11

1/1
前へ
/13ページ
次へ

11

 アブノーマルさを遺憾無く発揮し、底の底へと落ち切った名調教師名雲。  瞳に宿る微弱な炎。まだ微かに灯るユラユラと揺らめく今にも消え入りそうな真っ青な炎。  糞尿塗れる自室でこう呟く。 「希美……」  伸びきった爪とボサボサの長髪が相まって、その姿は上野界隈の浮浪者を思わせる見た目。事実一軒家の家主として、家の主として存在する浮浪者なのだ。この糞尿まみれの一軒家という世界の中心。  途端に金切り声を上げる名雲。自身頭皮を掻きむしり爪の間には長い黒髪がまとわりつく。  到底人間の発する声ではなかった。ヒト以外の何かの生物。遺伝子変異を引き起こした奇形生命体。そのような佇まいで部屋の一室に横たわる姿。  なおも奇声を発し続ける名雲。見た目以上に発する声の質がおどろおどろしい。  思考を持たないモノとして存在するそれに。糞まみれの身体で明日への懇願を望まない自堕落以上の自堕落。その下を行く人生の落第者。さらに下を行けばそれはもう魑魅魍魎の世界で。ヒトを忘れたヒトならざるモノ。怪異というモノだった。  弱々しい声に戻り、一言を発する名雲。 「臭い……」  自身の嗅覚は正常に働いているようで、自分のことを臭いと認識しているようだった。事実この部屋の惨状は地獄と形容できるものであり。床には糞尿が溜まり、かつては白い壁面だった壁も名雲自身が己の糞で絵を描いていた。  糞で描かれた○×△。ヒンディー語とも見て取れる意味の分からない言葉の連なり。その横に無数に存在する死にたいという書き殴った言葉の数々。  人が住んでいいような家屋ではない。犬猫でさえも顔をしかめるような異質空間。  外観は至ってまとも。白い外壁が幸せな家族生活を連想させるような立派な一軒家だった。  一度中に足を踏み入れるとそれは地獄のような様相で、リフォーム業者でさえも匙を投げるレベルでソレらは存在していた。 「希美希美希希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美希美」  念仏を唱えるかの如く、かつて愛した女の名前を唱え続ける。狂いなどソコには存在しない。ただ一つに純愛となって厳かにソコに存在していた。  地獄の業火に焼かれながら。死んでゆくのも悪くはないのかも知れない。  そのようなことも思考できないほどに、今の名雲の精神状態は常軌を逸していた。これは狂いではない、ただ一つの純愛だ。そう思い込もうとする哀れな男。  かつて存在した家族というモノ。かつて家族だった者たち。四人家族の幸せな家庭だった。  それがいつの日か崩壊し、家族は散り散りになった。  欲という字と情という字が合わさり欲情となる。それらは人それぞれに本来備わった欲という欲求と、情という脆い感情なのだ。すなわち欲情とは人に備わる行き過ぎた求愛行動の成れの果てなのである。  名雲は自身股間に手を伸ばす。自身頭の中で希美の首元に繋がれた鎖を思い出す。  途端に局部及び伸縮自在棒は次第に膨張していき、強度を誇る擬音で形容するならばギンギン。そのような形態へと変化を果たした。  自身右手。糞にまみれた右手でソレをしごく。一切の遠慮はいらない。この場合一切の遠慮はいらない。千切れることを屁とも思わないほどに激しくソレをしごき始めた。  尿道を何かが迫り上がってくる。その気配を名雲は感じた。  その瞬間――白濁液は棒突端から勢いよく放出され、一瞬でいわゆる賢者タイムへと移行を開始した名雲。  ゼリー状の白くてプルプルしたモノ。ソレは床に無残にも飛び散り、他にも白く固まった箇所が床には無数に点在している。  男という生き物は日常的に出す生き物なのだ。何かを吐き出す生き物なのだ。それに抗っては男を捨て去ることになる。