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第二章 誰かの影 3
冬樹は書類を指差しながら、震える声を絞り出した。
「は……橋田先生……いったい、これは、どういうこと……ですか?」
冬樹が指差した箇所を見て、橋田は「ああ」と渋い顔で頷いた。
「法定相続人全てから、遺留分の遺産相続を放棄していただいたのだそうですよ。その最後の頁に各人に生前贈与した旨が資料として添付されているはずです。それと引き換えに相続を放棄してもらえるよう、あなた以外の一人一人に、自分の足で回って頭を下げて……。そうやって全てに片を付けてから、夏樹さんは私の所に遺言書作成の相談をされたんです」
「は…………?」
冬樹は橋田の言葉が脳の中を滑っていくようだった。言われている言葉は分かるのに、全く理解が出来なかった。病院で話を聞いた時と同じで、受け取りを体が拒否しているようだった。
橋田は冬樹の様子に苦笑すると、そうそう、と付け加えた。
「もちろん夏樹さんのご兄弟だけでなく、あなた以外のお子さん全てにも……ですよ」
ほら、と言って橋田は別の封筒から相続放棄陳述受理証明書のコピーを取りだして並べてみせた。
「な……なんで……でしょう?何故……そんな、こと……」
冬樹はめまいを感じながら声を絞り出した。
冬樹は全身に震えがくるのを抑えることが出来なかった。両腕をギュッと掴んでその震えに耐えようとしたが無理だった。
葬式での様子からどんな酷い手を使って縁を切ったのだろうかと思ってはいたが、まさかこんな方法だなんて──。
冬樹も本当のところ、今の今まで相続を放棄するつもりだったのだ。
それなのに…………。
(なんて惨いことをするんだろう)
拓海は震える冬樹の背中を無言でそっとさすってくれた。
橋田はそんな二人の様子を見て、何か言いたげにため息を吐いた。
「冬樹君、あなたの為です。夏樹さんは夏樹さんなりに、あなたを愛していらっしゃったんですよ。……もっとも、伝わりづらかったかもしれないけれど」
「………は??」
橋田の答えを聞いた途端、冬樹は視界が暗くなるのを感じた。目の前にいるはずの橋田の姿がよく見えない。背中に感じる手の平の温もりだけが、冬樹になんとか正気を保たせてくれていた。
(愛していた……だって?あの人が??……俺を?)
机の上に並べられた紙には、『相続放棄者リスト』として何人もの名前が書き連ねてあった。遺言書とは別に、わざわざ書き記したものらしい。
遺言書にしてはやたら分厚いと思ったのは、このリストに続いて家系図や生前贈与の契約書の写しが入っていたからだったのだ。
冬樹はこの時初めて、今までぼんやりとその存在を感じるだけだった自分の異母兄弟が、何人いて何という名前なのかを知ったのだった。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ……」
冬樹は唸るような声を上げた。
「ユキ……?」
それまで黙って聞いていた拓海が、冬樹の異変に気付いて声をかけた。だが、冬樹の耳には届かなかった。
冬樹の顔は蒼白く、額には脂汗が滲み、呼吸も浅くなり、いよいよ全身の震えが止まらなくなった。
(嘘だ。嘘だ!こんなの……。信じるものか……。こんなのが愛なんて……嘘っぱちだ……!)
それが愛だというのなら、こんなことをする前に────ましてや死んでしまう前に、やるべき事があったはずだ。
愛 ナ ン テ ────
冬樹は暗く深い海の底に沈んでいくような感覚に襲われた。
「……キ!ユキ……!ユキってば!」
(拓海……?)
