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13
希美は夫にこう切り出す。
「離婚して欲しいの」
桜井は彼氏にこう切り出す。
「私と別れて欲しいの」
人生の伴侶と決別し別々の道を歩む。二人の目指すべき家というモノがあった。
都内近郊住宅地に位置する真っ白な外観の大きな一軒家。内装リフォームは全て済んでおり、そこには快適空間があった。
アーロンチェアに腰掛けゆっくりとコーヒーを嗜むこの家の主人の姿。
大振りのソファにちょこんと座る大人のような見た目の子供。
不意にインターホンが鳴る。主人は椅子から腰を上げると玄関先まで出向いた。子供も主人のあとをついてゆく。
木目調の大きな玄関扉を開くと二人は来客者を快く向かい入れた。
「何だか懐かしい感じ、こんなに大きな家だったかな」
来客者である妻はそう言いリビングへと向かう。
四足歩行の飼い犬はその妻のあとを追うように全裸の見た目で真っ白な尻を振りながら歩いていく。
「ノンちゃんも元気そうでよかった。何か飲み物でも飲むかい、昼間からワインなんてどうかな?」
「僕もワイン飲みたい」
首を横に振る主人。膨れっ面をみせるあどけない表情の子供。
「涼はまだ子供だからな、オレンジジュースが冷蔵庫にあっただろう」
子供は冷蔵庫からパックのオレンジジュースを取り出しグラスへと注いでゆく。主人はワインセラーから一本抜き出し栓を抜くと、二つのワイングラスへと注いだ。
飲み水用の皿へと水道水を注いでいく主人。床にそれを置くと飼い犬はよほど喉が渇いていたのだろう、勢い良く舌ですくうように飲み始めた。
ダイニングテーブルに三人が座る。
「ここに再会を祝して。私たちは家族だ、紛れもない家族なのだ。四人の絆は決して離れることはない。乾杯」
グラスをお互いにカチリとぶつけ合う。飼い犬の乳房からは母乳が滲み出ている。それを飲むモノはこの場にはいない。
滲み出た母乳がフローリング床へと滴り落ちる。それを見て妻は席を立ちティッシュで軽く拭いてあげる。それを愉快そうな表情で眺めるこの家の主人。 子供もにこやかな笑みを見せている。
少し崩れた体型の熟女の裸体。お腹はへっこみソコにあったものは現世へと既に生まれ落ちていた。
「私達家族の絆は海の底よりも深く、エベレスト山頂よりも高い。かつて家族だった者たち。今こうして正真正銘の家族になった者たち。決して離れることはない、これから先何があろうとも」
妻はリビングテーブルへと戻りこう切り出す。
「涼の学校編入どうしようかしら、今まで通り自宅学習とは言っても、この子にも友達は必要よ」
「そんなに焦らなくてもいいじゃないか、ゆっくり進めていけばいいんだよ、なあ涼、学校行きたいか?」
屈託のない笑顔を見せこう答える息子。
「僕学校いきたい、友達沢山作りたい」
「涼もこう言ってるわよあなた」
ワインを嗜みながら小さく微笑する夫。飼い犬がリビングテーブル足元まで寄ってきて夫の足を舐め始めた。
「おいおいくすぐったいじゃないか、ノンちゃんはおてんばさんだなあ、気楽でいいものだ」
夫は席を立ちキッチンへと向かう。餌皿にドッグフードを補充していく。そのまま床に静かに置いた。
勢いよくドッグフードを食べ始める飼い犬。子を生み子を育てる為の栄養がこの場合必要だった。子などこの場にはいないが。
「来週末に皆んなで海に行こう。車を新調したんだ。4WD駆動のRV車だぞ、皆んなでドライブだ」
「やったあ! 僕海でノンちゃんを散歩させたい、楽しみだなあ」
渇いた笑いを発する妻。
「海辺を駆け巡るノンちゃんを想像すると平和な気分にもなるものね。大きな一軒家に住んで休みの日には家族皆んなで海にドライブ、飼い犬を自由気ままに海辺で遊ばせる、こんな家族が本当の幸せって言うのね」
この家の飼い犬が外に向かってしきりに吠えている。窓の向こう一瞬人影が横切った。そのまま家のインターホンが鳴らされる。
家の主人である名雲が玄関先まで出向き、鍵を開けドアを開ける。
目の前にはスーツ姿の男性が一人立っていた。
