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12
変態性の異種格闘技戦へと発展した今回の事態。
汚らしい臭い身体を持つ者VS他人の生活を垣間見ることで快感を得る覗き魔。
肉で肉を打つ攻防。男同士の熱い肉弾戦が今始まろうとしていた。
覗き魔である根岸が一瞬脚力を強め名雲との間合いを詰める。それを察していたかのように臭い男は機敏に横方向へとステップし、攻撃姿勢を取る。
先制攻撃がこの場合勝敗を分かつ唯一の奇策及び妙策。一撃で相手を仕留める必要があった。
路地裏広めの空き地。リングはリングとして存在しており、真四角のロープの張られたリングなど今の二人には必要なかった。
ここで名雲が小さく言葉を発する。
「私が怖いかね?」
その言葉を聞いて微笑を浮かべる覗き魔根岸。ふつふつと湧き上がる己の闘志。挑発とも見て取れる相手のその言動に根岸は一人静かにキレた。
両者腕を構えたファイティングポーズ状態で、足元は華麗にステップを踏んでいる。
来なければこちらが行く。そう言わんばかりの拮抗し合う戦いの行く末。先述した通り、この場合先制攻撃が鍵となり得る。お互いにプロの格闘家ではないのだ。一撃がそれ相応の重みを持つ。
頭上には晴れ渡る青空。小鳥のさえずりが今この場では妙にアンバランスで。
先に攻撃を仕掛けたのは名雲の方だった。ジャブを放つように相手へと軽い拳を放つ。
すかさず防御姿勢を取る根岸。両腕で顔面を防御し、相手からのジャブを防いでいく。その間に自身口内で唾を溜め始める。
名雲の軽いジャブは勢いを止めない。打つべし打つべし。名雲自身の拳も次第に赤く腫れ上がりグローブをはめていない角ばった拳骨は内出血を起こしていた。
観客として存在する下校途中の小学生低学年集団。各々に身体に不釣り合いな大きなランドセルを背負い二人の戦いを見守っている。
大人の真剣勝負をこの場で披露する名雲と根岸。かつては父と息子の間柄だった。息子は父の背中を見て育つ、いつの日か反抗期という父に抗う日が訪れ、互いに親子という関係性を超えヒトとヒトとしてお互いを見ることになる。
名雲の猛撃は止まらない。ジャブに次ぐジャブ、時折根岸脇腹にフックをかまし、相手の出方を見る。
両腕を顔の前に構えた防御姿勢を一切崩さない根岸。攻撃に耐え続けるのには理由があった。秘策とも言える妙策があった。なおも口内に唾を溜め続ける。
拳での連打の勢いは止まない。名雲は自身の勝利をここで確信した。相手の体力は徐々に削れていっている。一般人に三分間戦い抜くスタミナなど皆無なのだ。だからこそ先制攻撃をした者が勝者へとなり得る。
口内で舌を動かし唾の分泌を促す根岸。大量の粘液が自身口内には溜まり始めており、刻一刻とその時を待つ。
攻撃し続ける方もスタミナの消費は激しいものがある。肩で息をしながら懸命に拳を相手へと当て続ける名雲。
ワンツーコンビネーションからの脇腹への威力のあるボディーブロー。一瞬根岸が苦い顔になる。
ここで機転を利かせた名雲。一瞬の間を置き相手から一歩下がる。次に繋がる一撃への準備。ここでキメようと名雲自身思った。
愚作へと成り下がった名雲のこの行動。ここで形勢一気に逆転することになる。
顔面を両腕で覆っていた根岸が華麗なステップで名雲へと踏み寄ると腕の隙間からわずかに顔面を出し、口内分泌液唾を名雲の顔面へと浴びせかけた。
狼狽しその場で後ずさる名雲。目元へと混入した粘着性を伴った唾が自身の視界を奪う。
正中線ど真ん中。顔面鼻部分中心へと根岸の右ストレートが放たれる。
鼻骨のわずかに割れる音。吹き出る鼻からの鮮血。朦朧とした頭で名雲はその場に膝を着く。
