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「私はカンヌ女優、映画の中の主人公さ、頭ん中のリミックステープはもう擦り切れてんだよ、何たってスペンサー教官に毎晩調教されてるからね私は、あんたらスワッグの雰囲気で私の気をとってるんじゃあないよ」
スペンサー教官なる人物。名雲という名前。市役所勤めの公務員。色白の肌に線の細い体つき。黒縁メガネがよく似合う三十三歳の男性。スペンサー教官。
この名雲が曲者でそんじょそこらの三十三歳男性と同じに見てもらっては困る。大胆かつ不適、それでいて妙に憎めない繊細さ、静と動を行き来する生まれ持っての頑固者。
名雲という男を色に例えるならばレインボーカラーがよく似合う。固定された色彩を嫌う名雲。ここでも頑固者の特徴が如実に現れている。
物語の主人公になるのは三十二歳のとある女性。スペンサー教官に毎晩調教されている強靭な肉体を持つ淑女。処女ではない。
この女性の名を「希美」長身の体を生かし専業主婦をしている。
三十三歳の男性である名雲。三十二歳の女性である希美。不倫関係と巷では呼ぶのだろうか、独身の男と家庭を持つ女の秘密の情事。不倫がそんなにいけないことだとは思わない、人間一つや二つ秘密を持っていても不思議ではない。
『スペンサー教官に毎晩調教される』スペンサー教官とは名雲のことで、この一文からでもSとMの関係性が丸わかり。責める者と責められる者が需要と供給を補っている。
筆者である私に希美は以前こう語っていた。
「スペンサー教官の教えは絶対。逆らうことなど許されない。そもそも逆らう気はないけれど、これでお互いに満足しているの。私には五歳の息子がいる。後ろめたさは無いといえば嘘になる」
俯き気味で指先をモジモジさせる希美。
「主人とはもう冷め切っていてレス状態。私も女なんです、主人に現在の私を満足させることができるのかしら、もうレベルアップしちゃったから私」
恐ろしい女。専業主婦である希美は力をつけ始めた。アブノーマルプレイを楽しむ毎日。夜遅くに出掛けたりしても夫は怒りもしない、不倫を黙認している。献身的に子供の面倒を見る夫の鏡のような夫。
家庭内放置プレイを楽しむ希美。ド変態女の変態的育児。幸にも虐待紛いなことは一切していない、いじめて楽しむタイプには到底見えない。
「夫にも興味ないし子供にも私は興味ないの、人生楽しんだもん勝ちでしょ、私は楽しむだけ、自分に嘘はつきたくない」
希美を色で例えるならばショッキングピンク。頭にお花畑が咲いているタイプと思われがちだが外見はいたって真面目風。カジュアルな服装をいつも心がけているし髪の色も真っ黒で染めたことなど一度もない。
夫がいて子供がいての幸せそうな雰囲気に見えるが、希美の心の奥底ではドス黒いものが微動しながら這いずり回っている。
何が彼女をここまでさせるのか。激動や衝動。ここまで突き動かす思い。幸せな家庭を自ら捨て不倫行為に精を出す。
映画の中のヒロインを気取りたいのかもしれない。カメラのフィルムは回されており主人公は自分。人生の主人公を演じ切る名女優。その脇役的位置に夫と子供の存在がある。主人公を際立たせる為に存在する脇役、添え物程度で十分と希美は考えている。
夜七時。人気のないバスロータリー前で待ち合わせ。
歩く時は手など繋がない、お互い不倫行為をしている後ろめたさはある。一つの噂が尾ひれをつけて浮遊していくのが地域性の難点。同じ市に住んでいる者同士そこら辺はわきまえていた。
名雲は車を所有していない。希美にいたっては運転免許証さえすら持っていない状態。車での隠密行動ができないこの二人は危険な香りのする密会を日々繰り返し行っている。
ホテルで待ち合わせればいいという考えもあるがそれはそれで味気ない。多少のスリルを味わっている感覚もあるのだろう。
市役所勤めの名雲。一市民である一般主婦と不貞行為を日常的に働いていると世間に知られればバッシングの嵐に遭うことは容易に想像ができる。それは希美のほうも同じで夫と子供がいる身で己の快楽の為だけに家族を犠牲にしている
