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物理法則を無視し加速するド変態女。
昼過ぎに起床した身体をベットから起こし、リビングへと四足歩行で歩いていく雌犬。
夫は仕事。子供は幼稚園。リビング室内には希美という名の雌犬がいるのみ。
ソファにゴロンと身体を預けると器用に足で首元を掻いていく。体の柔らかさは自慢だった。
家事洗濯を一向にする気配を見せない専業主婦である希美。己の仕事を放棄してでも犬に成り切りたい。切実な想いとなって鼻を濡らす変態女。
「スペンサー教官に会いたい」
人語と犬語を器用に使い分ける天才犬。ワンワン吠えているそんじょそこらの犬とはわけが違う。この犬は人間の言葉を話すことができる、それも高度に自身の頭で考え、己で思考することも可能。
テーブルの上に置かれているスマホを手にした希美。
文明の力を器用に使いこなす姿に我々はもっと驚かなくてはならない。犬が自身の手を使いスマホを器用に操作する。嘘みたいな本当のお話。希美はスマホでスペンサー教官にメッセージを送っていく。
(スペンサー教官、昨晩はご無礼失礼いたしました、家族のいない間は犬でいると私決めました、今夜も会いたいです)
きっとスペンサー教官は市役所で仕事中。仕事終わりにメッセージに気づくはずだと希美は淡い期待を込めメッセージを送信した。
ホテルまで行ったがお預けを食らった昨晩の出来事。発情期の周期に入っているこの雌犬は、愛だ何だよりも直接的な刺激を求めているのであって、優しい言葉をかけてもらいたいわけではない。希美の夫である隆史はこのタイプ。愛を口で語るタイプだった。
口で愛を語って何になる、穴に入れて入れられてが男女という性別の特権。言葉で感じる女なんてこの世には存在しない。中には言葉でエクスタシーを感じる女性もいるかもしれないが、感じている演技をする自分に酔っているだけなのであって、女ほど演技の上手い生き物はこの世には存在しないのである。
演技という観点で見てみると希美の犬化も一種の演技なのであって、希美は犬に成り切りたいと真剣に思い犬を演じている。
現在の時刻昼の二時。
洗濯をしなければいけないことを思い出し、犬化を一時的に解く希美。二足歩行で洗濯機置き場の方へ向かってゆく。
洗濯洗剤と柔軟剤を洗濯機器に入れボタンを押す。ゆっくり回り始めるドラム式洗濯機。中で衣類が回っている。
キッチンに向かい冷蔵庫を開ける。食材が残り少ない、買い物に出掛けなければならない。気が重くなる希美。
家で犬のままでいたい、一般家庭の専業主婦に戻りたくはない。
そうは言っても必要最低限の家事はしなくてはならない、これも犬でいるための我慢。
二階クローゼット前で黒いスウェットを脱ぎ始める希美。白い太ももには程よく脂肪が詰まっておりガリガリの印象ではない。黒い下着に黒いブラ、胸もそこそこの大きさ。三十二歳は熟女の部類に入るのかなと自身頭の中で思う希美。
綺麗な三十二歳なら別段問題はない、その部類に希美自身隙間を縫うようには入っていた。二十代でも十分通用するかもしれない若々しさを兼ね備えた雌犬は、現在発情期の周期に突入している。残念ながら夫は期待に応えてはくれない。スペンサー教官である名雲と希美は日夜情事に勤しんでいる。
カジュアルな服装に着替え、バッグを持ち家を出る。スーパーでの買い出し、そのあとに銀行、家に帰ってきての洗濯物干しが待っている。
マンション一階駐輪場に止めてある自転車にまたがり颯爽にペダルを漕ぎ出す。サドルの存在感に心の中で思わず声が出てしまい恥ずかしそうに苦笑いする希美。
自転車で片道十分の位置にあるスーパーマーケットへと到着。レジ籠を掴み取り野菜コーナーから物色をしていく。キャベツが安いが持って帰るには少し難儀する、生鮮食材は通販がやはり便利だなと割高ながらも思ってしまう。
黄色いモノが目に留まる。
