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第3話 S極とS極のように
仕事上がりの真花を迎えに店に行くと、急に雨が降ってきた。
水をかぶったような俺を見て真花は「あーあ」と言って笑った。俺も笑うしかなかった。
「通り雨かもしれないから少し待ってみたら?」と店長の菜穂子さんに言われて甘えて雨上がりを待つ。ハーブティーが冷める速さに比例して、雨は激しくなった。
見慣れた店内を特に目的もなくうろうろする。時々、菜穂子さんが買い付けてきたばかりの見たことのない品物が目に入る。手を伸ばしかけて、ふっと左隣の商品に目が行った。
なんてことはない、よく売られているアメリカンネイティブのお守り、ドリームキャッチャーだ。藁のようなものと色鮮やかな糸で蜘蛛の巣の形を象っている。使い途は名前のまんま『夢を捕まえる』こと。
バクが夢の中にやってきて悪い夢をバリバリ食べてくれるというのは有名な話だが、アメリカンネイティブの間では枕元にドリームキャッチャーを置いて悪い夢を捕まえてしまう。
特に物珍しいわけではないのに、その日はやけに目を引いた。手触りを試してみる。なんてことない、ざわざわしたものだ。
「じゃーん」
真花は得意げに、自分の赤い傘を持ってきた。
「持ってんじゃん」
「だってふたりで入ったら瑛ちゃん、濡れちゃうじゃない?」
「俺が濡れる方なの確定?」
「瑛ちゃんはいつも優しいからね」と彼女ははにかみながら答えた。
「瑛ちゃん、それ買ってくの?」
「え?」
右手にはまだドリームキャッチャーが握られていた。さっと返す。見たくない夢を見たわけじゃないんだ。そう、ただの夢だ。
湿気が厄介だから、と真花は長いストレートの髪をひとつに束ね、菜穂子さんに手を振られて俺たちは店を出た。
いつの間にかバケツから水を落としたような激しい降りで、真花のアパートまでなんとか辿り着いた。濡れた傘はそこそこに畳んで、ドアの外に置きっ放しにした。
部屋に入って俺たちは意味もなく、それでいてお互いを求めるようなキスをした。真花の長い腕が首に回される。彼女は女性にしては背が高い。
キスの後、ふふっと真花は笑ってタオルを取り出しながら「泊まってく?」と訊ねた。
一瞬考えて、なぜかわからないけど今日は泊まっていく気にならなかった。さっきのキスは魅力的だったし、雨はひどい降りなのに。
「風邪ひくよ」と言われて真花の部屋に置きっ放しのよく乾いたTシャツに着替える。
後ろから、背伸びした真花にひどい勢いでタオルで頭を擦られる。ちょっと、と言うと真花は俺のボサボサになった髪を指差して大声で笑った。
そういうところがあっけらかんとしていて憎めない。「こら」とその気もなく脅して髪を直した。
じゃあ明日ね、と今度は軽いキスをして部屋を出た。コンビニで買ったビニール傘を、彼女は貸してくれた。
いつもならそれほど歩いたという気にならないうちまでの距離が本当に遠い。
海の中に潜ったかのように、ずぶ濡れだ。
グレイのTシャツは薄暗いアパートの街灯では黒とほとんど見分けがつかなかった。
夜の底を泳ぐように、なにかの光に導かれているような錯覚を覚える。なにか、キラキラしたもの。例えば深海なら煌めきを放つクラゲの触手。光ながら尾を引く。これまでの人生にそんなものはあったっけと頭を巡らせる。
とにかく部屋に早く戻ってシャワーを浴びたい。この肌にベッタリとまとわりつくシャツを脱ぎ捨てたい。水を汲んだバケツのような靴を脱いで、濡れた足を乾かしたい。やってらんねぇな、という気分のまま部屋へと急ぐ。
傘を畳んで、ペンキが剥げて錆の浮いた外階段をゴム底の靴がキュッと音を立てて上りながら信じられないものを見つける。なんで?