男が男である為に、男は自慰行為を日常的に行うものなのだ。  自身陰毛にまとわりつく白濁液。次第に固まりカピカピになる。  服など纏わない現在の名雲の姿。全裸状態で今この時に何を思う。  逃げも隠れもしない。今この時をそのような状態で過ごす奇異なる存在『名雲』という男。  この世界は希望に満ち溢れている。この世界だからこそ希望に満ち溢れてる。希望という文字面に一部変更を加え、絶という一文字を加えさえすればそれは絶望へと変化をもたらす。  『絶』絶たれた存在。何かを絶たれた存在。もう希望もへったくれもありゃしない。拒絶。断絶。絶滅。絶え間なく。存在する。何か。  奇人変人の類を異端者とみなすことは、自身が奇人変人意外であるという誰かへの何かしらの懇願。ソレに石を投げつけてみても、ソレは黙って返事をすることもなく。ただ黙って奇人変人を演じ続ける。  異常であるのはどちら側か。石を投げつける側か。それとも石を投げつけられる側か。危害を加えること、それすなわち異端への道を一歩踏み出すということでもある。  嘆かわしい時代になったものだ。この時代は。この時代というモノは涙を流しながら自身を嘆いている。  名雲は一人涙を流す。一人寂しく嗚咽を漏らすように涙を流す。 「ごめんなさい……」  誰に謝ることでもないように思う。この場合の誰かとは名雲以外の他者である場合が可能性としては高い。  不倫行為に精を出し、一人の人妻を犬として飼育していたあの時代。  あの雌犬はケツを振っていた。一糸纏わぬ裸同然の姿で自身尻を振っていたのだ。  その人妻をいいように調教し、自分の支配下に置いていた名雲。今ではどうだろう、この部屋の惨状は酷い有様だ。  人はどう転ぶかは分からない。一寸先は闇が広がる。  ヒトはヒトを愛する生き物。愛を失くした生き物にヒトである資格は皆無なのである。  であるならば、ヒトとは愛を欲する生き物。誰でもいいわけではない、できれば懇意にする人に愛されたい。それが偽りの愛だとしても、その一瞬だけはヒトになることができる。  ノーマルの反対語にアブノーマルものが存在する。人は皆アブノーマルな世界を生きている。ノーマル側がスタンダードな世界だとは限らない。アブノーマル側から見ればノーマル側が異端な世界と映るのだ。したがって首輪及び猿ぐつわ、蝋燭にムチ、拘束具や三角木馬、浣腸注入機、言葉攻め、罵倒、前立腺攻め、媚薬、ツバ垂らし、様々なフェチズムがこの世には存在するが、そのどれもがノーマル側である歪な世界の副産物なのである。 「……」  もう言葉を発する気力も失った名雲。ただぐったりと床に転がるのみ。  ただ愛されたかった。ただ純粋に愛されたかった。だから愛する人を調教し、自分の支配下に置きたかった。  独占欲とはそのモノを独り占めしたいという想いの現れ。調教を施し自分色に染め上げ愛玩犬としての人生を歩ませる。これすなわち一途な愛となる。 「死にたい……」  今この瞬間に死を望む哀れな男。このような姿ではもう死んだも同然。それでも彼は自身の死をひたすらに懇願する。  大きな家を持て余し、そこに住むのは一人の異臭を放つ変わり者。かつては四人家族だった。夫、妻、息子、愛犬がおり、その愛犬こそが最愛の人である希美だった。  あれは犬であり犬でなかった。愛する人であった。  ノンちゃん。親しみを込めて家族からはそう呼ばれていた。全裸姿の中年女性。犬に成り切り犬であることを自身で望んだ。  幸せだった家族の姿はもうそこにはない。互いに別々の道を歩み、一人取り残された名雲。  頭の中に恨みの念が込み始める。強い強い恨みの念。  結果に繋がるモノこそ原因。結果を紐解いていくとそこには必ず原因が存在する。この場合の原因とは希美の夫だった。  原因を排除しさえすればまた四人での生活が可能になる。