ホテル入り口を潜り抜ける快感。異常な背徳感となって名雲と希美の恥部をゾクリと刺激する。何回潜っても慣れないホテルの入り口。
部屋を選択しエレベーターへと乗り込む。密室で二人きりという空間が早まる期待を膨らませる。
部屋の扉を開け扉を閉めた。
ピンク色のプラーベート空間が姿を現す。
ここで初めて言葉を口にする両者。
「ご主人様なんなりと」
「ひざまずけ」
室内入り口で正座姿になる希美。冷静な表情でそれを見下ろす名雲。主従関係のよく出来た関係。上と下の関係性がしっかりと出来上がっている。
「俺はスペンサー教官だ、お前は下僕で口答えは許されない、お口にチャックしろ」
押し黙る希美。
「よしいい子だ、褒美をくれてやる。この靴をお前の息子の靴だと思いながら舌で舐めろ」
名雲が自身の足を前へ投げ出す。いまだにひざまづいた状態の変態女である希美。
我が子の足だと頭で思い浮かべながら目の前の名雲の革靴を舐め始める。お腹を痛めて産んだ我が子の足をだ、黒い革靴に希美のピンク色の舌が触れる。
「どうだ息子の足は旨いか?」
「ぷは、はいご主人様」
名雲の黒縁メガネがここで怪しく光る。こんなことをする人間には到底見えない。人の見た目ほど難解で不可解なモノはない。己をスペンサー教官だと本気で思い込んでいる。 役を演じ切る名雲という男。
自身のカバンをガサゴソ漁り始める名雲。
「今日はな、少し余興を用意してきた、これを見ろ」
名雲の手には一枚の写真。
犬の体に希美の顔が合わさった合成写真。奇妙な存在感を放つ気味の悪い写真。
「今日はとことん犬になりきれ、ぶっ壊れても構わない、もう犬になっちまえ」
その写真を見て感情が昂ってきた変態女である希美。人間を辞める日がついに訪れた。自身の趣味嗜好に改造され快楽に溺れる希美という女。
人間である必要性を感じない日々。専業主婦である自分、夫がいる自分、子供がいる自分、全部違う。犬でありたい。そう願う女。
「もうな、人間の皮を被るのは疲れただろ、自分に正直に生きる日が訪れたんだ、喜びを噛み締めろ」
希美に合成写真を近距離で見せつける名雲。
「吠えろっ!」
「ワオーンッ!」
適応能力が素晴らしい。一般家庭の主婦に到底出来る芸当ではない。調教という色に染まっていたからからこそ出来た。
生粋のM気質の奥底を掘り下げてみると、旦那にも息子にも見せられないドス黒い一面がある。
「人間を終了したお前は家庭に戻れば優しいお母さんに戻るかもしれないがな、ホテルでは汚らしい犬に成り下がるんだよ。現実世界のお母さんに疲れたらいつでも犬になっていい、自宅で夫子供が寝静まったあとに雌犬に成り切ればいい」
「今日はな、こんな物も用意してある」
カバンを再度漁る名雲。
小分けにしたドッグフードを取り出す、乾燥したタイプの小粒の物だった。
「今餌皿に移してやるからな」
もうとうに人間の言葉すら忘れた雌犬は、ケツを振ってもうどう見たって犬の状態。飼い主のGOサインが出るまでは食いつかない優秀さをここで発揮する。
プラスチック製の餌皿に小粒のモノが小盛り程度に盛られている。
「いいか、まだだぞ、よしと言ったら食え、まだだ、まだ、まだ、吉川さん、まだ、まだ、吉田さん、まだ、吉幾三、まだ」
「お前の名前は?」
「……」
「おい、お前の名前は?」
希美は困った表情を名雲へと向ける。役を演じ切るかどうか悩んでいる。
「名前は?」
「――希美です」
不意に希美の右頬へ放たれる名雲の渾身のビンタ。希美の頬目掛けて躊躇なくフルスイングした掌は気持ちの良い一発の音を室内に響かせた。
体が倒れ唖然とする雌犬である希美。
「お前の名前は希美なのか。そうか分かった。その程度の気持ちだったってことか、このクソ犬が」
「ごめんなさいご主人様! 私は犬です、汚い雌犬です!」
「もういいよ、なんか冷めた」
「ご主人様!」
涙を見せる希美。頬を伝う透明な涙。ぶたれた跡が白い肌に赤く滲んでいる。
冷め切った関係を極端に恐れる一般家庭主婦。冷められるのが一番堪える。一番の屈辱。一番怖いもの。