「なんで?」
「会いたくなっちゃった」
顔を赤らめて下を向かれたりするから困る。いつになっても変わらない。知り合ってから何年経っても仕草は以前と変わらないものだった。
驚くべきことに別れてから三年経った彼女は、夢の中で見た姿のまんまだった。長かった髪をバッサリ切った肩先までの髪が、以前の彼女より少しだけ大人に見せた。
さすがに雨の中、麦わら帽子は被っていなかったけれど、代わりに紺地に白い水玉のついた畳んだ傘を持っていた。
「テレビのニュースをぼんやり観てたの。そうしたらぼやーっと、瑛太の顔が見たくなって来ちゃったんだけど、会えてよかった。アパート、変わってなかったんだね。奥寺くんが迷わないようにってよく教えてくれたんだけど、表札もないから不安で」
普段はふわふわのくせっ毛が、高い湿度できついウェーブを描いていた。少しは雨に濡れたんだろう、俺といい勝負で肩が濡れてる。
ドアにもたれかかるように座る彼女を避けて、ポケットから鍵を出して部屋を開ける。
「上がって」
「いいよ、いいよ。わたし濡れてるし。顔が見たかっただけだから」
「風邪ひくだろう?」
「いいんだよ、勝手に会いにきたんだし」
「バーカ、お前がこのまま雨に濡れて帰るんだって想像する身にもなれ」
立ち上がった彼女の頭にポンと何気なく手をやった。
不思議なことが起こった。ふわっと頭の中に甘ったるいカスタードクリームのような香りがした。その香りは追いかけようとすると、一瞬にして消えていった。
「離れてる間、わたしもいつも心配してたからおあいこってことだね」
美波はそう言ってはにかんだ。
おじゃまします、と小さな声で呟いた美波は屈んで、履いていたストラップ付きの白いヒールをきちんと揃えた。そういうところもまるで変わっていなくて、俺はタオルを出した手を止めてその動作のひとつひとつを見つめていた。
振り向くと美波はこちらを向いてにっこりと笑った。夢の中で見たまんまの笑顔だった。そうしてこいつはいつだって一緒にいる時、こうやって笑うんだってことを思い出す。
そう、シュークリームみたいに。中身は甘い香りのカスタードと滑らかな舌触りの生クリームだ。
「とりあえずタオル使えよ」
「ありがとう。なんかたくさん濡れちゃってどこから拭いていいのかわかんないな」
「昔から傘さすの、苦手だっただろう?」
「そうかも。雨の日は傘があってもなくても濡れちゃうもの」
やだなァ、と言いながら美波は下を向いた。こいつには元々そういうところがあって、例えばこんな日に限って白いスカートを履いていた。裾が気になったようだ。確かにふわっとしているはずのものが重そうに見える。
「……着替え、貸そうか? あ、その、つまり服が乾くまでの話だけど」
ぽかん、とした顔で美波は俺の顔を見たかと思うと、赤くなって俯いた。
言葉が胸の奥に詰まってしまって、自分も思い通りに喋れない。たくさんの言葉の中から適切なものを選べない。この部屋の空気はきっと今、薄いはずだ。
「……確かにたくさん濡れちゃったしね。わたしが着られそうなもの、ある?」
「サイズは大きくなっちゃうけどなんとかなるだろうと思うよ」
自分の経験から考えると、ブカブカでも大は小を兼ねるものだ。女の子に着替えを貸しても今まで問題はなかった。
押し入れの端に折り畳まれていた真花の服はなかったことにする。
「えーと。ここ古いアパートだから脱衣場無いんだ。つまり」
「あ、はい、わかりました。ちょっとだけ後ろ向いててくれる?」
「もちろんだよ」
Tシャツと薄手のパンツを渡すとすぐに彼女に背中を向けた。手が触れそうになったけど、お互いに反発し合う磁石のS極とS極のようにパッと離れた。なにをやってるんだ、俺は。まるで中学生の時みたいじゃないか。
邪な気持ちがないだけ昔の方がマシかもしれない。
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