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夜七時。希美自宅内。
ダイニングテーブルに三人の家族が座る光景。希美、夫、息子の三人。
頭上のダウンライトの光が食卓を照らす。外には満月が煌々と光り雲を黄色く染める。過ごしやすい季節になったなと缶ビール片手に夫はご機嫌の様子。
夜の時間帯に三人がこうやってテーブルを囲むのは珍しいことだった。強い決意を持って現在テーブルに座っている希美。非常に強い決意だ。ある告白とあるお願いをこれから夫と息子にする。
テーブルの上には昼過ぎから仕込んでおいたビーフシチューが並べられ、シーザーサラダの器も一緒にある。
缶ビールを一飲みする夫。
「改まって話しってなんだい? まさか離婚とか言うんじゃないだろうね」
銀色のスプーンでビーフシチューを口に運ぶ息子の悟。
「あなた大事な話があるの、私の話を聞いてほしいの」
神妙な顔つきになり胸の高鳴りを必死に抑える希美。息子の口についた茶色を布巾で拭ってやる。
「悟にも話さなきゃいけない話なのかい? この子はまだ子供だ、あまり聞かせる話でないのなら悟が寝静まってから」
「今じゃなきゃダメなの、悟にもあなたにも話したいことなの」
ピンと張り詰めた空気になるリビング内。大人の真剣な表情を無視しビーフシチューを食べ続ける無邪気な子供。
「なら言ってごらん、大事な話ってなんなのさ、なんでも受け止めるから」
意を決して言葉を発する希美。
「私犬になりたいの、室内犬、飼い犬」
冷静に表情をなくす夫。話の内容が上手く理解できないでいた。理解し難いとても難しいお話。妻が犬になりたいと言い出した。犬、英語でDOG、四足歩行をする愛玩犬。
冷静になればなるほど余計分からなくなる。まずそもそもの意味が分からない。そしてなぜ妻がそうなりたいのかも分からない。
希美を見やる夫。
明かに人間の形をしている妻。どうしたんだ頭がおかしくなったのか。何かの病気、精神的な病、日々の生活に疲れているのか、どうしたって自分の妻がいきなり犬になりたいと言い出したらどんな夫でも驚くはずで。
「あのさ、何か疲れてるキミ?」
夫は真剣に妻の瞳を見つめる。
「明日病院に行ってきたほうがいい、知り合いに精神科の先生がいるからそこで診てもらいなよ」
「本気なの」
真面目な顔でそう語る目の前の妻に夫は泣き出しそうだった。
犬になりたいってあんまりだ。好きになって、交際に発展し付き合って、結婚して、子供が出来て、そして犬になる。
残酷すぎて現実を直視できない夫。息子がビーフシチューおかわりと希美にせがんでいる。何も知らない息子。何も理解できない息子。
声を震わせながら夫は希美に問いかけた。
「本気なの?」
何も言葉を発しない希美。沈黙をこの場に提供する。自分に正直に生きると決めた雌犬は無言で夫に本気であることを示す。
それを見て頭を抱える夫。
「ねえママ~、全部食べれたよ、ママ達全然食べてないねどうしたの?」
静かに息子を見やる希美。
「ねえ悟、ママは今日から犬になるの、悟がお世話をするの、ちゃんと出来るよね?」
「うんママ、僕出来る、ちゃんとお世話する」
夫が嗚咽を漏らし小さく泣いている。瞳から溢れた涙がビーフシチューに一滴垂れる。
「そういうわけだからあなたお願い、私を犬にして。今日から人間の言葉使いもヤメる、衣服も着ないで裸で過ごす」
希美は立ち上がるとシャツを脱ぎジーンズを下ろした。ブラジャーを外し、下着も脱ぐ。生まれたままの姿に戻りその場でお座りのポーズを見せる。
咽び泣く夫。感情のコントロールが上手く出来ないでいた。悲しいのやら虚しいのやら。
「ねえママ、なんで裸になってるの? なんで? ねえ」
「ワンッ!ワンワンッ!」
驚いた表情を見せる息子の悟。ママが犬の真似をしている。もう頭をうな垂れて泣くしかない夫。今後の生活に自信がなかった、どう生きろと。