猛将根岸の攻撃はこれだけでは終わらない。膝を着いた名雲の側頭部、耳の付け根辺りに渾身の蹴りをお見舞いする。靴元爪先が名雲の頭部へと一瞬の衝撃となって到達する。
観客である小学生集団は歓喜の声を上げた。
息子が父を超えた瞬間でもあった。かつての偉大な父の姿。かつて存在した四人の家族。父。母。愛犬。自分自身。そのような家族が実際にお互いに生活を送っていた。今では拳を交える仲となっている。
息絶えたかに見えた名雲はよろめく身体で起き上がり。その瞬間奇声を発した。
汚らしい全裸姿でヒトとは思えない奇声を発する。その声に小学生集団は困惑した表情を見せてた。精神衛生上よろしくないその男の見た目。成人男性一人の裸体に年端もいかない女の子は夢中の容姿で、その様子を隣に位置する男子小学生は黙って見ていた。
腕を振り回し根岸へと襲い掛かってくる名雲。汚物まみれの汚い身体で命の最後を息子へと見せつける。
ここで冷静な判断を下せたのが根岸。虫の息である対峙者みぞおち部分に渾身の蹴りを放つ。内臓をえぐるような力強い蹴りは名雲の思考を一瞬遮断し、脳内への命令系統である自我意識中枢部分は見事に姿を消した。
その場に危ない崩れ方をする名雲。後頭部から地面へ力なく倒れ、頭を見事に打った。
勝者である根岸はここで捨て台詞を吐く。
「家族になんて戻れるはずありませんよ、四人家族だったあの日々。僕の目からは貴方は真っ当な狂いそのものに見える。一度精神科の受診をお勧めする」
意識を失った名雲にとって、その言葉は世迷言に過ぎなかった。
頭上には蒼天の青空。眩い陽光が勝者と敗者を色濃く映し出す。ある者は日陰者に、ある者も日陰者に。結局はどちらも日陰者同士なのだ。
肉で肉を打つかのような男同士の戦い。男の戦いに言葉などいらない。拳で交わる心と心。心が交わった時、ヒトは己自身をヒトであると再認識する。
ヒトを殴る拳が存在し、ヒトを蹴る脚が存在する。殴る者と殴られる者。痛覚を伴う攻撃としての打撃。一歩間違えれば命の危険性が伴う。人間という生き物は闘いが好きな生き物。SEXですら一種の闘い。夜の闘いとして存在している。
女に暴力を働く男は最低だ。では逆ならどうだろう、女に暴力は振るわれる男。やり返すことすらできず黙って女からの打撃に耐える男。この場合、男は決してやり返してはならない。それが男という性別で生まれてきた運命なのだ。もう一度ここでは強く言っておきたい。女に暴力を働く男は最低だ。
身体の節々が痛む根岸。暴力とは痛みを伴うモノだ。事実として痛みとは身体の異常を脳内に伝える役割を担っている。これは極めて異常なことなのだ。日常の中に存在する非日常的な暴力的な行為。
殴り合いの喧嘩をしたことのない男は今の時代少なくなった。あれは一度経験しておいた方がいい。殴る方も痛い。このことを知っているのと知らないのでは人の痛みを知る大きな違いが生じてくる。拳骨の出っ張った部分。殴った方はその箇所を損傷する場合が多い。心も痛む場合が多い。冷静な判断を下せなくなくなり、興奮した状態で相手を殴る。
人とは考える生き物だ。故に人とは賢明な判断を下せる生き物でもある。したがって、愚かな過ちを犯した際に人はそのことに苛まれるのである。
自身にとっての懸命な判断。人を殴り人から殴られる。人が考えた結果として暴力というモノが存在する。力でねじ伏せることが一番手っ取り早い。考えなくて済むからだ。
異性との交わりにおいても考えることを放棄する場合が多い。己の快楽に身を任せ、考えることを放棄し、愛欲の渦に飲まれる。思考が一瞬馬鹿になり、単細胞生物然とした見た目へと変わる。