黄色く熟れた長くて太いバナナ。長くて太い。こんなにも太い。丸呑みにする口を希美は兼ね備えている。大きな口だ。
レジ籠にバナナの房を一つ入れる希美。こんな暑い日にはバナナが一番、栄養満点すぐに食べることができる調理不要の万能食材。と希美は思っている。
「あら~希美ちゃんじゃないの、お買い物?」
振り向くと同じマンションの住人である四十代半ば女性が同じくレジ籠を抱えながら立っていた。
「あ、どうも、こんにちわ」
伏目がちに挨拶をする。この微妙に気まずい雰囲気が希美は凄く苦手。数回しか会話をしたことのない初対面ではない人、一番困るパターン。
「あらバナナいいわね、私も買っちゃおうかしら、希美ちゃんももしかして使うの?」
そう問われ返答に困る希美、顔を伏せて顔が真っ赤だ。
「私毎回使ってるの、いいわよね」
「あの……使うって何に?」
きょとんとした顔をする目の前の女性。何かに気づいたようにはにかんで笑う。
「革製品の汚れ落としや艶出しに便利なのよバナナの皮って、うちレザーソファだからいつもバナナの皮で掃除してるの」
呆気にとられる希美。
「何だかやあねえ、今度希美ちゃんも試してみてね、それじゃあまたね」
女性はいそいそと何処かへと行ってしまった。
お馴染みの鮮魚コーナーの音楽を聴きながら希美はとぼとぼと店舗内を歩いていく。頭の中でいらんことをあれこれと考えながら籠の中のバナナの房を見つめる。
「革製品の汚れ落としに使えるんだ、初めて知った」
豆知識が一つ増えた希美は今度実際に試してみようと思った。革製品の汚れ落としを。
あらかた買い物を済ませスーパーマーケットをあとにする。購入したものはバナナ一房のみで大きめのレジ袋がとても寂しく見える。
そのままの足で近くの銀行に立ち寄る。
さほど混んでいない銀行で整理券を発券するとすぐに番号が呼ばれた。椅子に座る暇を与えない地方銀行。
「いらっしゃいませお客様、本日はどのようなご用件でしょうか」
余裕のある笑顔で希美を出迎える女性銀行員。
「子供の学資保険の相談で来たんですけど、以前一度電話で問合せしたことがありまして店舗に一度ご来店くださいとのことでした」
「履歴を確認いたしますのでお客様のお名前伺ってもよろしいでしょうか?」
「佐藤希美です」
女性銀行員がパソコンを操作していく、手に下げたレジ袋が途端に恥ずかしくなってきた希美。バナナ一房しか入っていない大きめなレジ袋。
「佐藤様、確認いたしました、あちらの面談室にご移動願いますか」
希美の視線の先にはバナナがあり、銀行員の顔をまともに見ようともしない。希美は思う。この銀行員は感づいていないかどうか。
バナナの使用目的を悟られていないか。きっともう全て分かっているのではないか。
奥歯を噛み小さな声を出す希美。
「あの……また今度、また今度来ます……」
顔を伏せ踵を返し銀行をあとにする。バナナ一房の小さな重みが今では強大に感じられる。たった一房のバナナなのに。
自転車にまたがり再度サドルの存在感を感じながら小さなため息を吐きペダルを漕いでいく。どんなため息なのかは希美自身知る由もない。ただ一つ言えることはバナナの購入は慎重に決断すべきということ。
自宅への帰り道、上空の太陽が素肌に照りつける。肌色の皮膚が犬のように毛むくじゃらにならないかなと変な妄想をしつつ、自転車に乗った希美は無事に自宅へと到着した。
玄関の鍵を開け室内に入ると洗濯機の稼働音はしなくなっていた。これから洗濯物干しが待っている。右手に持った軽いレジ袋の存在感が次第に強くなる。自分はなぜ外出したのか。本当にアホみたい。と、希美は思った。
またもため息を吐きながら洗濯機置き場へと向かう。
希美は洗濯物干しが大嫌いだ、この行為を好き好んで行う人なんて地球上に存在するのだろうか。そう思ってしまうくらいに洗濯物干しが大嫌いだった。