原因の排除。つまりは夫の殺害及び抹消。名雲はこの時決意した。  幸せな家庭に五人はいらない。四人がちょうどいい。  一人余るな。とっとと殺しちまおう。と名雲は思った。  一番賢い女が一番の地獄を見る。仕事帰りの夜の暗がり。一人の変質者が女の目の前に現れた。  ボサボサの長髪を振り乱し、糞尿まみれの身体で桜井の身体に抱きついてきた。  驚きを通り越し思考が完全に停止する桜井。目の前のこの状況が夢であるかのような、非現実的な誇大妄想を抱く哀れな人へと自身は変貌したのではないか。そのように桜井は目を丸くし思った。  臭いが尋常ではない。形容し難い鼻を突く臭い。それ以上に男の風貌に桜井は圧倒され、逃げようという気にもならなかった。  浮浪者である男は右手で桜井の尻部分を鷲掴みにすると撫でるようにソレを可愛がった。  男の左手は桜井の胸元に伸び、服の上からまさぐり始めた。  否応にもそれに従うしかない桜井。恐怖という感情は次第に鳴りを潜め、恐怖のさらに上をいく何かしらへの懇願へと次第に変わり、自我崩壊にも似た一瞬の崩れを初めて経験した。 「元妻の身体を僕は忘れない。この柔らかさは以前経験したもの」  浮浪者は桜井にそう言い放ち、路上へと桜井の身体を押し倒した。馬乗りになる男。馬乗りにされる女。そこには男女の歪な姿形があり、攻めと受けとに別れた両者の攻防は次第にエスカレートしていった。  スカート部分をめくり上げ汚い腕で桜井太ももを弄り始める。そのままショーツ間から指を差し入れ愛液の分泌されていない秘部へと指一本挿入していく。  感じ始めたらが最後。快楽の渦へと溺れ落ちてしまう。わずかな抵抗すらもみせない桜井。もうこの際どうでもよかった。 「……」  無言状態で声を発することのない桜井。この場では無言を決め込もうと思った。 「感じているのか? 声を出していいんだぞ」 「……」  事実桜井局部は異常な熱を帯び始め、次第に透明な粘液が分泌され、男の指は滑りがよくなった。  男は指をゆっくりと引き抜くと今度は豆部分を刺激し始める。ソコは桜井の弱点部位だった。事実男は桜井の弱点を詳細にまで把握している。  身体は正直なようで、桜井はわずかに腰を浮かせる。足先が突っ張り、胸の鼓動が速くなる。  人気の無い暗がりの路上。そこで行われる男女の卑猥な行いごと。  男は桜井の局部に顔を埋める。舌先で食べるように陰部を刺激する。  かつて妻だったモノ。扱い方は熟知していた。反応は反応として桜井脳髄へと刻み込まれてゆく。エクスタシーを感じ、頭の奥がピリピリし始める。  柔らかみと熱を帯びた桜井の陰部。男の局部伸縮自在棒は膨張し切り今にも破裂しそうだった。  秘部へと挿入される熱く滾ったモノ。ゆっくりと慎重に、それでいて大胆に。男と女の身体は見事に結合し、凸凹テトリス一列がハマりその箇所が消滅していく。  グラインドする男の腰。熱く抱擁するように男は女の身体を抱きしめ、いわゆる正常位の格好で、お互いに気持ちよくなり始めようとしていた。  カエルのような足を開いた桜井の格好。桜井の両足くるぶし部分を男は握り、一心不乱に腰を動かし続けている。それに答えるように桜井の口元からは声が漏れ始めていた。  か細い喘ぎ声。ここは街中の路上。近隣住人への配慮がこの場合必要だった。 「ねえ、あなた名雲さんなんでしょ?」  その問いに答えようとはしない男。腰を動かし動かし続ける。  次第に腰の動きは激しさを増してゆく。終わりが近づいていた。苦悶の表情を浮かべるようにして伸縮自在棒の突端から白濁液を女子宮内へと一気に解き放った。  脈打つ。脈打つ。脈止まる。  呼吸荒く伸縮自在棒を桜井の陰部から抜きとる。愛液がまとわりついた男の局部突端からはゼリー状のプルプル食感が垂れ落ちていた。  