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第二章 貴志川雅尚 2
浅い眠りから覚めて気怠い体を起こすと、雅尚をいつもの嫌悪感が襲ってきた。自分自身が気持ち悪くて吐きそうだ。
ヤッている最中が気持ち良ければ良い程、いつも反動のような気持ち悪さが襲ってくる。
雅尚は机の上にそっとホテル代を置いた。そして、豪快な寝相で幸せそうに寝息を立てるユウタを起こさぬよう、静かに部屋を出た。
外へ一歩出ると街のドブ臭さが鼻をついた。
うず高く詰まれたゴミ袋にカラスがたかっているのが見える。ラーメンがそのままの形で残る吐瀉物や、誰かが無遠慮に捨てたのであろうゴミもそこかしこに転がっていた。ほぼ無人の街に様々な人の痕跡が残っているのが、なんとなく不思議に感じた。
何度となく目にしてきた光景のはずなのに、今日はそんな物がやけに目に付いて仕方なかった。まだ薄暗い街を俯きがちに歩きながら、雅尚は自分自身もそうした街の塵芥の1つのように感じた。
その時、目の端がキラッとオレンジ色に光った。手で光を遮りながらそちらを見ると、朝焼けがビルの窓に反射して輝いていた。
雅尚は思わず足を止めて辺りを眺めた。すると早朝のラブホ街が、灰色から薄桃色にみるみるうちに染まっていった。朝焼けに照らされて街が目覚めていく様子に、雅尚は自分だけが世界に取り残されていくような絶望を感じた。
「アハハハッ」
遠く後方で弾んだ笑い声がして、雅尚は我に返った。
声のした方に目を向けると、ホストとのアフターを終えたキャバ嬢らしき人物がタクシーに乗り込むところが見えた。彼女は夢心地のまま家路につくのだろうか、そんな考えが雅尚の頭をふとよぎった。
チリチリと胸が焼けるように痛い。いっそ気が狂ってしまえたら楽なのか。
雅尚はそんな馬鹿げたことを考える自分に呆れて、深いため息を吐いた。
昨夜、拓海はきっとこの孤独感を察して引き留めてくれたに違いない。自分が馬鹿なことをしでかさないように、側に置いてくれようとしたのだろう。
クソみたいなこの世界で唯一、拓海は雅尚にとって清らかな聖域のような存在だった。
拓海が幸せにこの世に存在してくれることが、ある意味雅尚にとって救いであった。
『タク昨日はありがと。今週末、泊まりに行っていい?』
雅尚は拓海にそうメールを打った。
「ごめんね、拓海……」
雅尚は小さくそう呟いた。つくづく自分には彼の優しさをかけてもらう価値も無いと思った。
そして重い体を引き摺るように家路についたのだった。
雅尚は家に入るなり敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。体が泥のように重い。
この部屋には、高校卒業と同時に家出してしばらくの頃から住んでいる。布団を敷いたらあとはほとんどスペースなど無い、狭いワンルーム。元々物欲はあまり無い方だが、この部屋に住んでからは無駄な物をより持たなくなった。
そんな畳敷きの小さなアパートをいつまでも出る気になれないのはきっと、家を飛び出した時のあの気持ちを忘れたくないからだ。
あの苦しみを、あの憎しみを、雅尚は決して忘れてはいけない気がしていた。
「ラン……」
不意にあの人の名前が雅尚の口からこぼれた。
出会ったその瞬間から追いかけ続けているその人について、雅尚は「ラン」という仮の名前と姿形以外何も知らない。いつか彼の方から教えてくれるのではないか、という淡い期待すら最近はもう捨てていた。
それでも彼から離れられないのは、あの淋しげな瞳に自分が写っていたいからだ。あの瞳と見つめ合える瞬間だけ、雅尚は暗闇から少し逃れられる気がした。
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