性格に由来する資質が洗濯物を干すという行為に如実に現れる。短気、せっかち、大雑把の三拍子が揃った希美にはこの家事は根本的に向いていない。よく初対面の人からは几帳面そうと言われる希美。言われるだけ、実際は全然違う。
ランドリーバッグに洗濯物を詰め込み室内物干し竿の場所まで移動する。もう午後三時、外に干すのは時間的に無理だろうから部屋干しの選択肢しか残されていなかった。
一枚一枚めんどくさそうに衣類を干していく。作業しながら犬になった日常を頭の中で妄想していく。
家族公認の飼い犬。専業主婦を辞め犬と成り下がった自身の未来を想像する。犬が服を着ていたらおかしいという理由から希美は全裸での生活を送ることになる。一人息子の遊び相手になってあげる希美はボールを口で咥え飼い主の元に戻ってくる。
頭を撫でられるのが好きなんだ。室内犬としての役割を十分理解している希美。家族の癒しとなる存在でありたい、そう強く願う雌犬。
夫が餌皿にドッグフードを入れ希美の目の前に置く。まだよしとは言っていない。待てができる賢い忠犬。
「よしっ!」
全力で餌皿にがっつく。
真上から飼い犬を見下ろす夫と息子、どちらも笑顔だ。微笑ましい光景、愛玩動物を可愛がる姿に幸せな家庭を想像できる。家族構成は男二人に雌犬一匹。愛する妻もいなければ大好きなママも存在はしない。
ふと現実の洗濯物干しの光景に戻る希美。Tシャツを無造作にハンガーにかけていく。
どちらが現実の世界なのか自分自身に自問する。理想と現実のかけ離れた空間が生乾きにも似た感覚で酷く臭う。雑巾の半端に乾いた匂い。臭い。
清潔な洗濯という行為に嫌気が差してきた。汚くありたい願望、少し臭うくらいが丁度いい。
「面倒くさいな、まだこんなにある」
ランドリーバッグにはまだ半分ほどの洗濯物の山。気が滅入りそうな感覚に陥り希美は今この時だけ犬になることを決める。
四足歩行の姿勢から犬を演じていく。
床の匂いを嗅ぎ目の前に洗濯物の山を発見する。舌を垂らし鼻息荒く洗濯物に猛ダッシュする。
前足で自身の白いパンティーをおもちゃにして遊ぶ犬。艶々の布素材が犬の好奇心を猛烈にくすぐる。
純白のパンティーを咥えた口を左右にブンブン振り回す。獲物を仕留めた雌犬は大喜び。ただの布切れに興奮を抑えきれない。
伏せの格好でガジガジかじって飽きたのか四足歩行でキッチンの方へと向かっていく。
シンク下から一時的に二足歩行へと立ち上がると、バナナの房から一つもぎ取りまた四足歩行へと戻る。器用に前足でバナナの皮を剥いていく天才犬。
熟れたバナナの身を美味しそうに頬張る姿はもう人間とは呼べない。半獣人。獣に育てられた女という表現が一番適切であり、衣服を纏っている姿が強烈な違和感を感じさせる。
現在の時刻夕方の四時。
息子を幼稚園に迎えに行かなくてはならない。人間に戻りたくない希美。どうか夫と息子を説得して犬として生活できないものか。そんな考えを頭の中でつらつらと妄想し続ける。
ゆっくりと二足歩行に戻ると玄関へと歩みを進めた。
マンションのエレベーターを下っている間も人間放棄宣言受諾に向けての家族への演説スピーチを脳内で妄想する。
人間を辞めたい。犬として生きたい。自分に正直に生きたい。本当の自分はこれじゃない。
駐輪場の自転車にまたがり幼稚園を目指す希美。
母として一人の親として人間を演じ続けなければならない苦悩。地獄の日々。親としての家庭はいらない、犬としての家庭が欲しい。
近所の幼稚園に到着すると息子と幼稚園の先生が幼稚園玄関で待っていた。
ニコニコ笑顔が絶えない息子。母親である希美の姿を発見すると笑顔はますますにこやかになり幸せを押し付けてくる。その光景に少し伏し目がちになる希美。
「ママ~!」
駆け寄ってくる息子、希美の太腿辺りに抱きついた。
「ねえママ~、今日ね、お遊戯会の練習したんだよ」
純粋な目で希美の顔を見上げる痛い存在。雌犬は思う。こんな人生望んでいなかった。