「こちら名雲様のお宅でよろしかったでしょうか? 私く市の生活福祉課を担当しております向田と申します」
一瞬困惑した表情をみせる名雲。そのまま目の前の男から自身目元を伏せた。
「どのようなご用件で?」
「はい、近隣住民様から連絡を受けた次第でございまして。名雲様、この地域での住民登録はされておりますでしょうか?」
事実名雲は住民登録などはしていなかった。三人の人間と一匹の犬が住う大きな一軒家。一見変わったところは何一つなく、中年の小学生一人とかつて専業主婦だった犬が一匹存在しているだけだった。
「首輪をつけた中年の女性が夜な夜なリードで繋がれて散歩紛いの行為をされていると、近隣住民様からの苦情を頂きまして」
一瞬苦い顔をする名雲。苦し紛れの一言を発した。
「何かの間違いじゃないですか」
「一応確認の為にご訪問しただけですので、今回はお手間お掛けさせてしまい申し訳ございませんでした。それでは失礼いたします」
そう言って市役所男性はその場を去っていった。
名雲は男性の後ろ姿を見送ると、ドアを閉め鍵を掛けチェーンロックをする。
そのままリビングへと戻りいつもと変わらない表情を装う。
「ねえあなた、誰だったの?」
妻である桜井が夫である名雲に聞いた。
「ああ、訪問販売のただの売りつけだったよ、いりませんと言ったら素直に帰っていった」
リビングでは息子である根岸と飼い犬である希美が仲良くボールで遊んでいた。
「ノンちゃんまた血出てる」
息子が指差す飼い犬の股間部分。
血がポタポタと滴り落ち。リビング床に点在していた。
妻はティッシュ箱から数枚ティッシュを抜き取り飼い犬の股間部分を丁寧に拭いていく。
「ノンちゃんはね、女の子のワンちゃんだから時々血が出るのよ」
妻は優しく息子にそう教える。
「女の子って血が出るの?」
素直な表情でそう聞く息子。縦に一回頷く妻。
真っ赤に染まったティッシュをゴミ箱へと捨てると、妻はキッチンへと向かった。
「夕飯の準備しないとね、今日はハンバーグを作る予定なの、涼の大好物よねハンバーグ」
「やったあ! 僕ハンバーグ大好き!」
神妙な面持ちでアーロンチェアに座る名雲の現在の姿。宙を眺め何やら考え事をしている。その横顔を不思議そうな表情で見つめる息子でる根岸。
「ねえ、なんだかパパ元気ないね」
息子にそう言われ一瞬で我に返る名雲。
顔を息子に向けるといつものような喋り口調でこう言った。
「パパはいつでも元気さ、涼はパパが元気ないように見えたのかい? この通りいつでもパパは元気さ」
「ねえ、あなたナツメグ切らしてたみたいなの、涼と一緒に買いに行ってもらえる?」
お安い御用さといった様子でアーロンチェアから立ち上がる名雲。
「涼、パパと一緒に近所のスーパーマーケットに行こう。今日は暑いからなアイスも買ってこよう」
「やったあ僕アイス好き!」
玄関でチェーンロックを外し鍵を開けドアを開ける。そのまましっかりと鍵を施錠する。
仲良く手を繋ぎ家をあとにする成人男性二人組。
「涼は学校に通って何がしたい?」
同じ目線で歩く二人。背丈は二人とも一七十少々で同じくらい。
「勉強とかかなあ、友達ともいっぱい遊びたいな、友達100人できるかな僕」
「涼の場合100人どころじゃ収まらないだろうな、千人、一万人、それ以上だって友達は作れるさ」
夕暮れ時の淡いオレンジ色の光が二人を優しく包んでいく。握った左手と右手は固く結ばれ、親子の絆がそこには存在した。
夕陽をバックに長い影が二人の後ろには出来上がっている。凸凹の影であるはずもなく。この場合同じような姿形の影が地面にシルエットを作っている。
途中中高生の集団とすれ違った。
「何あれゲイ。マジうける」
誹謗中傷などこの家族には無論関係ない。アブノーマルな世界をノーマル側だと信じて疑わない四人家族。名調教師な父親がいたっていい。ストーカー気質の母親がいたっていい。盗聴覗きが趣味な息子がいたっていい。かつて専業主婦だった飼い犬がいたっていい。
この世は自由な世界。自由気ままに好き勝手に生きれば誰も文句は言わない。
この世は寛容な世界。全てを許してくれる世界。全てを許容してくれる世界。 誰かしらに問います。人の趣味に嫌味を言えるような偉そうな立場なのですか。