男は暴力で事を済ませ、女は愛欲で事を済ませる。いつの時代であっても普遍的なことは変わらない。未来永劫変わることはないのだと思う。
ある男が言った。
「女なんてさ、酒飲ませて酔わせてヤっちゃえばいいんだよ」
ある女が言った。
「男って単純よね、酔ったふりして演技しさえすればその気になっちゃうんだから」
ある幼子が言った。
「相対性理論を仮に異説と唱えるのならば、私は万物の理に従って一から十の多種多様な反説を唱えることができる。アンチテーゼとはある種の正反合である。故に私はこの異種混合世界において輪郭を鋭く切り取った言葉を弁ずることができる唯一の人である。以上が私からの自己議弁及び声明になります」
子供の方が大人より賢い。
賢い大人なんてこの世に存在するのだろうか。頭の賢い大人ぶってる大人。
子供は純真無垢でいい。そんな子供もいずれ大人へと成長する。
様々なことを覚え大人へと成長し切る。
愛欲など知らない方がいい。それは馬鹿に変貌してしまうから。
化け猫の類にこんな逸話がある。
人を化かす異形の獣。猫のような姿形をしており、その性別はメスであるという。
精巣を持たない正真正銘の雌猫。体内には人間と同じように子宮が存在し、 膣管も存在する。子を宿すと乳房から乳が滲み出、母性という名の野生の本能が目覚める。
求愛行動の一種に化け猫のその鳴き声が挙げられる。妖艶な艶のある鳴き声を雄猫に対して発し、誘惑するというものである。
時には人のような姿形に化け、夜の城下に出かけると町商人を淫らにたぶらかす。その気になった男は化け猫と秘密の常時に明け暮れる。その結果子を宿す化け猫。
半人半猫の異様な生き物が生まれ、豊な毛並みと尻尾を持つ二足歩行を行う人間のような姿形。人語は喋らず、ニャーとだけ鳴く。
「生まれはどちらで?」
男は化け猫にこう言った。
「紀州の方で御座います」
「何故にこの江戸へ?」
化け猫は微笑を湛えると小さな声でこう言った。
「奉公で御座います。この町の外れ大きな武家屋敷に住み込みで働いております」
ほうほうといった表情で化け猫の話を聞く男。
「江戸の町でも夜になると辺りは真っ暗になります。どうか帰りはお気をつけて」
男は化け猫に挨拶しその場を立ち去ろうとした。男の袖を持ちそれを引き止める化け猫。
「お待ちなし、少し休んではいかれませんか」
着物の胸元を少しだけはだけさせる化け猫。男は生唾を飲み込んだ。次第に男の伸縮自在棒がにわかに反応を見せる。
「いえ、私は妻帯者なので。私には妻がおります」
「いいではありませんか、ほんの少しだけ」
首を横に振る男。相反するように伸縮自在棒は半棒状態になり、身体は正直なことかと頭の中でいらん事をつらつらと考えてしまった。
着物から覗く化け猫の真っ白な太もも部分。ここでも生唾を飲み込む男。女の柔肌に男の思考は徐々に破壊されてゆく。
「私のことを贔屓にして頂けませんか? 今宵の晩は月が綺麗ですね。私のことを贔屓にして頂けませんか?」
「先ほども申したように私には妻がおります。不貞行為に手を染めるわけにはいかないのです」
不意に男の手を握る化け猫。そのまま自身胸元へと男の手を近づける。
咄嗟に手を振り解く男。
「おやめなさいっ! 何をしているのです!」
男の顔は激昂していた。それと相反するように伸縮自在棒は何かを欲していた。
顔を伏せ弱気な表情に変わる男。その男の顔をいじわるそうに見つめる化け猫。
「いいではありませんか、今宵、今晩だけ、そのような関係でいいではありませんか」
ここで素直に断りその場を立ち去ればいいものを。男はその場を離れられないでいた。