人間の言葉を自ら捨てた専業主婦。どこにでもいそうな専業主婦がある日を境に愛玩動物である犬に変わった。
人間二人と犬一匹のいる生活。
願いは強く願えばきっと叶う。願望。雌犬の願いは受け入れられた。
缶ビールに付いた結露がツーとテーブルに流れ落ちる。
翌朝の希美宅光景。
朝食を作る者がいなくなったある一つの家族の姿。
朝帰りが激しかったにしても、時間があれば朝ごはんをしっかり作り家族に振る舞っていた優しいお母さんの姿。
裸でケツを振る姿に目のやり場に困る夫。精神衛生上もっとも良くないとされる光景が息子の前には広がり、夫が用意した和食朝食に箸を付ける息子。
床に直置した茶碗に白米と味噌汁の猫まんま。貪り食う母親の姿。不思議そうに眺めながら箸を落としてしまった息子。希美の方向へと転がっていった。
箸を口に咥え息子へ駆け寄る希美。ぎこちない表情で母親を見やりながら箸を受け取る五歳の悟少年。
「悟、急ぎなさい、幼稚園に遅れる」
スーツ姿の夫。通勤途中でいつも息子の悟を幼稚園に送り届ける。迎えは希美の役目だったが今日から夫が迎えもしなければならない。
猫まんまの入った茶碗を器用に舌で舐めとる妻の姿。複雑な心境の夫。これでよかったのかと頭に疑問が湧いてくる。頭を振ってそれを打ち消した。
「行ってきます」
言葉少なめに別れの挨拶をし、玄関をあとにする夫と息子。その光景を名残惜しそうな瞳で見つめる一匹の雌犬。
室内に一人残された希美は四足歩行で家の中をうろうろ行ったり来たり。
その場をぐるぐる回る行動を見せる。
ぐるぐるぐるぐる。
片足を上げ放尿し出した。尿道から勢いよくフローリングへブチ撒かれるアンモニア尿液。湯気が立ち独特の刺激臭を放つ。
すっきりした希美はソファに駆け上がりぬいぐるみを甘噛みしている。よだれまみれになる熊のぬいぐるみ。
インターフォンが静かに鳴る。
「ワンワンッ! ワンワンッ!」
家主のいない犬を守る番犬の役割も果たす希美。当然扉には出ない。犬なのだから仕方がない。鍵を器用に解錠し扉を器用に開け閉めする犬は世界規模でみれば一頭ぐらいは存在はするであろう。だが希美はそんなに賢い犬ではない。
お椀に入った水を舌ですくい上げるように飲んでみせる。ピチャピチャと小気味いい音が室内に小さく響く。
午後になりフローリングのおしっこからはもう湯気は出ておらず、ソファで横になり昼寝をする雌犬。姿形は人間そのもので、人格や心は犬の形をしている。理性を失った本能のままに生きる生き物。これが希美の望んだ姿。
夕方のオレンジ色の光が希美の顔を照らしている。サバンナの夕焼けを連想させるその朱色の光。希美に野生の本能を呼び覚ますが如く大地の鼓動となって心臓に強く呼びかけている。
パッと目を覚ました希美は大きなあくびをする。
前足で顔面を擦りながら伸びをする。
ソファから駆け下りると水を飲む。午前中にマーキングした箇所にまた放尿し出す。
室内の明かりを灯せない希美。午後七時の暗闇の中で飼い主の帰りを静かに待つ。
空には闇夜が広がり満月が形よく空に鎮座している。小さな星の瞬きたち。こんな夜の日常的な光景。
ガチャっと鍵の開く音。夫と息子の帰宅。
リビングへ猛ダッシュする息子の悟は鼻を突く悪臭に顔を思わずしかめた。
「パパ~、ママがおしっこしてる~」
仕事で疲れた身体を引きずりながらリビングへと恐る恐る侵入する夫。フローリングのおしっこに頭をうな垂れ顔面を押さえる仕草をする。
「悟、あっちの部屋に行ってなさい掃除するから」
トイレットペーパーで妻の出した尿を吸い取っていく。
こんな自分が惨めで泣けてくる夫。涙を我慢して尿を吸い取っていく。
お座りをして待つ妻の姿にやはり泣けてくる夫。もうどうしようもないくらいに悲しい。レス状態とはいえ妻には確かに情はあった。今現在の自分に情はあるのかと問いかけてみても返答が難しい。非常に困難な問題だ。と夫は思った。