名雲の足元にしがみつく希美。もう離さないと言わんばかりの力強さで名雲の両足を押さえ付ける、当の名雲はモノを見るような目で見下している。
「こういう所だよね、必死すぎて引く、お前きっとヤバイ奴だよ側から見ると、もう終わってる」
声を押し殺して泣く希美。このままだと必死すぎてご主人様が引いてしまう、咄嗟に掴んでいた腕を離す。
ここで名雲の頬が小さく緩む。
「お前の真剣さは所詮こんなもんか、相手のことを考えてどうする? お前はそれでいいのか」
正解が分からなくなった希美はなおも泣いている。声に出さずに自分が人間であることを隠して。
「分かんなくなったか。でもな、それでいいんだ。お前が頭で考える人間である証明。難しく物事を考えることが出来る生き物であるということが今証明された」
「お前は犬じゃない」
「では私は……」
首を横に二回振る名雲。
「もう強がらなくてもいい。幸せな家庭を築く主婦も大変だろうに、今この場では主婦を忘れて希美でいればいい。私はそう強く望む」
目の前の相手が何を言っているのかさっぱり理解できていない希美。
希美でいればいいって何? 希美って誰? 知らない、私は知らない、そんな人知らない。と現在の希美は思っている。
女は途端に怖くなってきた。
何に怖がっているのかは自分でも分からない。正体不明の希美なる人物。もうおかしくなりそうだった、気が狂いそうだった。
「私は犬ですよね……」
「いや、お前は犬じゃない」
今現在ホテル室内の玄関前での光景。室内に入って何をしてるのだこの変態どもはと多くの人が思うだろう。二人にしてみれば真剣そのもの。今後の人生が、今後の快楽が掛かっている大事な局面。
「自分の身体を見てみろ、これが犬か?」
自身の掌を見続ける希美。目線が定まらない。真実から目を背けたい人がよくする仕草。
チラッと希美を見やり部屋のドアを開け出て行こうとする名雲。
「自宅へ戻ってよくよく反省してみることだな。いいかお前は犬には見えない、私にはお前は人間に映る」
ガチャリとドアは閉まり室内に一人残された希美。
声を荒げて希美は泣いた、人目を気にせず一気に泣いた。自身の姿が犬でないことへの嫌悪感。この肌色のツルツルな肌が今では憎い。石鹸の香りのする素肌は吐き気を催し獣臭さを欲する変態女。
ホテルを出てそのまま自宅へと戻った希美。時刻は深夜一時。
夫と子供が寝静まる寝室横のリビングソファで横になる。もう一度自分の腕をしっかりと確認してみる。白と黒の間、黄色人種であるということをはっきりと理解する。これじゃまるで人間の腕だ。
「スペンサー教官……私は……どうすれば……」
ホテルで名雲に言われた言葉を思い出していた。
『現実世界のお母さんに疲れたらいつでも犬になっていい、自宅で夫子供が寝静まった後に雌犬になりきればいい』
隣の寝室をゆっくり見やる希美。夫と子供は寝ている。今なら犬になれる。
ソファから身体を起こし立ち上がると冷蔵庫へと向かった。中からベーコン一枚を取り出し床に放り投げる。クチャクチャになったベーコンが寂しく床に存在している。
おもむろに獣のポーズをとる希美。四脚の足を地面に接地し犬に成り切る。
餌を待つ雌犬のようにハッハッハと息をして、目の前のベーコンをじっと見続けている。
これが一般家庭の専業主婦の本性で、三十二歳女のありのままの姿。
よしっと言う掛け声をかける者はこの場にはいない。雌犬は脳内でスペンサー教官の掛け声を瞬時に妄想する。
(よしっ!)
一気に床に落ちたベーコンに食らいつく専業主婦。犬喰いの要領で貪り食う姿はまさに獣そのものだった。黒い髪の毛が床に束になって広がっている。ケツを突き上げよだれを垂らしベーコンを口のみで器用に食っていく雌犬。
本当の自分を見つけた希美。調教され従順に従う犬に本来の自分を見つけた。外見で判断しないで欲しい、心はいつの時でも犬でありたい。
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