互いに呼吸を整える。長い長髪が男の顔面を覆い、その表情を隠していた。  地面に仰向けで横たわる桜井の姿。頭上には丸い満月が現れていた。今の今まで気がつかなかった。  夜風が二人を怪しく包む。こんな夜は誰かれ構わず犯したっていいし、犯されてもいい。そんなことを儚くも思ってしまう二人。 「ねえ、名雲さん、何でこんなことしたの?」  抑揚のない冷静な口調で桜井は男に聞いた。 「……」  桜井の問いに答える様子のない男。 「私今彼氏いるの、社会に出て働いてもいる、以前の私ではもうないの。あなたの妻だった私はもういないの」 「家族が……」  不意に発した男の言葉。 「家族が何?」  身体を震わせこう口にする男。 「四人家族に戻りたい。もう一度あの頃の生活に戻りたい」  乱れたスカートを直す桜井。中腰で立ち上がり男のことを見つめる。 「希美さんは元気? 根岸さんは?」  男にそう問いかける桜井。以前の四人での生活を不意に思い出していた。  答える気配を見せない浮浪者である男。顔を震わせながら歯を食いしばっている。その光景を黙って見ているしかない桜井。 「ねえ希美さんは? 根岸さんは元気なの?」 「……」  先ほどの男女の攻防が嘘のように、男は動きをなくし身体を震わせているばかり。事実男は全裸姿なのだ。糞尿まみれの汚い身体。それに桜井は先ほど犯された。  男は再度桜井を地面に押し倒した。そのまま桜井口元を自身口元で塞ぐ。  男の舌が強引に桜井口内へと侵入する。わずかに身をよじらせ抵抗を見せる桜井。構わず男の舌は独特のぬめり気をもって相手の舌に絡み付こうとする。 強引に男の身体を自身から引き剥がす桜井。 「ちょっと……やめて下さい、私今付き合っている人いるんで」 「……」  月夜の晩の様々な秘事。妻帯者。有夫。既婚未婚。この際どうでもいいことだった。事実どうでもいいこととして存在している。  荒業にも似た闇夜へと乗じた卑劣な行為。人はこのような行為を野蛮な行為と揶揄する。しかし実際はどうだろう、女は確かに感じていた、男も自身の快楽に抗うことはなかった。  悲しそうな汚い表情で男は桜井の瞳を見つめる。 「それに何なんですかその格好、全裸って……警察に捕まりますよ」 「臭い?」  男は素直に目の前の桜井にそう聞いた。 「はい、臭いです」  途端に悲しそうな顔をする男。 「私は今臭い男としてこの場に存在している。そして先ほどキミのことを犯した」  事実を事実としてありのまま伝える男。伸縮自在棒は先ほどまでの強度をわずかに失い、半棒状態で股間部分にぶら下がっていた。 「仮にもし、先ほどの行為でキミが妊娠しようとも、私はそのことを認知はしないし、産む産まないはきみの勝手にしてくれ。私は以前のような四人の家族を求めている。五人はいらない、四人が一番形良く収まるはずなんだ」  呆れ果てた表情を見せる桜井。ついに頭までおかしくなったかと不安げな様子で目の前の男を見やる。 「妊娠したら堕しますよ。産む気はありません」 「賢明な判断だ、元妻でありながら実に賢い選択」  浮浪者男はその場で小さく拍手をする。 「もう一ラウンドといこうか、一回や二回変わりはしない。二人で気持ちよくなろう」  怪訝な表情を見せる桜井。 「お断りします」  ピシャリと言い放った強い言葉。一時の快楽に身を任せ、事実として身体を重ね合わせたことは本当のことだった。きっと一時の気の迷い。一時的に気がおかしくなっていたのだ。  脅迫文めいた文言を目の前の桜井に向かい男はつらつらと話し始めた。 「事務用品を扱う企業で事務の仕事か、彼氏は大きな企業にお勤めのようだね、キミは最近同棲を始めたらしい、そのことを私は詳細に把握している。