「貴方と行為を致したいのです。外でも私は構いません。ほら、あの樹の下で、犬の交尾のような格好で、私が樹に手を着き貴方が私を突く、私と行為を致しませんか?」
男は化け猫の指差した向こうに顔を向けた。確かに大きな樹が立っている。葉を夜風に揺らし、輪郭のはっきりとしない樹のようなモノ。陰影として大きな樹はそこに存在していた。
化け猫は男の瞳を真っ正面から真っ直ぐに見据える。金縛りにでもあったかのように男の身体は硬直した。局部も硬直していた。
男にすり寄ると匂いを嗅ぐように化け猫は男の首元に顔をやる。そのまま男の局部を撫でるように触り、男はたまらず目をつぶった。
ねぶるように男の局部を刺激していく。男の耳を化け猫の長い舌が這う。互いの身体を密着させ、男は事実として女に責められている。
根負けした男は化け猫の肩を掴むと激しく接吻した。口と口を互いに合わせ、舌を互いに絡み合わせ、唾液の交換を激しく行った。
口元を離した男は女に向いこう言い放った。
「もう辛抱たまらんっ! これから過ちを犯す故。妻である節子に私は今謝りの言葉を口にする。節子すまない」
男は化け猫の手を引き、大きな樹の下へと向かった。
男は女の帯紐をほどき、強引に着物を剥ぎ取った。下着というモノを身に付けていなかった化け猫、真っ白な化け猫の尻が姿を表し男は恍惚な表情を浮かべた。
露になる女の恥部に顔を埋める男。ねぶるように自身舌先でソレを刺激していく。妖艶に喘ぐ女は化け猫の類。
蜜壺としか形容できないソレからは潤滑油ならぬ粘液が溢れ始め。男の伸縮自在棒は怒り狂い正気を無くしていた。
肉穴に肉棒を挿入していく。みっちりと詰まった内臓器官として存在する化け猫の膣穴に、男の排泄器官及び射精前の棒がぬぷりと挿入される。
快楽の表情を浮かべる両者。ひだ肉の壁面を擦れる男の肉棒。潤滑液が愛液と形容されるモノ。男は一心不乱に腰を振り続け、肉と肉がぶつかり合う卑猥な音が静寂の夜に連打する。
樹に手を突き尻を突き出している現在の化け猫の姿。男は女の腰部分を掴み自身がヒトであることをこの瞬間忘れ。ヒトならざるモノがヒトならざるモノと交尾し、やがてはヒトならざるモノがこの世に誕生する。
男の腰の動きが激しさを増す。化け猫の妖艶な喘ぎも城下の町にこだまするように鳴く。
強張る男の腰部分。何かが迫り上がってくるのが分かり、伸縮自在棒の突端部分から白濁液を噴射する。
ソレは化け猫の子宮内に勢いよく飛び散り、わずかな空洞として存在する子宮内を白濁色に染め上げた。肩を震わせる女。腰を震わせる男。
ゆっくりと抜かれた男の局部は濡れに濡れており、女はそのまま男の方を向き中腰姿勢になる。
化け猫は自身口内に男の伸縮自在棒を含み入れ、舌で舐め回すように掃除をし始めた。射精直後の敏感な男の局部、男は腰をわずかに引き苦悶の表情を浮かべた。
化け猫の攻めの姿勢は変わらない。男の腰をガッチリと両腕で掴み、卑猥な音を立てながら自身首を動かし続ける。
次第に硬度を高めていく男の伸縮自在棒。見事に復活を果たし、卑猥な音はなおも続く。
「まさに壺。壺であるよお前さんは」
女のつむじ部分を見つめながら男はそう言った。
月夜の晩に女は乱れ狂い。男を喰らう。そういった伝説や逸話が古くから多く古文書に残されている。
飲食をする為に人間に備わる口という器官。女はソレを使い文字通り男を喰らう。射精を促し体液を放出させる。膣内に挿入された肉棒は刺激を与え続けると中で精子を放出する、卵管から排出された卵子と結合し、やがては受精と相なる。
再び男の腰部分が強張り、化け猫の口内に白濁液は吐き出された。
そのままソレを飲み込む化け猫。上を向き男と目が合う。
