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第一章 出会い 2
恋人にフラれようが何しようが仕事には関係ない──そう思っても朝一番にあんなメールをもらってしまったら頭から離れる訳がない。
今朝の拓海はなんとか集中しようとしても、仕事に身が入らなかった。
「はぁ~……」
どうにか午前中いっぱいの仕事を終えると、拓海は深いため息を吐いた。
(今度こそ大丈夫だと思ったんだけどなあ……)
拓海は何を打つわけでもなくキーボードに置かれたままの自分の手を見つめながら、ぼんやりそんなことを考えた。
「嶋、どうした、もう昼だぞ?」
肩越しにそう声をかけられて慌てて振り返ると、二歳年上の鷲頭が苦笑しながら拓海を見下ろしていた。
「鷲頭さん……」
鷲頭と呼ばれた男は、拓海と目が合うと人懐っこい笑顔を浮かべた。
「なぁ、昼飯一緒に行かないか?」
「あっ……は、はいっ!」
久々に先輩と食事が出来ると思った途端、拓海はガタンッと勢いよく立ち上がった。そんな拓海を見て、鷲頭は面白そうに笑った。
(やった……!)
彼の後について会社を出ながら、内心密かにガッツポーズをする。以前はこうして食事に誘われることも多かったが、近頃はとんとご無沙汰だった。
「いただきますっ」
狭い定食屋のカウンター席で並んで昼食を共にする。拓海は鷲頭と時々腕がぶつかることに内心ドキドキした。今朝の今で現金だなと自分で思いつつも、ときめいてしまうものは仕方がなかった。
そうして幸せな気分でご飯を頬張っていると、鷲頭が徐に口を開いた。
「良かった、元気出たみたいで」
「え?」
ふと横を向いてかち合った優しい視線に、思わずドキリと心臓が跳ねた。
(心配……してくれた?)
拓海は赤くなったのがばれないよう慌てて顔を正面に戻すと、頬が緩むのを堪えながら勢いよく残りのご飯を掻き込んだ。
鷲頭とどうこうなりたいという気持ちは正直無い。この気持ちは恋心とは少し違うと思う。
だが、彼は入社当時から拓海の“密かな憧れ”だった。彼の目鼻立ちのハッキリした男らしい顔立ちや、凛とした真っ直ぐな眼差し、懐の大きな優しい性格などは、まさに拓海の“なりたい自分”だった。
「何かあったのか?今朝から元気無かったみたいだけど」
「い、いえっ!ちょっと寝不足なだけで、なんにもないです。心配してくれてありがとうございます」
拓海は力無く笑って首を振った。
まさか「男の恋人にフラれた」なんて、口が裂けても言える訳がないからだ。
「そうか……」
鷲頭はちょっと安心したように笑ってお茶をすすった。
拓海は今まで自分の性癖をひた隠しにして生きてきた。母親と、親友で同じくゲイである雅尚以外には、拓海の周囲でその事実を知る人間はいない。
二人にだって自分から打ち明けたのではなかった。母親には一人暮らしをするタイミングで向こうから“そう”であると分かっていると言われた。「だから良い人が出来たら紹介してくれたら嬉しい」と言われて二人で泣いたのは良い思い出だ。
雅尚には仲良くなって直ぐの頃に「タクってゲイ?俺もなんだよね~」と日常会話の延長線のような感じで言われて驚いたのを鮮明に覚えている。
雅尚はその人目を惹く容姿で女子から告白されることも多かったのだが、高2の時「女性に興味無い」と宣言して周囲をざわつかせた。あまりに臆面もなく言うものだから周囲もその凛とした姿に気圧されたのだろう、彼がそのせいで何か言われたりされたりしたという話は聞いたことがない。(そのせいで今度は男から告白されてウザイ、と雅尚は顔をしかめていたけれど。)
拓海はあんな風に堂々としていられる雅尚を、当時も今も尊敬していた。
そんな雅尚のような生き方を時々羨ましく感じる時もある。けれど、自分は彼のようには生きられないとも思っていた。拓海は差別や嫌悪の視線に曝されて自分を保っていられる自信が無かったのだ。……いや、それ以上にそれがバレた事で“もしまたあんな事が起きたら”と思うと恐ろしく、拓海は自分からは他人に打ち明ける勇気が出なかった。
(鷲頭さんなら……もしかして受け入れてくれたり、しないかなぁ……)
雅尚のような味方が社内に一人でもいてくれたら、どんなに心強いだろう。そんなことを考えながらぼんやりとご飯を口に運んでいると、不意に鷲頭が口を開いた。
「お前、カノジョとかいないの?」
「えっ?……いえ、いないです」
あまりのタイミングの良さに、一瞬自分の思考が読まれたのかと思って拓海は焦った。だが、鷲頭はさぞ意外そうに目を見開いた。
「へえ、意外!モテそうなのに」
「あはは。モテないですよ」
拓海は多少がっかりしながら、苦笑して手をヒラヒラと振った。
実際、女子からだって今までバレンタインにも義理チョコを何個かもらう程度だったし、男性からもほとんどそういうアピールをされたことが無い。これまで付き合ってきた人物はケイも含め皆、雅尚の紹介だった。
「ガードが堅すぎるんじゃない?」
「へっ?!」
鷲頭に至近距離で顔をまじまじと見つめられて、心臓が跳ね上がった。咄嗟に、拓海は危うく椅子を倒しそうになりながらガタガタと立ち上がった。
「どうした?急に……」
「うっ、や、えっと……あ!ほら、もうそろそろ戻らないと!」
「ん?……ああ、本当だ」
取ってつけたような拓海の返事を疑問に思うこともなく、鷲頭は時計を見てそう言った。
会社へと戻る道すがら、鷲頭が面映ゆそうに口を開いた。
「うーん。お前だったら何かアドバイス貰えっかなと思ったんだけどなあ……」
「アドバイス?」
拓海が聞き返すと、鷲頭は頬を少し赤らめ、短い髪を照れ隠しにくしゃくしゃと掻きながら言った。
「あー、うん。いや、実は、な。か……彼女が出来てさ。誕生日近いから、プレゼントどうしようかと、思ってて、な……」
(あぁ……そういうこと、かぁ……)
その刹那、拓海は世界が凍ってしまったように感じた。照れている鷲頭はこちらを向こうとしないから気付かないだろうが、自分はきっと今、酷い顔をしているに違いなかった。
こんなに無邪気に異性愛だけを信じている人に、自分の事を打ち明けられるわけもない。
「カノジョ……ですか……」
呆然と呟くように吐き出すと、鷲頭はその響きがくすぐったそうに笑った。
「ああ……。なんかもう数年ぶりだから、いちいちどうしていいかわかんなくってさあ。参るよ」
その幸せそうにはにかむ顔は、フラレたばかりの拓海には少しばかりキツかった。
その後自分が何と答えたのか、拓海はまるで記憶になかった。
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