妻を見やる夫。
「ねえ……キミは幸せかい?」
人間の言葉を理解しない雌犬は首を縦にも横に振らない。真っ裸の妻を見ても興奮しない今の自分の心は、目の前の人物を人間として認識していないのではないか。と夫は心の中で思う。
「お手」
素直に夫の掌に肌色の手を乗せる希美。
目の奥から涙が溢れてきた夫。残酷な光景に逃げ出したくもなる。愛した女は雌犬に成り下りました。もう愛していません。愛せるはずがありません。
隣の部屋から息子が駆けてくる。肌色のママに後ろから抱きつく微笑ましい光景。何も理解していない純真無垢な子供という存在。こんなにも残酷な光景はない。
「ママ~、今日はお外で遊んだよ」
舌を出し笑っている希美の姿。悟も嬉そうだ。
リビングから静かに立ち上がりキッチンで夕飯の支度をする献身的な夫。頭の上がらない妻。
野菜炒めとチャーハンが食卓に二人分並び、床に直置きで一匹分静かに置かれる。よく躾のできた犬。よしと言われるまで食べようとはしない。
夫が震える声でこう言う。。
「よし」
握られた夫の拳は微かに震えていた。このやり場のない怒り、どこにぶつけていいのか分からない。憎さなど微塵もない。ただただ悲しいだけだった。
妻が。責任を放棄した妻が憎い。とは思えない夫。
限界に達した出来事。夕食を食べたあとの出来事だった。
大便の問題。
トイレを理解しない妻にさすがの夫も堪忍袋の尾が切れた。フローリングに直出し。お座りの姿勢から一気に糞を出す妻の姿に夫がキレた。
「おいっ! 勘弁しろよっ! これは介護か? ふざけんじゃねえっ!」
夫に怒鳴られ怯えた表情を見せる希美。息子も心配そうに隣の部屋から見つめている。
「大概にしとけよ! 見てみろあの子の目を! お前の産んだ息子だぞ!」
鬼の形相で言葉を荒げる夫。
「もう死んだほうがいいよお前。何だよ犬って、もう俺意味分かんねえんだよっ!」
ダイニングテーブルに一振りの拳を打ち下ろす夫の姿。大きく音を立てて隣の部屋の息子が途端に目を見開く。同じように希美も目を見開いている。
涙が流れ落ち、静かに夫は家を出て行った。
室内に残された一匹の犬と五歳児の男の子。
不安げな表情の息子に近寄り、顔を己の舌で舐めてやる希美。くすぐったい様子で少し表情が落ち着く息子の悟。血の繋がった親子の本当の姿。希美には母性がまだ少しだけ残っているのかもしれない。
時刻は夜の八時。
飼い犬とボールで遊んでやる悟。壁に当たって跳ね返ったボールを咥えて息子の元へと駆け寄る元専業主婦の姿。
その遊びを繰り返し行う。ふと悟が雌犬に話しかけた。
「ママはお犬さんなの? もう元のママには戻らないの?」
首を傾げる希美。息子の言葉を理解していない。人間の姿なのに人間の言葉を明瞭には理解出来ない。脳の構造や仕組みがもうそのような状態へと変化してしまっている。犬に成り切り過ぎて人間の根幹部分奥底の領域を支配されてしまった女。
悟はふと希美の乳房を見やる。母親の黒くなった乳首を見て懐かしい気持ちに浸る。数年前まであの乳首をかじり吸っていた。人間の乳房から滲み出る母乳を飲んで生きていたあの頃。もう母乳は出ない。
そう考えてみると人間も動物なんだとはっきりと理解する。哺乳類生物の一種であり母乳で子供を生み育てる生きた動物。
母親の乳房に手を伸ばす息子。優しく触れた。柔らかくて暖かい。小さな五歳児の指が白い乳房に埋もれる。吸うことはしない、もう母乳を飲む年齢ではない。
この時の希美の表情がやはり人の親なんだなと。少し微笑んだ顔が人間の親の形に似ていた。
この日夫は帰ってこなかった、次の日帰ってきた。
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