第二章 貴志川雅尚 3

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第二章 貴志川雅尚 3

5年前、少し背伸びしたくて入ったバーにその人はいた。 雅尚は一目会った瞬間に、“あの人の孤独を埋めたい”と思った。もしそれが出来たなら、自分にも生まれてきた価値があるんじゃないかと何故か思ってしまったのだ。 ──そんな訳は無いのに。 それから足繁くそのバーに通っては、ウザがられるのも構わず雅尚は彼に話し掛け続けた。好きなお酒の話から、ファッション、グルメ、時事問題まで、ありとあらゆる事を話しては彼が興味を持ちそうな話題を探った。 ある日、珍しくこちらをマジマジと見た彼が口を開いた。 「どうして君は馬鹿のフリをしているんだ?」 「……えっ?」 思わぬ質問に雅尚はパチパチと目を瞬かせた。一瞬で口の中がカラカラに渇くような気がした。 「周りの人間に合わせているのか?それとも馬鹿のフリをしていた方が得があるのか?」 少し不機嫌そうに目を細めた彼が、もう一度そう訊ねた。 雅尚はゴクリと唾を飲み込むと、フゥと息を吐いて“バカみたいに明るい笑顔”を仕舞った。そして、どう答えるかしばらく考えたあと、いつもとは違う低い声でこう答えた。 「…………そうしなきゃ、こんな人生やってらんなかったから、かな」 答えを聞いた彼は一瞬目を見開いて、それから直ぐに視線を落とした。 「……そうか。悪かった」 説教するでもなく、同情するでもなく、ただそう言ってグラスを傾ける彼を、雅尚はますます愛しく思った。 「ううん。ありがとう。嬉しい」 雅尚がそう言って心から微笑むと、彼はばつが悪そうに「そうか」と言った。 雅尚は、彼に“笑顔の裏側”に気が付いてもらえた事が嬉しくて舞い上がった。 今までこんな風に寄り添ってもらえた経験が雅尚にはほとんど無かったのだ。だから彼もきっと、その閉ざした心の奥に自分が寄り添えたなら、喜んでくれるに違いないと思った。 そう思い上がってしまったからこそ、雅尚は彼にあんな酷い事が出来たのだ。今では後悔しかないあの出来心が、皮肉にも彼を繋ぎ止め、そして永遠に心を閉ざさせたのだった。 雅尚はあの日彼に指摘されてから、無理に笑わなくなった。そうなってようやく、彼は普通に会話をしてくれるようになった。 けれどそこから約2年、距離は全く縮まらなかった。 偶然バーで会えた時だけの間柄。連絡先はおろか次の約束すらしてもらえない。会話と言っても雅尚が振った話題に相づちを打つ程度だから、一向に彼の事は分からなかった。 もうほんの少しだけでも彼に近付きたい、彼の事が知りたい──雅尚が“罪”を犯したのはそんな浅はかな好奇心からだった。 3年前のあの日、珍しく既にホロ酔いでバーに現れた彼に、雅尚はわざと強めの酒を勧めた。いつもスマートで完璧な彼が見せたほんの少しの綻びに、雅尚の好奇心が疼いたのだ。 とはいえ彼も相当お酒に詳しいようだったから、きっと度数を分かった上で飲んだのだと思う。だからこそ、どうして雅尚のあんな誘いに乗ってくれたのか、未だに真意は分からない。雅尚を信用してのことだったのか、それとも単に飲まなければやっていられない心境だったのか……。 とにかく、意識を手放す直前までお酒をあおった彼を、雅尚はホテルに連れ込んだのだった。 「バカだなぁ……」 アパートの湿った布団に顔をうずめながら、雅尚は独りごちた。あの日の自分を殴ってやりたい、とあれから何度思っただろう。 翌朝「おはよ」と下着一枚の雅尚が言った瞬間の、あの絶望に満ちた彼の顔を今でも鮮明に覚えている。嘘だよ、と直ぐに言ってしまえば良かったのに、雅尚はそれを無理矢理にでも“本当”にしたかった。 「お……俺が、君に……手を出したのか……?」 頭を抱えたまま、絞り出すような声で彼が言った。雅尚は上手く引っ掛かったと思って無邪気に笑った。 