「ふしだらな女に見えますか私は?」
首を横に二回振る男。
「不貞行為にいちいち文句を言う輩が何処にいるか。素直によかったと今では思える」
満面の笑みを女に送る男。化け猫は小さく微笑むと、そのままその場に立ち上がり男と唇と唇を交える。
自身が吐き出したモノの味をわずかに感じ取りながら、男は接吻したまま静かに目を閉じた。
至近距離での男の目を閉じた顔に化け猫の鋭い眼光が光る。夜目の利く全てを見通す猫目。男の心までも見透かす女の本質を突いた真実の目。
そのまま男と女は別れた。一夜限りの秘密の情事である秘事。
化け猫はこの男の子を宿し、やがては出産と相なる。
半人半猫の猫人間。人のような考え方をし、猫のような鳴き声を発する。機敏に動く猫のような動きを見せ、流動体として存在する猫のような身体の柔らかさを持ち、尻部分には尾っぽが生えている。
――そのような妄想の数々を汚い汚物まみれの名雲は頭の中で話作っている。
奇人変人の部類に属する異臭騒ぎの原因になり得る人物。
愛欲にまみれたお話の数々を日がな一日考えては妄想している。愛欲とはつまりは満たされない自身欲求の自己投影のようなモノなのだ。愛に飢え、愛を欲し、欲望の赴くまま誰かを愛したい。
愛を知る名雲は――愛を欲する生き物であるが故。ただ素直に愛を欲する。
続け様に展開されてゆく愛憎渦巻く男女の恋愛模様。
根岸自宅は希美宅マンション真向かいマンション同総階に位置する。いつもベランダで希美宅内を望遠鏡を使い覗いている。
「今日も公園に行くんだね。二人目は順調にお腹の中で大きくなり、いつの日かこの世に僕の子となって誕生する」
望遠鏡を覗きながら微笑を湛える根岸の姿。
「子種は赤の他人のモノ。事実アレはキミの夫とキミの子供だ。しかしだね、こうは考えられないだろうか」
根岸は不意に鼻をすする。
「キミのお腹の中に入っているモノを仮に僕の子だと仮定してみよう。精子と卵子が結合し受精卵となって細胞分裂が繰り返される。その結果として手足頭が形作られてゆきヒトの姿となって子宮内で育ち始める。ソレはただの結果論に過ぎない。キミのお腹に入っているモノは僕が僕の子であると思う限りソレは僕の子として存在し、僕個人の尊厳と自由とが矛盾してるよと歌いもすれば、ソレは事実として僕個人の尊厳を侵害する行為ともなり得るし、僕とキミとの愛の結晶が今後二人の仲を取り持つかすがいとなるのならば、僕は決してキミの監視を止めはしないし、今後もキミのことを監視し続けると僕はここに誓います」
手を交差しバッテン印を作る根岸。そのまま一礼し腕を水平に伸ばす動作を見せる。
途端に足を開きガニ股になる。そのままシコを踏む格好になり右足を大きく地面から持ち上げる。ドスコイ。ドスコイ。怒涛の張り手が空を切る。張り手の連打をお見舞いする。息の切れた根岸はそのまま礼儀正しく一礼しポケットからタバコを一本取り出す。
ライターでタバコに火をつける。口元を窄めそのまま勢いよく吸い込み自身肺へと煙を送り込む。
ニコチン成分が即座に血中へと流れ込み、血管はわずかながらの伸縮をみせる。細い管として存在する毛細血管が縮み、血流の流れがスローペースへと一瞬にして変わる。
安堵感と形容してもよい心地良い感覚。この場合リラックス効果が即座に発生し、根岸自身の思考がわずかに鈍り、口元から煙を燻らせる。
ベランダ上空を漂う白い煙。喫煙者自身は自身の匂いに鈍感だ。他者から見れば漂う刺激臭に顔をしかめたくもなる。
ベランダ伝い隣に位置するお隣さんの洗濯物にタバコの匂いが染み付く。それでも根岸はタバコを吸うことを辞めない。世界は自分を中心に回っている。 であるならば、自分の周りを回っているモノが世界そのものなのであって、誰に迷惑を掛けるわけでもなく、自由気ままに生きていけばいいと根岸自身思っていたりもする。