自宅マンションの一階にコンビニがあるのはとても便利だね、その腕時計彼氏からのプレゼントのようだね、休みの日には二人で公園を散策し、ラーメン店巡りが二人の趣味なのか、自宅では一緒にお風呂に浸かり、昨晩の君達の秘事のことは詳細なまでに隅々まで私は把握している」  的を得た的確な脅迫文めいた文言の数々。桜井は一気に顔が青ざめ、途端に猛烈な吐き気に襲われた。 「私達は心と心で繋がっている」  観念した様子の桜井。  自身スカートをたくし上げ、自らショーツを脱ぎ始める。  ――犬の交尾のような体制で。肉と肉とがぶつかり合う音。夜の住宅街に響き渡る卑猥な音。  女は自身に抗うことなく妖艶に喘ぎ、男は一心不乱に腰を動かす。  そこに一人の通行人が通りかかった。ギョッっとした表情を見せ足早にその場から去っていくその通行人。  ヒトとヒトが繋がり合い。そこには繋がりをもった愛が生まれる。繋がり愛でヒトは繋がり、繋がり愛でヒトは愛を知る。  無論そこには真実の愛が生まれる。  元妻であり、かつての妻でもある。そこにはかつて四人の家族が存在した。   今では皆が散り散りになり、お互いに別々の生活を送っている。  正常位とはヒトのみが行う交尾体勢。  女性の胸の発育とは異性に対する一種の求愛として存在する。臀部つまりは尻を見て本来であれはすべての生き物は欲情するべきなのだ。  後背位での生殖行為こそが生き物としての本来持つ生まれ持った生殖本能。 暗がりの住宅街で二匹のヒトがお互いに後背位で恥部を刺激し合う。  これすなわち動物としての本能であろう――。 「以前お会いしましたよね?」  かつて名雲に犬として飼育されていた希美が初老男性に声を掛ける。 「はて、お会いしましたかな?」 「はい、以前住んでたマンションで。確か権田原さん?」 「はいそうです権田原です」  途端に笑みを見せる希美。右手には買い物袋を下げ、臨月を迎えた大きなお腹が目立っていた。  初老男性は希美に聞く。 「ご出産は何時頃でしょうか?」 「秋頃に生まれる予定です。上の子が五才の男の子なんですけど、今度は女の子で」  にこやかな笑みを浮かべる初老男性。  晩夏の心地よい肌を撫でる風。公園内ベンチに座る初老男性と買い物袋を下げた希美の姿。日向には影が照っていた。  公園内草むらから影を潜める一人の者。異様な臭いを放つ日陰者同然の達観者。  視線の先には希美の姿があった。お腹の大きなかつて雌犬だったモノ。異端者である男はその場で涙を流し始める。何を思っての涙なのか、その意味を知る者などこの地には存在しない。 「子宝はいつの時も人を幸せにしてくれるものです。望まない命などこの世には一つたりともない。子はかすがい。よく言ったものです、夫婦の仲を取り持ってくれる存在。元気な子が生まれるといいですな」 「ありがとうございます、権田原さんにそう言ってもらえると心強いです。確か奥様いらっしゃいましたよね、お元気ですか?」  不意に悲しそうな表情へと変わる権田原の目元及び口元。 「妻は昨年死にました。呆気なくこの世を去りました。そんな私は今では独り身です。独居老人に成り下がってしましました」  この場で主導権を握るのが幾分年齢の高い初老男性。希美は神妙な面持ちになりこの場で掛けてやる言葉が見つからない。 「どうぞ私のことは気にせず、この場を陰気な雰囲気にした私は老いぼれジジイのどうしようもない奴なんです、どうぞ笑ってやって下さい」 「そんな悲しいこと言わないで下さい。権田原さんご自身がご健在なのであればそれはとても喜ばしいことではないですか」 「慰めの言葉はよしてください。余計悲しくなります」  上空の雲が太陽を覆い隠す。  草むらでその様子をずっと監視する異端者である臭い男。希美のお腹部分に注視している。 「4+1=5。5-1=4。これ即ち幸せな家庭への規則演算方程式である」  臭い男はそう言った。 