その声はどこか遠い所から救いの手を差し延べるように、ようやく冬樹の中に届いた。
「ユキ大丈夫?顔色が悪いよ?」
「た、くみ……?」
声は聞こえるけれど視界が真っ暗で姿は見えなかった。冬樹はすがるように声のする方へと手を伸ばした。
「ここにいるよ」
伸ばした手を彼の温かな両手に包まれて、冬樹はようやく深く息を吐いた。
「少し休憩しようか」
橋田にそう声をかけられても冬樹は反応することすら出来なかった。見かねた拓海が橋田と目を合わせて頷いた。
「そうしてもらおう?ね?」
「…………」
反応の無い冬樹を前に、橋田と拓海は困ったように目を見合わせた。
「ユキ、一回休憩しよ?」
拓海が再び背中にそっと温かな手を添えてくれた時、冬樹はようやく我に返った。
「いや……。大丈夫……」
冬樹は拓海の方を向き、なんとか笑顔でそう答えた。だが、端から見ればそれはほんの少し顔を歪めた程度にしか見えない程の笑みだった。
「無理しないで」
そう言って拓海が不安げな瞳を向けるのを無視して、冬樹は橋田に向き直った。
「俺には、信じられません……。こんなことをされたって、お金でごまかそうとしているとしか……」
冬樹の言葉に橋田は悲しそうに笑ってみせた。そして遺言書の中から一枚を抜き出して冬樹の前に置いた。
「これを見ても?」
「…………!!」
橋田の指差した箇所を見た途端、冬樹はまためまいがした。
「12月7日……そう、君の誕生日だよ。冬樹君」
「……………っ」
「この意味が解るかい?」
それから橋田が話したことは、冬樹には到底受け入れ難い真実だった。
両親が離婚した際、慰謝料や養育費ではなく、自分に段階的に2億円贈与する事で話し合いが済んだ、ということまでは冬樹も知っていた。
橋田を挟んで言い争うこともなく粛々と進んでいくその協議を、ドア越しに冬樹は何とも言えないザラリとした気持ちで聞いていたのを覚えている。
こんな互いに愛情も未練もないドライな関係で終わりを告げるくらいなら、初めから結婚などせず、自分も産まなければ良かったのに……とその時冬樹は部屋の外でぼんやり思った。
だが、先ほど橋田から聞かされたのは、冬樹が知っていると思っていた二人の姿からは掛け離れたものだった。
橋田によれば、あの人も母も互いにずっと愛し合っていて、けれどそれ故に一緒にいられなかったのだという。
二人の愛は、互いに高め合い、向上していくような関係でい続けなければならないもので、限界がきてしまったのだと。
『あの人があんな風になってしまったのも、冬樹がああなってしまったのも、皆私のせい。だから、あの人を幸せに出来る人が他にいるなら、その人と幸せになって欲しい』
母は別れ際、橋田にこう言ったという。
けれど結局その後も、あの人は再婚せず、次々と浮名を流していたそうだ。
「それがね……」
橋田はその時、急に泣きそうな顔で冬樹を見た。
「君のお母様が亡くなったことを知った途端、夏樹さんはあらゆる人との関係を絶ち始めたんだよ。知っての通りあの方は独りが嫌いで、いつも仲間とワイワイやっているような人だったのに……。人が変わったようになって、皆驚いていた。私にはあの時の彼はわざと嫌われ者を演じているように見えた。急にどうしたのかと思ったよ。でも当時は訳を聞いてもちっとも教えてくれなくてね……」
「…………」
「何年か経ってようやく解った。……君に、全てを遺す為だった」
「……私に?」
怪訝な顔をする冬樹に、橋田は力強く頷いてみせた。
それは、自分の資産を調べて整理し、丹念に家系図を作り上げて法定相続人を確認することから始まったそうだ。休日をフルに使って、それらの人物一人一人に相続を放棄してもらえるよう、何度も何度も足を運んで説得したらしい。当然のことながらそれは難航を極め、何年もかかってそれを成し遂げたのだという。
「ようやく全ての片を付けて私の所に来た時、夏樹さんは『冬樹に自分の想いを伝える手段はそれしかないと思った』と言ってね」
冬樹が遺産のことで揉め事に巻き込まれないようにすることが、親として自分に出来る唯一の事だ、と。
そうして遺言書の作成が始まったのだという。
「毎年、君の誕生日にね、夏樹さんはこれを書き直していたんだよ。君に懺悔しながら……ね」
「懺悔?」
「ああ。君にだけは上手く愛を伝えることが出来なかった、と」
「……おっしゃっていることの意味が……よく……解りません……」
冬樹は息も絶え絶えに答えた。橋田はただ悲しそうに微笑んだ。
「君のお母様が亡くなられたこと、それによって君が独りになってしまったこと、そして何より……君が誰とも親密になろうとしないことが、夏樹さんには相当ショックだったみたいだよ……」
「どうして、そんなこと……?」
冬樹は離婚してから一度も顔を合わせていないあの人がどうして自分の近況を知っているのか、と疑問を口にした。橋田は相変わらず悲しそうな顔で頷いた。
「きっと生前のお母様に聞いていたんじゃないかな。離婚してからも定期的に連絡は取っていたようだから。お母様が亡くなられてからは……まぁ、何らかの手段を使って調べたりしていたんだと思う」
母と連絡を取り続けていたなんて、冬樹には初耳だった。“何らかの手段”というのはきっと、探偵か興信所か……そんな所を使ったのだろう。
「バカなんじゃないのか?」
思わず冬樹の口から本音が零れ落ちた。
「そんな事をするぐらいなら、一度ぐらい自分で会いに来たら良かっただろう……?そしたら……文句の一つでも言ってやったのに」
冬樹が独り言のように呟くのを聞いて、橋田は溜め息交じりに苦笑した。
「冬樹君、人間ってのはね……バカな生き物なんだよ。悲しいことに、失って初めて一番大切なものに気付けるんだ」
──その一言が、決定打だった。
冬樹は橋田の話が受け入れられず、トイレに駆け込み、容量オーバーした想いと共に胃の内容物を全て吐き出してしまったのだった。
やがてトイレから出ると、二人分の荷物を持った拓海がドアの外で帰り支度をして待っていた。
「このまま帰ろう。弁護士さんには話してきたから」
有無を言わせぬ彼の様子に、冬樹は力無く頷いた。
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