0人が本棚に入れています
本棚に追加
青で満ちるこの世界
名残り惜しいように再来してくださったお客様、どうしても空かなかった予定がやっと空いてやっと来れました、と、涙してくださるお客様、様々。
並んだ絵達の値札には、どれも、購入済みの丸いシールが貼られている。
ただ、あの絵だけは違った。
あの前代未聞ななんかのイイもんな絵、『ナンムの雨』は。
ほしい! と、どんだけ熱心に拝みたおされても、静司は応じなかった。
「これは、俺と秀彦が還るための地図なんスよ。じゃ飾るな、て、いろんなヒトのいろんな水け吸わしたほうが、良い子な地図になれんですよ。まじすみません。かわりにサインいかがっスか? イラスト添えちゃいますよ」
いかがですよくださいありがとうございます。
ヒト、て、すなおだなァ、と、静司は物販していた画集やポストカードご購入のお客様にすらすら描かせていただいた。
秀彦も今日ばかりは一日がんばってくれた。
会場で静司のそばに居た。
できうるだけの愛想よく。
「あいかわらず仲睦まじいですね。そんなおふたりに、みなさん励まされていますよ」
理解あるそっちの記者も来ていた。
顔見知りのうちのひとりで、初日にも来てくださった方だ。
良い記事をお書きになる。
ふたりは良い顔をして良い返事をした。
遠く近い雨音は、胎内で聴く母の声のように建物内で反響し、誰もを安心で包んだ。
本日訪れたお客様らは、それを無意識で感じ不思議な心地になったろう。
やまない雨の夕方、最後のお客様が後ろ髪ひかれる思いで立ち去り、個展は会期を終えた。
後片付けに忙しいスタッフひとりひとりに、ふたりはタイミングをみはからいつつ、愛飲する炭酸飲料を配ってまわりカンシャされた。
「打ち上げー! 本日二〇時!」
はーい!
「酒の話がでるとみんな元気ね。俺もおいしいもんうれしいけどにゃー、っぐ!」
そこらへんにあった椅子に腰かけた静司が、からかうように言った罰か炭酸飲料飲んでむせた。
「あー、もう」
げほげほする華奢な背中を、秀彦はていねいにさする。
スタッフは優秀で、打ち上げ間近にはほぼ誰も居なくなり、貴重な作品達もすっかり安全な場所へ移された。
『ナンムの雨』をのぞいて。
静司が、これは俺たちがどうにかするから、と伝えてあったから。
最後のスタッフが、おふたりもお早く、と、おじぎして去った。
とたんに、雨の気配が強くなる。
音。
水滴がすべてに打ち付ける様。
空中で踊る水がふたりを迎えに来た。
静司も秀彦もすでに絵の前に居た。
地図、とはよく言ったもんだと秀彦は感心している。
「俺たちは、何を思いだしていたんだろうな?」
「これっしょ?」
静司は『ナンムの雨』を指さした。
「ああ」
おぼれる。
空気の世界のここで。
雨の世界を離れて久しいから、体がもとの環境に順応するのにちょっとかかる。
ふたりはそれをあたりまえのように受け入れ、手を繋ぎ一歩を踏みだした。
絵が溶ける。
みまわす。
雨にけぶった景色の上、空が、透きとおる青と、半透明のブルーグレイのマーブル模様に染まり、虹がいくつも輝いている。
雨音が軽快に跳ねて空の青にリズムをつけ、輝く虹がテンポよくゆれていた。
どこかから聞こえる、唄声のような風の音のような澄んだ旋律。
なんて愛らしい世界。
でもそこかしこが闇に侵食されている。
それを浄める力を得るために、静司はむこうに遣わされたんだ。
お付きの者にして恋人の、秀彦を伴って。
深呼吸。
体が芯からクリアになるように清々しい。
「ただいまちゃーん」
てんてんてん、と、静司は軽快に歩いてく。
「なつかしい匂いだな」
秀彦はその手をとり、同じように歩いて転ばないように支えた。
静司も秀彦も、いつのまにか長く澪を引くうすい衣を纏っていた。
光の軌跡を描き、絵の中へ旅立つふたり。
や。
還るんだ。
つい産まれる前まで属していた世界へ。
絵を描くように世界を浄め、美しさ陰りつつあった雨の世界を、もういちど、清浄な原初の雨の世界へ整えるために。
ふたりをとりもどした世界は早くも、ふたたび青の加護に染まり始めていた。
最初のコメントを投稿しよう!