「腹を切り開き、内臓部分に手を挿入し、子宮袋を切り開き、そのモノと繋がったへその尾を切り離し、その摘出したモノはゴミ袋いへと仕舞い込み、母体腹部分を縫合し、施術は完了となる。モノの入ったゴミ袋は燃えるゴミの日に処分してしまおう」  幸せな家庭をただひたすらに望んでいた。四人家族の幸せな家庭。四人以外に入る余地のないただただ幸せな家庭。 「権田原さん、もしよろしければ今晩ウチに夕飯食べに来ませんか? あまり凝った料理は作れないですけど、是非来て下さい」  困惑した表情を浮かべる初老男性。まごまごしているうちに頭上の雲は横方向へと流れていき太陽が再び照り始めた。 「お気持ちは大変嬉しいのですが、私自身妻と毎日食べる夕食がありますので、大変恐縮ではありますが遠慮しておきます」 「え、奥様は亡くなられたのでは?」 「いえ、生きております」  今度は逆に希美が困惑の表情を浮かべる。次第に上空の太陽は再度雲に隠れ、陰りをその場にもたらした。 「昨年亡くなられたって……」 「いえ、妻は生きております、今も仏壇の中で生きていります。毎日の妻との晩酌が私の日課なのです」  まごまごせざるお得ない状況。この初老男性何かがおかしい。 「4+1=5。1+1+1+1=4。4×1=4。4×0=0。家族は数字で成り立っている。愛も欲も快楽でさえも全ては数字で成り立っている」  全裸姿で草むらに潜むその様相はかつての原始人を思わせる。近代化した日本社会。スマートフォンなるデバイスを日常的に使用し、電子の海に日常的に皆が潜り込む。文字としての言葉のナイフを他者へと向け、実際に殺傷し、死へと追いやる。このような非日常的な電子配列の波及び波間を私達は日常的にさも当たり前のように過ごしている。 「ペーハー値の値を153及び152とすると次のような公式が出来上がる。サドリックの倫理公式を応用しさえすれば自ずと答えは導きだせそうな気もするが、実際は応用式通りにはいかない場合が多い。つまりは、電子配列上の微細な粒子、即ち遺伝子配列上の螺旋階段を想像して貰えば話は早い。妻は1として存在している。子は2として。飼い犬は3として。私自身は4として。どうだろうか? 理解していただけただろうか。この場合家族は4で固定されている。4以外あり得ない数値なのだ。私は素直に実直に4を望む。5は必要ない。6も必要ない。4が必要なのだ。だた一つとしての4が」  長ったらしい文言を唱えながら臭い男は草むらでジッと身構える。今にも飛びかかりそうな勢いで脚力に力を込めている。  屈んだ姿勢で肛門から糞を垂れ流す。胃腸の調子が悪いこの男は軟便を一気にひり出し、草むら地面上に糞は飛び散った。そのまま局部から黄金水を垂れ流す。地面下に染み入るヒトの垂れ流したモノ。ヒトとはつまりは食物を摂取し排泄をする動物なのである。  自然の理から一脱しない世界観。この臭くて汚い男は自然の摂理を自然とやってのける。ヒトがヒトでありヒトでない。ヒトとはつまりヒト科の生き物。歴として生き物としてこの世界にヒトは存在しているのだ。 「奥様は権田原さんの心の中で生き続けているということですね。素晴らしいと思います。その考え方とても素晴らしいです」 「いいえ、それは違います。妻は私の心の中に住う仮初の姿などではなく、事実として住まいを共にし一緒に生活をしてるのです」  素直に顔が引きつる希美。右手に持つ買い物袋が軽く思えるほど、身体器官の感覚は鈍くなってきており、感覚としての目の前の男性との対峙に恐怖すら覚える臨月を迎えた大きなお腹。 「奥様の身体は何処に?」 「和室タンスの奥にしまっております」  死体遺棄事件としての警察が関与すべき事件。鑑識が和室タンス奥を調べあげる。