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第一章 出会い 1
拓海が駅を出た途端、夜空には見る見るうちに灰色の厚い雲が垂れ込めていった。昼間は五月晴れだったというのに、最近は天気が急変しやすくて困ってしまう。
そこからポツポツと雨粒が落ち始めて土砂降りになるまでは、ほんの一瞬だった。
「くっそ~!ツイてねぇ~!」
行き着けのバーまであと5分というところで突然の雨に降られた拓海は、走りながらそう叫んだ。ザーザーという雨音で叫んだ声までかき消されそうだ。
この近くにコンビニは無いし、もう濡れてしまったものは仕方ないと諦めて、拓海は大雨の中を走り抜けた。
「マスター……っ、はぁ……今日は、もう、店終い?」
拓海は『Bar Sky blue』と書かれた看板の前に立ち止まると、店の入り口で客を見送っていた人物の背中に、息も切れ切れにそう尋ねた。
拓海が声を掛けたのはこの店のマスターだ。突然の雨に傘でも貸したのだろう、いつもはしない外までの見送りをしている最中だった。
「いえ、そんなことは……って、うわっ!拓海君?!」
振り返ったマスターは、濡れ鼠と化した拓海を見て目を円くした。
「傘無かったのか?ほら、早く入って!」
「ありがとう……でも、これで中に入って大丈夫?」
濡れた髪を搾るようにして訊ねると、マスターは苦笑して店から傘を取ってきてくれた。
「……さ、中に入って」
そう促されて、拓海はマスターと共に店の裏口からバックヤードに入った。
「ねぇ、今日はお客さんいないの?」
マスターはバックヤードに入るなり、拓海の為にタオルやら着替えやらをテキパキと用意し始めた。そんなマスターを見て、拓海は率直な疑問を口にしたのだった。
「いや、いるよ。常連さんが二人に初めてのお客さんが一人」
拓海の髪やスーツの水気を払いながらマスターが答えた。
「じゃあ早く店戻んなよ!俺のことはいいからさ」
拓海はマスターからタオルを奪うと、逆にマスターの濡れた肩を拭いてあげながら言った。
マスターは困ったように笑うと、「じゃあ、狭いけど拓海君はここでゆっくりしておいで」と言ってハンガーと新たなタオルを拓海に手渡した。そして、フロアへ繋がるドアに手をかけたあと、もう一度振り返って小さな丸椅子を指差した。
「そこに置いた俺の予備の服、着ていいからね。スーツはそっちのハンガーラックにでも掛けて。それから後で何か持って来るけど、……いつものでいいか?」
自分のことなど放っておいてサッサとフロアに戻ってくれていいのにと思いつつ、拓海は笑顔で頷いた。
「うん。何から何までありがとう、マスター」
けれどパタンとドアが閉まった瞬間、拓海の顔からスッと笑顔が消えた。
「はぁ~~~」
拓海は大きなため息を吐きながら、濡れて重くなったスーツをのそのそと脱いだ。それからマスターの用意してくれたシャツとズボンに着替えてしまうと、ドスンと椅子に腰掛けた。
“誰とも会いたくないが、独りの家に帰るのも嫌だ”
そんな今日みたいな気分の時、拓海はいつもこの店に顔を出す。マスターとこの店の存在は拓海にとって本当にかけがえのないものだった。
マスターは十年程前に死んだ父の旧い友人で、拓海も幼少の頃からずいぶんと可愛がってもらっている。拓海にとって彼は兄のようでもあり、第二の父のようでもある存在だ。
高校時代はどうしても辛くて仕方ない時に両親に内緒でオープン時間前のこの店に来ては、マスターに珈琲やジュースをご馳走してもらっていた。今考えたら開店準備で一番忙しい時で邪魔だったに違いないのに、マスターは何も訊かずに拓海を招き入れてくれたのだった。
あの頃、マスターが黙々と丸い氷を削り出す音を聴くのが好きだった。
サクサクと軽やかな音を聴いていると、雲丹みたいにトゲトゲしい形になった心が氷と共に丸くなっていくような気がした。
マスターはあの頃いつも「出世払いで」と笑ってお金を受け取ってくれなかったから、社会人になった今はちゃんと“客”として通えていることが嬉しい。
拓海はお客が多い時には皿洗いなども買って出ていたので、常連客には顔を覚えられる程になっていた。
『ごめん。やっぱり俺達別れよう』
ふと目を閉じた途端、今朝方届いたメールの文面が頭を過ぎった。
(これで三人目……。またナオに謝んなくちゃなぁ……)
古びた天井を仰ぎながら拓海は他人事みたいにそんなことを思った。
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