タバコの灰を灰皿変わりの空き缶へと落とす。ベランダの下を見やると名雲がこちらへ向かって手を振っていた。手を振り返す根岸。
「どういう風の吹き回しだ、上がってきたらどうだ」
拳で殴り合った仲。勝者として存在する根岸にとって名雲は敗者として存在する。かつての決闘者が今では気心知れた友人となった。父親と息子という関係から男と男の仲になった。
「今行く、酒も買ってきてある」
そう根岸のいる上層階へと向かって叫ぶ現在の名雲の姿は全裸などではない。衣服を纏い小綺麗な身なり格好をしていた。
数分後。根岸宅のインターホンが鳴らされる。
玄関へと出る根岸。
施錠を外し名雲を向い入れる。
「外は曇り空だ、これはきっと雨が降るぞ、洗濯物なんか干してないだろうな」
「お隣さんは干しているようだが、僕は干してはいない。本当に雨なんか降るのか? 予報では雨マークなんか出ていなかったが」
靴を脱ぎ根岸宅へとお邪魔する名雲。かつての汚くて臭い身なりはこの場では皆無で、右手に持った買い物袋には酒類とつまみが少々入っていた。
「曇天の曇り空、こんな日でも酒は飲みたくなる。一杯やりながらこれからのことを是非話そうか」
テーブル上にロング缶ビールを二つ置いていく名雲。柿ピー、サキイカ、チータラ、などのつまみも揃っている。楽しい宴の時間がまさに始まろうとしていた。
案の定空からは小雨がポツポツと降り始めていた。お隣の住人が慌てて洗濯物を取り込む音が微かに聞こえる。
「タバコはベランダで吸うようにお願いするよ。そうだ椅子を二脚ベランダに持っていって外で飲もうか? 軒先だから雨に濡れる心配もない。雨音を聞いての酒も風情があっていいじゃないか」
その提案に乗った名雲は根岸と一緒に椅子をベランダへと運んでいく。小型テーブルを用意し即席の屋外酒場がそこに誕生した。
二人は缶ビールのプルタブをプシっと開けていく。缶と缶をぶつけ合せお互いに乾杯する。
外の雨は激しさを増していた。今時の言葉で言うならばチル。リラックス状態でアルコールを摂取する。これ以上の至福の時間は今の時代なかなかお目に掛かれるモノではない。
黄金色の豊潤な香りのする飲み物が喉を伝う感覚。喉越し爽快、喉で味わう人類の発明した最高の飲み物。この場に下戸の者など存在しない。二人は酒を飲み、酒を嗜んでいく。
「桜井とこの前ヤッたよ、希美とも先日ヤッた。女なんて簡単な生き物だ。すぐに股を開く、そして快楽の渦に溺れていくんだ」
「名雲さん、一歩間違えば警察沙汰ですよ、よく捕まりませんでしたね」
小さく笑みを作る名雲。
「あの場が異常だっただけさ、あの異質な異形空間で警察の出る幕など皆無なんだよ。なあ根岸、もう一度家族に戻らないか?」
そう言われ、真顔で目の前の名雲を見続ける根岸の姿。
「四人家族にですか? 僕は別に構いませんよ、あなたとは殴り殴られの仲だ、心の通じ合いが幾分生じた。問題は希美さんと桜井さんですよ。希美さんは家庭を持ち現在妊娠している。桜井さんも彼氏がいる」
煽るように缶ビールを飲み干してゆく名雲。一本目を飲み干し二本目の缶ビールプルタブをプシっと開けた。
根岸はつまみのチータラに手を伸ばす。外は生憎の雨模様。雨の音が次第に強くなってきた。
「ヒトは快楽に忠実な生き物だ。であるならば、一度記憶された快楽に抗うことなど出来ないのさ。あの二人は僕の手中の中にある、僕の掌の上に事実存在しているのさ」