――三人と一匹の幸せな家庭。
人はそれを幸せな家庭と呼ぶ。
ご自慢の四輪駆動RV車のハンドルを握る名雲の姿。
窓を開け風を感じる。
助手席には妻である桜井が座り。後部座席には息子である根岸と飼い犬である希美が座っている。
アスファルト地面に接地した四本の太いタイヤは回転数を速めていき、高速道へと合流した。
スピードに乗った車体は風を切り海を目指してひた走る。頭上には陽気のいい太陽がご機嫌に顔を出している。
目元細く何かを思い悩んでいる名雲の現在の表情。
「ママ、あとどの位で海に着くの?」
息子は助手席の母親へと聞いた。
「あと一時間は掛かるかしらねえ、こうやって家族四人で遠出なんて初めてよね」
飼い犬であるノンちゃんは顎を息子の膝の上に乗せ、あくびをしていた。
「初めての海楽しみだなあ、ねえパパもそう思うでしょ?」
息子の問いに父親は意外な返答を返した。
「なあ、根岸さん。もう終わりにしようかと思う」
その一言で車内の空気が一変した。ジッと名雲の横顔を見つめる桜井。後部座席の希美もあくびをするのを止め、聞き耳を立てている。根岸は名雲の運転する後ろ姿を黙ってみやるのみ。
「今日でこの家族は解散しようかと思う。家族一緒に最後に海に行く。そして 四人家族は今日をもって最後となる」
ここで根岸が言葉を発した。
「何でですか? 今まで通り家族を続ければいいだけの話じゃないですか」
助手席に座る桜井もこれに加勢した。
「そうですよ、今まで何も問題は起こらなかった、このまま家族を続ければいいんですよ」
後部座席に座る飼い犬である希美が人間の言葉を発し、名雲に問いかける。
「ねえ、名雲さん、このまま家族を続けていけない何か理由があるの? 四人であの一軒家で幸せに暮らす、それが私達にとっての一番の幸せなんじゃないの?」
加速を続ける名雲の運転するRV車。名雲はアクセルを一気に踏み込みハンドル部分を自身拳で殴った。そのまま俯く姿勢で運転を続けていく。
「ねえ、名雲さん、何が問題なの?」
「そうだよ名雲さん、おかしいよいきなり家族をやめるだなんて」
「そうよ、今まで通りいで全然問題ないでしょ」
三人から一斉にそう言われ、名雲は身を振りかざし両拳でハンドル部分をまたも叩いた。
名雲が涙声でこう言う。
「近所から不審な家族として私達は見られている。土台無理な話だったんだ。こんな馬鹿げた家族、日本中探したって僕らだけさ。奇異なる存在は奇異なりに日陰を歩まなければならない。この国に僕らの居場所は何処にもない。海外にすらありはしない。きっとこの宇宙空間銀河惑星の果てまで行ったって僕らの居場所は何処にもないんだ」
その言葉を最後に一瞬で静寂に包まれる車内。次の言葉を発する者は誰もいなかった。
名雲の踏んだアクセルは緩むことなく、高速道をただひたすらに直進し続ける。ハンドル部分には手を添えるのみ。
海を目指して四人家族は静寂の空間の中を黙り込む。
窓からの風が強く感じた。名雲はそっと窓を閉めた。
海辺付近に駐車した名雲所有のRV車。
皆がそれぞれ車外へと降り、目の前の広大な海に特にこれといった感想などもなく。皆が皆沈んだ表情をしていた。
頭上の太陽はこの場に似つかわしくないサンサン晴れの気持ちの良い陽気。
先頭を名雲にそのあとを桜井、根岸、希美と続き。縦一列で海辺の砂浜を歩く光景。
寄せては返す波間のしぶきに、やはり皆が皆これといった感想などもなく。海の遠くの方に見える貨物船が音色の低い汽笛を上げていた。
先頭を歩く名雲が突然歩みを止める。続くように後列の方も歩みが止まり、互いが互いの後頭部のみを見続ける。
目の前に続く砂浜を遠い視線で見続ける名雲。ポツリと一言呟いた。
「私は幸せになりたかった」
名雲の目元からは大粒の涙がこぼれ落ちている。頬を伝い砂浜にぽつりと落ちた。
そのまま膝を崩しうなだれる姿へと変わる名雲。
嗚咽を小さく漏らしながら声を殺して泣いていた。後方の皆はその小さな背中を見つめ続けることしかできなかった。
誰に懇願するわけでもなく、誰にお願いするわけでもなく、再び集結した四人家族は解散という道を歩むことになり、そのことを無念に思う名雲という男。