死後一年は経過しているだろう遺体が物言わぬ姿形となって厳かにそこに存在する光景。  瞬時にそのようなことを希美は頭の中で想像した。  権田原の瞳をジッと見続ける希美。そして小さく言葉を発した。 「奥様を今でも愛していますか?」  そこで小さな微笑みを見せる初老老人。優しさをもった口元だった。 「ええ、もちろん愛しておりますよ。この先もずっと愛し続けます」 「奥様の死因は?」  咄嗟に目頭を押さえる権田原。俯く姿勢を見せると小さくこう言った。 「絞殺です。私が殺しました」  草むらに潜む臭い男がこの場の全ての光景を目撃している。再度腹に力を込めると肛門部分から糞が噴射し、緑地であるその場を汚く汚した。 「なぜ奥様を殺したのですか?」 「私の不倫行為を妻は咎めたのです、私は頭に血が昇りました。気づいた時には妻の細い首を締め上げ、妻は息をしなくなりました」  希美は言葉を失った。殺しの動機ですら男女の痴情のもつれが原因なのだ。男と女は愛を知り時に殺し合う、殺した先に存在するモノこそ真実の愛。死人は浮気をする心配がない。そのことをこの初老男性は理解している。  汚く臭い男はその瞬間草むらから勢いよく飛び出し、希美と権田原の前に姿を現した。  絶句を通り越し目が点になる両者。得体の知れない全裸体の成人男性がいきなり目の前に飛び出してきたのだ。  困惑はしないにしても狼狽する両者。妻殺しの話の最中の出来事だった。二つの異常な事態に苛まれながら希美は素直に降参した表情を見せる。 「家族に戻ろうノンちゃん。さあ飛び込んでおいで、私の胸に飛び込んでおいで」  姿形は汚らしい格好だったが、顔の造形から希美は目の前の男性が名雲だと瞬時に分かった。 「名雲さん……ですか?」  その場を一歩後ずさる希美。かつてのご主人様との再開に嬉しさは微塵もなく、忘れたはずの過去の記憶が一瞬でフラッシュバックし、かつての雌犬としての本能が微かに疼き始める。 「希美さん、この方は?」  名雲の伸縮自在棒は膨張し強度を高めエレクトしていた。突端から垂れ落ちる透明な粘液。皆の憩いの場である公園内地面にだらりと垂れ落ちる。 「ノンちゃん、今すぐここで交尾しよう。今すぐここでだ」  にわかには信じられない光景を現在希美と権田原は見せられている。常軌を逸した名雲の行動の数々、異常性を伴った常人には理解されない奇行。  雌犬の本能に忠実に生きる希美は、その場で服を脱ぎ始める。  唖然とした表情へと変わる初老男性権田原。  ブラジャーを外し、ショーツを脱ぎ、生まれたまま同然の姿へと変貌を遂げた忠実な雌犬。  人妻特有の程よく肉の付いた裸体。それを間近に見て権田原の伸縮自在棒はにわかに膨張を始める。  犬の交尾の要領で。真っ白な尻を名雲へと向け四つん這いになる希美。そのまま二人は結合を果たした。  一体全体何を見せられているのか。権田原はヒトとヒトとの真実をこの瞬間目撃した。今この場では妻のことなど当に忘れていた。  妖艶に喘ぐ女。必死で腰を振る男。  昼間の長閑な公園内で、二人の男女が秘密の秘事に興じる。傍観者は傍観者としてのみ存在しており、権田原はこの時妻のことなど頭の片隅にもなかった。  哺乳類動物と被乳類動物とが存在し、種の繁栄に興じる甘美なる世界。つまりは世界の理。異常性欲者の成れの果て。雌犬を従い、それを調教する男。  人ほど意味の分からない生き物はいないのだ。  高度に考える頭を持ちながら、時には阿保にもなることがある。  汚らわしい人間という生き物。愛と欲に溺れて溺れ死ねばいい。底のない深い深みに身を落とし、そのまま沈んでいけばいい。  愛に堕ちる生き物――ニンゲン。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

21人が本棚に入れています
本棚に追加