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第二章 誰かの影 2
“橋田弁護士事務所”
二人の目の前にあるビルの看板には、確かにそう表記されていた。
「今日は……ここに、話を聞きに来ました」
冬樹は呆気にとられている拓海に向かって言った。出来るだけ平静を装うつもりだったが、声が震えて仕方なかった。
「ここの、橋田先生には……父が……生前、お世話になっていて…………」
声を出そうとする度に喉がつかえて上手く話せなかった。拓海は冬樹からの断片的な情報をつなぎ合わせて何かを察知したらしく「あっ」と小さな声を上げた。
「………ってことは」
ギギギと音がしそうな、錆びたロボットのような動きで拓海は冬樹に顔を向けた。冬樹は静かに頷いた。
「今からここで…………父の……遺言書を開けます」
蒼褪めた顔で「冗談だ」と言って欲しそうな彼を前に、冬樹はようやく真実を告げた。
「だ……だめだよ、それ……!そんな……む、無理だって……!」
案の定オロオロとうろたえ始めた彼に、冬樹は深々と頭を下げた。
「迷惑なのは重々承知です。……だけど、どうしても一緒に来て欲しいんです。お願いします」
「ちょ……!?やめ……やめてよ、そんな!頭上げて!」
いくら人通りが少ないとはいえ、公衆の面前で深々と頭を下げる冬樹に拓海は慌てふためいた。
彼は冬樹の肩を揺すって必死に、けれど小さな声で冬樹を制止しようとしてきたが、冬樹は頑として動かなかった。
こんな姿、普段の冬樹を知っている人間が見たら驚愕……いや、抱腹絶倒するだろう。こんなに深く頭を下げたのなど、部下のミスを謝罪しに行って以来、実に数年ぶりだった。
「上げたら、一緒に来てくれますか?」
視線だけを少し上げて尋ねると、彼は困り果てた顔で「わ、わかった……」と渋々承諾してくれた。
「分かったから、もうやめて……」
冬樹が顔を上げると、拓海は真っ赤に染まった顔を片手で押さえて困り果てていた。
二人で事務所に入ると、思った通り橋田も驚愕の表情を浮かべた。
「冬樹君……こちらはいったい……?」
遺言書開封などという最も秘匿すべき案件の席に他人を連れてくるなど、橋田は予想だにしなかっただろう。
冬樹は橋田に軽く挨拶をすると、拓海を自分の横に立たせた。
「こちら友人の嶋さんです。……拓海、こちらがさっき話した弁護士の橋田先生」
「は、はじめまして。嶋です……」
拓海は居心地悪そうに頭を下げた。
「はじめまして。……で、ええと?」
“こちらの彼はどうすればいいのか”と橋田が目で訴えた。彼は拓海が別件で相談があって来たとでも思っているのだろう。
「彼にも遺言書開封に同席してもらうつもりで、今日一緒に来てもらいました」
冬樹がそう告げると、橋田はいよいよ信じられないという顔で拓海を見た。相続権も無い人間がこういう場に来る時は、決まって財産目当てだからだろう。きっと何度もそういった修羅場に遭遇しているであろう橋田のそうした反応は、至極当然だった。
「先生違います。私が無理矢理、どうしてもと彼に頼んだのです。それに彼は今日ここに来るまでこのことを知りませんでした」
冬樹は訝しがる橋田に拓海の潔白を訴えた。
「まぁ、冬樹くんがそこまで言うなら構わないが…………本当に、いいのかい?」
「はい」
冬樹が力強く頷くと、橋田はようやく二人に着席を促した。
「本当に、いいんだね?」
書類を広げる直前、テーブル越しに向かい合った橋田が、再度冬樹に尋ねた。
「はい」
冬樹が頷いたのを確認すると、橋田は視線を拓海に移した。
「君も?君もその覚悟はあるんだね?」
「えっ?…あ、俺は…」
話を振られると思っていなかった拓海は答えに詰まって、うろたえながら橋田と冬樹を交互に見た。橋田は途端に顔をしかめて書類を閉じた。
「君、覚悟も無しにここへ来たのかい?この話を聞くってことがどんな事か、君はちゃんと解ってるのか?」
「待って下さい!さっきご説明した通り彼は何も知らずにココにいるんです。私が責任を持ちますから、責めないであげて下さい」
橋田が睨むように拓海に詰め寄ったので、冬樹は慌ててフォローを入れた。
だが、橋田はいよいよ怪しい、といった様子で冬樹に視線を移した。
「冬樹君……その、聞き難いことだけど……君と彼とは……」
「「ただの友人です!」」