後ろの三人が名雲のそばに集まる。名雲の頭頂部を皆が眺める格好になる。妻であった桜井がここで言葉を発した。
「私は幸せでした。この家族で。この四人の家族で。私は幸せでした」
続いて息子であった根岸が言葉を発する。
「僕はこう思うんです。形のない代物を幸せと形容してみると、本来そこに形として存在してはいけないわけですよね。僕らは四人集まり家族になった。これって見ようによっては形あるモノですよね。幸せほど形にすることの難しいものはない。僕はそう思いますね」
名雲の嗚咽はなおも止まらない。皆の発言がこの場で相乗効果を生み、名雲の感情を粉々に破壊していく。
飼い犬だった希美が名雲の横にしゃがむ格好になる。名雲の泣いている顔を覗きこむようにしてこう言葉を発した。
「かつて家族だった者たち。私達はかつて家族だった者たちなんです。今は家族ではない、でも以前は確かに家族だった。名雲さん私幸せでしたよ、あなたと家族になれて」
海と空との中間に位置する水平線が一本の横線をこの場に提供してくれている。一本の縦線ではなく、一本の横線。この場合この場所では横線で間違いはなかった。横線の下に海が存在し、上に空が存在する。この場ではそれが正解だった。
根岸が諭すようにこう語る。
「私達家族はかつてはバラバラに散り散りになりました。それが再び集結し家族という形へとなった。今になって気付くんです、僕達はただ役割を全うしていただけ。配役されたキャラクターに成り切り役割を全うしていただけなんです。父親、母親、息子、飼い犬、全てが配役されたキャラクターに過ぎません。僕は僕である、であるならば名雲さん、あなたは名雲さんとして存在する。『家族』という舞台劇は終演を迎えました。幕は下ろされました。観客達は帰る準備をし始めています。僕らは控え室に戻ってそれぞれの家路に着くだけなのです。そこにはそれぞれの家や家族が存在し、僕らはそこで初めて日常を送ることができます」
うなだれた姿の名雲が姿勢を徐々に戻していき、根岸の顔を見やる。
名雲の涙目の顔を根岸は黙って見ていた。そして優しく静かに笑いかけた。
名雲はかつて家族だったもの達の顔を順番に見ていく。皆が皆名雲に笑いかけ優しい顔をしていた。
涙声で言葉を発する名雲。
「最初は些細な不倫関係から始まった。それがいつの日からか歪な四角形と変形していき、家族という形あるモノへと変化していった。私達は元々は他人同士、赤の他人同士が今こうしてこの場を共有している。これは奇跡に近しいことなんだと。私は今改めて思う」
小さな波の音がこの場を共有する者達の鼓膜を振動させる。照りつける太陽の光に互い互いの顔が照らされて、そよ風程度の微風が互い互いの頬を撫でつける。
皆が海の向こうを見渡す。広大な海の向こうを。
名雲が目を細めこう語る。
「かつて私達は家族だった。家族だったモノだった。実際は他人同士だった。他人同士が同じ屋根の下共同生活し、家族というモノを演じていた。皆は皆の生活に、私は私の生活に、今日をもって戻ることにする」
互いの視線が交錯し合い、皆が皆を順番に見つめていく。互いに手を繋ぎ合い、海に向かって一列に整列する。
座長である名雲が観客に向かい声を発する。
「皆さま楽しんで頂けましたでしょうか。私達の公演は今をもちまして閉幕となります。長時間のご観覧誠にありがとうございました。僭越では御座いますが最後に座長である私から皆さまへ、お礼の言葉を述べさせていただきたいと思います。長い間ご贔屓にして下さり誠にありがとう御座いました。劇団は解散し、各々のメンバーはそれぞれ違う道を歩むことになります。どうか温かい目で見守ってやって下さい。長々と最後の言葉を述べては皆さま退屈のことでしょう。今までありがとう御座いました」
かつて家族だった者たちは互いに手を繋ぎ合い、広大な海に向かって深々とお辞儀する。
――観客という名のこの作品を読む読者へ向けて深々とお辞儀する。
了
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