偉い人とは

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 人間にはそれぞれ生まれ持っての運命がある。前途には動かしがたい一つのレールが厳然と敷かれてあり、それを辿るより生きようがない。つまり生まれた時点で人生が決まっている。人は努力や選択で運命を変えられると言うが、努力も選択も意志の為せる業であって運命とは意志を超越して人に幸と不幸を与える絶対的な力であるから運命が専制君主ならここで言う人は侍臣である。だから人は運命には絶対、逆らえないのである。で、人は往々にして事が済んでから、ああすれば良かった、こうすれば良かったと後悔するけれども当時は色んな巡り合わせでそうするよりしょうがなかったのであって努力するにも選択するにも天分や境遇に恵まれていないと適切にすることは出来ず、また努力が報われるかどうかも選択の良し悪しも時の運で決まり、所詮、全ては生まれ持っての運命の中で起きることに変わりはない。  よって人は誰が偉くて誰が駄目だとは言えるものではない。マーク・トウェインの「王子と乞食」という話があるが、王子が偉いのでもなければ駄目でもなく、乞食が偉いのでもなければ駄目でもないのだ。人間の真価を問うならば、仮令、俗世の価値観から見て負け組になろうとも永遠不変の普遍的な倫理観から見て人間として正しい道を歩んでいる人こそ偉いと目するべきである。しかし、俗世(属する業界)の倫理観に逆らって人間として正しい道を歩もうとすると、例えば車好きを対象にしたチャンネルを持つ車好きのユーチューバーがそうした場合、二酸化炭素を排出して地球温暖化を促進しないよう車を走らせられなくなるから誰もいいねもフォローもしなくなるどころかフォロワーを始め視聴者がいなくなってユーチューバーでいられなくなって広告収入がなくなって楽しみもなくなる訳だ。サラリーマンだって政治家だってAV女優だって何だって俗世(属する各業界)の倫理観に逆らって人間として正しい道を歩もうとすると、廃業に追い込まれ、楽しみがなくなるに違いない。  しかし、山本太郎氏は違う。タレントとして成功していたのに福島第一原発事故に際し、原発についてテレビ番組で果敢に批判した結果、電力会社を始めそれに関連する大手企業がスポンサーだから芸能界から干されてしまったが、そっちがその気ならこっちは原発廃止するべく政治家になってやるとばかりにタレントを辞め、選挙に臨んで見事に当選して政治家になったのだ。それは俗世(芸能界)の倫理観に逆らって人間として正しい道を歩もうとした結果に他ならず、国民の為ではなく利権の為に政治活動する俗な政治家とは違って山本太郎氏は生活困窮者に対し炊き出しのボランティア活動をするなど国民の為の政治活動を志すノブレスオブリージュの精神を持った本来あるべき政治家なのだ。  金金金の世の中、拝金主義、利益至上主義、利己主義、物質主義に陥って金持ちになることが成功であり幸福であり良いことだとするのではなく良いこと即ち道徳の中心が成功ではなく幸福とするならば、山本太郎氏のような生き方になる。人間として正しい道を歩むと、不幸になる間違った社会から人間として正しい道を歩むことで幸福になれる社会に作り替えようとしているのだ。そう言うと買い被りすぎかもしれないが、何でも楽しみだった飲酒も止め、損得抜きに世の為人の為に行動し、皆が幸福になると楽しくなる即ち幸福になる、それが山本太郎氏なのである。全く偉い人だ。現代の聖人君主だ。彼と友達なら彼と兄弟ならどんなに良いことか。感化されて幸福は徳そのものなんだと悟るだろう。  しかし、それは高尚な人間のみ出来ることであって大半の人間は俗物(おしまいの人間)だから結局、ツァラトゥストラが民衆に何を訴えても分かってもらえないように俗物より高潔に高次元に生きる人は孤独になるものだ。本当にこれは憚りながら高尚になると、実感できることで、俗物に誤解され、根も葉もないあらぬ噂を立てられる。俗物は卑劣だから目の付け所が悪く下卑た低次元の観点から意地悪く勘ぐったことを陰で話し合って面白がる。それを意識できる人は少なくとも俗物よりは偉いと思う。そういう人は自分の中に確固たる価値観倫理観を持っていて俗世の価値観倫理観を軽蔑しているものだ。だから俗物なんか糞食らえと思わなくもないが、山本太郎氏は違う。大乗的だから仏陀やイエス・キリストのように俗物をも救おうとしている。全く偉い人だ。  
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