「そう、って言ったら?」 どんな反応をするのか少しワクワクしながら雅尚は待った。 けれどイタズラっぽく笑って答えた雅尚とは対照的に、彼の顔はみるみる青ざめ脂汗が浮かんでいった。 「……………っ」 彼は色を失った目で、雅尚を呆然と見つめただけだった。 完全に間違えてしまった。 けれど雅尚が間違えたと気付いた時にはもう、後に引けなくなっていた。 雅尚にとってセックスはそんなに重要な事ではない。だから彼も、そんな重々しく受け取るとは思わなかったのだ。ただちょっと、もしそうだったら彼がどんな反応を示すのか知りたくて、“ない”事を“あった”事にしてしまった。 「……分かった。責任は取る」 しばらく熟考した後で彼が発した言葉に雅尚は耳を疑った。 「えっ?ま、待って?責任って、何?」 「いくら酔っていたからとはいえ、すまなかった」 彼の震える声が雅尚の胸に突き刺さった。 「やだっ!謝らないで!」 「……すまない」 苦虫を噛み潰したような顔で謝罪を繰り返す彼の腕に雅尚は縋った。 「付き合って欲しいなんて言わないから!だからもう会わないなんて言わないで!!何も要らない!他に何も要らないから……ねぇ……お願い……」 最後の方は喉がつかえて掠れ声になった。 雅尚は己の過ちに全身の血の気が引いていくのを感じた。 何度も会話をする中で、彼が恋愛に対して多少潔癖なところがあるのは感じていた。けれど、まさかセックスという行為が彼にとってこんなに重大な行為だとは思わなかったのだ。自分の浅はかさを雅尚は呪った。 「………………分かった」 しばらくの沈黙の後、彼が消え入りそうな声で答えた。そして彼は雅尚の腕をそっと解くと、ホテルに備え付けのメモ用紙を手にとった。そしてそこへ電話番号とメールアドレスを書き付けて、押し付けるように雅尚に渡した。 「……もう、あのバーには行かない。……だから、そこに連絡してくれ」 「…………っ」 絶句している雅尚の顔をまともに見ることもなく、彼は素早く帰り支度を始めた。 「……ホテル代はここに置いておくから」 彼が一万円札を何枚かテーブルの上に置くのが見えた。雅尚はようやく我に返ってベッドから飛び出した。 「ま、待って!せめて……せめて名前、教えてよ!!」 彼がドアノブを掴んだ瞬間、雅尚はそう叫んだ。 「………………ラン」 彼はドアの方を向いたまま低い声で答えると、チラリと振り返りもせず部屋を出ていった。 ずいぶん逡巡を巡らせていたようだから、教えてくれた名前もきっと本名ではないのだろう。けれど数年越しに知った彼の名前は、雅尚にとって宝物のようだった。 「ラン……」 虚空に向かって呼んだ途端、後悔で涙が溢れ出た。手でグイッとその涙を拭い取ると、雅尚は貰った紙に慌ててその名を書き込んだのだった。 (あんな事してどうして本命になれるなんて思ったんだろ……。そもそも俺にそんな資格ないのにさ) 雅尚は当時を思い出し、ゴロリと寝返りをうって大の字になった。体はクタクタなのに寝付けなくて、雅尚はシミが付いた古い天井をただぼーっと眺めた。 実はあの後、やっぱり嫌われても本当の事を話そうと雅尚は思った。 そう思って勇気を出してランに連絡をしたのだが、会ったら最後、雅尚は結局何も言い出せなかった。 雅尚が何も言えないうちに彼から夕飯を食べたのか訊かれて、雅尚はバカ正直に「食べた」と答えてしまった。せっかくの話すチャンスを自ら捨てたも同然だった。そうしてまともに会話することもなく、そのままホテルに行くことになってしまったのだった。 あの日からもう、ランとはまともに会話など無い。会って、ただヤるだけ。 それでもいつも、待ち合わせで会った瞬間と雅尚が達した瞬間、その時だけ彼は切なげに微笑んでくれる。雅尚は今もその笑顔に縋って生きていた。
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