橋田が全てを言い終わらないうちに、二人同時にそう叫んだ。
しばらくの沈黙の後、橋田は呆れたように溜め息を吐いた。
「……わかったよ。冬樹君の言う通りにしよう。ただし、何があっても責任は負えないよ?」
「はい、解っています。責任は全て私が持つとお約束します。何ならその旨、念書を書いてもかまいません」
橋田は何故冬樹がそこまでして拓海を同席させたいのか、さっぱり解らないようだったが、あまりの冬樹の真剣さに負けたようだった。
「……わかった。君がそこまで言うなら仕方ない。じゃあまずは銀行の貸金庫に預けてあった証書類の確認から……」
橋田が一枚一枚書類を机上に広げていく中、冬樹はクイクイと横から服を引っ張られた。
「……?」
振り向くと、肩身が狭そうに小さくなっている拓海が「本当に大丈夫なのか」という視線を冬樹に寄越した。
冬樹がそれに無言で頷くと、彼は何かに気が付いた様子で目を見開き、それから覚悟を決めたような顔で頷き返した。
(不思議だな……)
正面に向き直り、橋田が父親の遺産を挙げ連ねるのに耳を傾けながら冬樹は思った。
たった数秒の今のやり取りだけで、無意識に入っていたらしい身体の力が抜けている。こんな穏やかな気持ちでここに座れる日が来るなんて、ほんの数ヶ月前まで想像も出来なかった。
(どうやって、この恩を返そうか……)
冬樹は頭の片隅で色々と思案してみた。けれどいくら考えても、この恩は返し切れないような気がした。
「……以上で証書類は全てです。これに生命保険と死亡退職金、家財などを合わせて総資産額は概算で7億4せ……」
「なっ……ななおくっ?!」
ガタガタッというけたたましい音と共に拓海が立ち上がって叫んだ。
蒼白な顔で呆然とする拓海を、白々とした目で見ながら橋田は頷いた。
「ええ、そうです。まだ概算ですし、他にも資産があるかもしれませんから、もっと増える可能性もありますが」
「……………っ」
絶句する拓海を見て、冬樹は“やはり彼にとっては聞かない方がいいことだったに違いない”と思った。
けれどそんな事は初めから解っていたことだ。申し訳なさに冬樹は胸が痛んだ。
「……拓海」
冬樹が座るように促すと、拓海は魂の抜けた人形のようにストンと腰を下ろした。
橋田は一つ咳払いをしてから、机の上の封書とペーパーナイフを手に取った。
「では、これから佐伯夏樹氏の遺言書の開封を行います」
「はい……」
緊張から、冬樹は思わず生唾を飲んだ。
(怖い……)
冬樹は膝の上に置いた手をきつく握り締めて、橋田が茶封筒を開封する様を見つめた。
あの中にはあの人の想いが詰まっている。母と別れてから、いったいあの人が何を考え、どう生きてきたのか、が……。
冬樹は正直それを知るのが怖かった。そしてそれを知った時、自分が正気を保っていられる自信がなかった……。だから冬樹はこの場にどうしても拓海にいて欲しいと思ったのだった。
「……では読み上げます」
そう言って、橋田は淡々とした口調で「遺言書」と書かれたそれを読み上げ始めた。
「え~……遺言者は、所有する全ての財産を、長男 佐伯冬樹に相続させる」
「……え……?」
(なんだって……?)
呆然とする冬樹をよそに、橋田は先ほど確認した遺産と変わらぬ品目を淡々と読み上げていった。
「ちょ……ちょっと待って下さい!」
「……なんでしょう?」
橋田は何故中断するのか解らないといった様子で首を傾げた。
冬樹は力の入らなくなった手をなんとか持ち上げて、橋田の手の中にあるやたらと分厚い紙の束を指差した。
「それを……見せてはいただけませんか……」
そう言って差し出した指は小刻みに震えていたが、冬樹は自分の指が震えていることにすら気付いていなかった。それに気が付いた拓海は心配そうに冬樹の顔を見た。だが冬樹は虚ろな顔で書類を見つめるばかりで、拓海の視線には気付かなかった。
「どうぞ」
そう言って差し出された書類を、冬樹は恐る恐る受け取った。
「ありがとう、ございます……」
(本物だろうか……)
そう思いながら受け取った紙には、しかし確かに見覚えのある字が並んでいた。
一枚目、二枚目、三枚目……と、その膨大な資産の書かれた紙を繰っていき、五枚目に差し掛かった時、冬樹は我が目を疑った。
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