のそばに居た。  できうるだけの愛想よく。 「あいかわらず仲睦まじいですね。そんなおふたりに、みなさん励まされていますよ」  理解あるそっちの記者も来ていた。  顔見知りのうちのひとりで、初日にも来てくださった方だ。  良い記事をお書きになる。  ふたりは良い顔をして良い返事をした。  遠く近い雨音は、胎内で聴く母の声のように建物内で反響し、誰もを安心で包んだ。  本日訪れたお客様らは、それを無意識で感じ不思議な心地になったろう。  やまない雨の夕方、最後のお客様が後ろ髪ひかれる思いで立ち去り、個展は会期を終えた。  後片付けに忙しいスタッフひとりひとりに、ふたりはタイミングをみはからいつつ、愛飲する炭酸飲料を配ってまわりカンシャされた。 「打ち上げー! 本日二〇時!」  はーい! 「酒の話がでるとみんな元気ね。俺もおいしいもんうれしいけどにゃー、っぐ!」  そこらへんにあった椅子に腰かけた静司が、からかうように言った罰か炭酸飲料飲んでむせた。 「あー、もう」  げほげほする華奢な背中を、秀彦はていねいにさする。  スタッフは優秀で、打ち上げ間近にはほぼ誰も居なくなり、貴重な作品達もすっかり安全な場所へ移された。 『ナンムの雨』をのぞいて。  静司が、これは俺たちがどうにかするから、と伝えてあったから。  最後のスタッフが、おふたりもお早く、と、おじぎして去った。  とたんに、雨の気配が強くなる。  音。  水滴がすべてに打ち付ける様。  空中で踊る水がふたりを迎えに来た。  静司も秀彦もすでに絵の前に居た。  地図、とはよく言ったもんだと秀彦は感心している。 「俺たちは、何を思いだしていたんだろうな?」 「これっしょ?」  静司は『ナンムの雨』を指さした。 「ああ」  おぼれる。  空気の世界のここで。  雨の世界を離れて久しいから、体がもとの環境に順応するのにちょっとかかる。  ふたりはそれをあたりまえのように受け入れ、手を繋ぎ一歩を踏みだした。  絵が溶ける。  みまわす。  雨にけぶった景色の上、空が、透きとおる青と、半透明のブルーグレイのマーブル模様に染まり、虹がいくつも輝いている。  雨音が軽快に跳ねて空の青にリズムをつけ、輝く虹がテンポよくゆれていた。  どこかから聞こえる、唄声のような風の音のような澄んだ旋律。  なんて愛らしい世界。  でもそこかしこが闇に侵食されている。  それを浄める力を得るために、静司はむこうに遣わされたんだ。  お付きの者にして恋人の、秀彦を伴って。  深呼吸。  体が芯からクリアになるように清々しい。 「ただいまちゃーん」  てんてんてん、と、静司は軽快に歩いてく。 「なつかしい匂いだな」  秀彦はその手をとり、同じように歩いて転ばないように支えた。  静司も秀彦も、いつのまにか長く澪を引くうすい衣を纏っていた。  光の軌跡を描き、絵の中へ旅立つふたり。  や。  還るんだ。  つい産まれる前まで属していた世界へ。  絵を描くように世界を浄め、美しさ陰りつつあった雨の世界を、もういちど、清浄な原初の雨の世界へ整えるために。  ふたりをとりもどした世界は早くも、ふたたび青の加護に染まり始めていた。
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