間違った方向へと向かう人生。明かに間違っている。人間の姿形をした息子がやはりこの場ではとても痛くて。
幼稚園の先生が駆け寄ってくる。互いに軽く会釈をし合う。
「こんにちわ佐藤さん、今日はみんなでお遊戯会の練習をしまして、悟くんも頑張って踊っていました。お遊戯会本番は楽しみにしていてください」
あまり話すこともない希美は息子を自転車の後ろに乗せていく。会釈をして幼稚園の中へと戻っていった先生。
「上手に踊れたよ僕、お家に帰ったらママにも踊り見せてあげる」
ため息を吐く希美。自転車を漕ぎ出すと子供一人分の重さが増し足に力が入る。
夕焼け空のオレンジ色の太陽がこの日は異様に眩しくて。夕陽に染まった親子二人が見ていられないくらいにキラキラで、儚げで。それでいて真正面から突き放せなくて。お腹を痛めた少しの絆を感じて。この二人は正真正銘の親子で。
風が重い。空気が濃い。
自宅に着いたのは午後五時過ぎ。
これから夕飯作りが待っている。そのあとで夫が帰ってきたら子供を預けてスペンサー教官と会うことができる。あと数時間の辛抱。人間を演じ続ける責務、義務、親としての最低限の責任。
冷蔵庫の中身がほとんど入っていない事実に今更気づいた希美。スーパーではバナナしか購入していない。
仕方ないのでピザを注文することにする。ピザ屋に電話をかける。
「あ、すいません注文お願いしたいんですけど、マルゲリータピザSサイズ二枚お願いします、あ、佐藤です、はい、はい、よろしくお願いします」
電話を切りソファに横になる希美。息子はテレビアニメに夢中のようで親子の会話は特にない。
雌犬は少しうたた寝をする。
肩を揺すられている感覚にパチリと目を覚ました。息子が自身の肩を揺すっていた。
「ねえママ、ピンポン、ピンポン鳴った」
一瞬のうちに寝ていたようだった。息子が言うにはインターホンが鳴ったらしい、誰か来たのかと思案しているとピザを頼んだことを思い出した。
急いで玄関に直行しドアを開ける。
「こんにちは~ハッピーピザです、ご注文の商品をお届けに参りました」
「あ、ちょっと待っててください、今財布を」
リビングに戻りバッグから財布を取り出す。また再度玄関へと向かう。
「ちょうど頂きました、またのご利用お待ちしております」
ピザ屋は去って行った。
外はもう暗くなっていた、ドアを閉めようとした時に横目に夫が見えた。夫がエレベーターから上がってきた所だった。静かにドアを閉める希美。鍵を掛けた。
すぐに鍵の開く音がする、夫の帰宅。
「ん、ピザの匂いがするな、今日はピザかい?」
返事をしない希美。
「あ、やっぱりピザだね、悟こっちへおいで美味しそうなピザだよ」
洗面所で化粧をしている妻の姿にこの夫は何を思うのだろう。冷め切った夫婦関係。修復困難。見て見ぬフリをし続ける良心的な夫。
「もう食べてていいかな、今日も出かけるのかい?」
「うん、食べてていい」
鏡の前で薄く口紅を塗っていく希美。
「今日も遅くなるから悟のことよろしく頼みます」
「うん、分かった」
化粧をし終わった希美はクローゼットで着替えを済ませる。白のワンピースに白いバッグを合わせた格好。あの人は白が好きなの。
玄関で白いミュールを履き、行ってきますの一言もなしにドアを開ける。
何も言わない夫、何も知らない息子。閉まるドアの音が家族の関係性を物語っているようで。静かに終わっていく。
希美は思う。人間であることに未練はない。自ら望んで犬になるその姿。滑稽に映りさえするコメディー映画の主人公のように。
純粋なM気質、生まれ持っての野生の本能。
――雌犬は今宵も月に吠える。時にそれは妖艶で非常に美しくも見える。
熟れたバナナ一房を一個だけ買った馬鹿女は今から人間を忘れることができる。スペンサー教官がそれを可能にする。男女の情事に他人がとやかく言う権利など一切ない。
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