「妻と雌犬を演じていたあの二人が名雲さんの一言でまた集結すると? にわかには信じられませんな。あちらにも生活というものがある、それを捨ててまでかつての生活にまた戻りたいと思うでしょうか?」
二人はタバコをそれぞれ手にとりライターで火をつける。吸い込んだ煙を互いの顔に吹き付ける。副流煙などこの際どうでもよかった。事実二人の肺は真っ黒にヤニで黒ずんでいる。
口元にタバコを咥え不意にベランダの外に目をやる名雲。
雨が降っていた。晴れ間は当分訪れそうもない。だからこそ今この場で酒を飲みタバコを吹かす。ヒトがヒトである為に。
「それはそうと名雲さん、ずいぶんと小綺麗な格好になりましたね。あの時のあなたはとても汚く臭かった、それが今では見違えるように別人のようだ」
鼻で笑う名雲。
「あの頃の私は精神に異常をきたしていたんだ。もう自分の人生などどうでもよく考えていた。一度行動してみると世界は如何様にも変わるモノだね。キミと殴り合いの決闘をし、希美を犯し、桜井も犯した。一つの行動で枝分かれする分岐点が無数に存在する。未来の選択をするのはまさしく私なんだ。望んだ家族を手にしたい。私はそう思う」
「根岸である僕は息子を演じ、桜井さんはあなたの妻を演じ、希美さんは飼い犬を演じた。一つ疑問が残ります、あの頃のあなたは父親を演じていまいしたか? それとも名雲という人間を演じていましたか? どちらです?」
ここでも鼻で笑う仕草をみせる名雲。左手に持ったタバコの灰を灰皿に落とす仕草をみせる。
「私は私を演じてきたつもりだ。名雲という人間でもなく一人の父親でもなく、私という人間をあの時華麗に演じてみせた」
「そうなると名雲さんというヒトの存在そのものは一体何処にあると言うのです? 人はすべからず皆何かを演じて生きているモノです。であるならば僕は僕を今演じ、あなたと今こうやって対話していることになる。名雲さんの目から見て僕は根岸という人間に見えますか?」
本降り模様の光景がベランダの外には広がっている。タバコの白い煙は降り続く雨とは反対方向に真上へと昇ってゆく。
「キミはキミさ、根岸という人間で間違いない、それを今演じているんだ。人には役割というモノがある。息子を演じ、妻を演じ、飼い犬を演じる、何かしらの役がこの場合必要なんだ。配役に文句を垂れる輩も少ないように思える、配役に文句を言うすなわち命の放棄でもある。事実として配役に納得のいかない連中が己で自死の道を歩む。滑稽にさえ映りもするだろう、人生という名の舞台において途中降板を余儀なくれるんだ、観客に申し訳ないと思わないのかね」
タバコの吸殻を空き缶の中に落とし、根岸も二本目の缶ビールに手を付ける。
「この場合の劇中歌は何が適切だと思いますか? 人生という名の舞台に合う劇中歌は?」
少しの間思案し続ける名雲。そしてこう言葉を吐いた。
「バロック音楽を代表する偉大な作曲家アントニオ・ヴィヴァルディー。彼の傑作に『まことの安らぎはこの世にはなく』という楽曲がある。ソプラノ独唱と弦楽オーケストラのための、三つのアリアトレチタティーヴォが交錯する崇高なモテットだ。その中でも軽快な第一楽章がこの場合人生という名の舞台にふさわしい劇中歌であると私は考える。この楽曲『まことの安らぎはこの世にはなく』は『この世に真の平和はない』と訳されることもある。まさに的を得ているだろう。人生とは平和や安らぎなど皆無な世界なのだ」
そう言って微笑む名雲の顔は、晴れ渡った空のように実に清々しいものだった。
二人の宴は夜遅くまで続き、千鳥足で名雲は根岸の自宅をあとにしていった。
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