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「お宅の愛犬を私に譲渡して頂きたいです」
ダイニングテーブルに座る希美の夫と名雲の二人。不倫された者と不倫相手の両者が交わる異様な光景。
ソファでは裸の希美と息子の悟が戯れて遊んでいる。
ダイニングテーブル上の真剣な表情の二人。
一方は絶望の淵に立ち。もう一方は有利な交渉の場にいる。
じっとテーブル上の木目模様を眺め続けている夫。名雲の顔を見ようとしない。私は不倫相手ですと口で言われたわけでもない、直感でもう分かっていた。目の前の男が妻を寝とった相手だということを。
「もう一度はっきりとお願いさせて戴きます、お宅の愛犬を私に譲って欲しいです」
目元力を強める名雲。
「私は真剣です」
何が真剣なんだと頭の中で思う夫。何に真剣? 『お宅の奥さんを私にください』それが真剣な言葉? 世の中の不倫はみなこうなのか、これが普通なのか。と自問し続ける夫。
「申し遅れました、私名雲と申します、あなたの妻であった者と不倫していた者です」
現実離れした目の前の光景に、ただテーブル上を見つめることしかできない夫。不倫相手がのこのこと家にやってきた。そして妻をください。愛犬を譲渡して頂きたいとお願い申している。
日曜日の午前中。この日は夫も仕事が休みで息子の幼稚園もお休み。日曜日からの使者はブルーハーツの曲に限った話ではない。現にこうして悪魔の使者がこの家にやってきた。
スーツに身を包んでいる名雲はこちらが有利とハナから分かった上で話を進めている。
こんな生活維持できるわけがない、いつか破綻するのなら今ソレを渡したほうが賢明だと言わんばかりに無言の圧を仕掛けてくる。
窓からは日曜日の朝の日差しが心地よく、窓辺に面したソファで日の光を浴び仲良く遊ぶ希美と息子をちらりと見やる夫。
希美が全裸なことだけがとても非日常的で、この場では浮いた存在となっている。
「夫であるあなたに断る権限はないはずだ。どうです、この生活を維持できそうですか? 頭の中で想像してみてください。何十年というこの先の未来を」
テーブルの上から宙に視線をやる夫。名雲の胸元を見ている。
「旦那さん、あなたに飼育が出来るかと聞いている。その度胸はありますか? どうです」
名雲の胸元からソファ上の希美に視線をやる夫。その隣の息子にも視線をやる。
「息子さんが年齢を重ねたらどう思いますか。母親が裸で犬の真似事をする毎日。お子さんの精神衛生上良くはありませんよね、よく考えてみてください。思春期を迎えた息子さんのことを想像してみてください」
静かに奥歯を噛む夫。
そのまましばらく沈黙が続き、太陽の位置が真上へ少し動いた時。静かに夫が口を開いた。
「よろしくお願いします」
短い言葉を夫は静かに吐き、会釈し頭を下げた。
希美に服を着させる夫。トランクケースに必要な妻の私物を仕舞い込んでいく。息子は不思議そうな顔でそれを見つめている。服を着たママの見納め。もうこの先会うこともない。
太陽の位置がちょうど十二時の方向を指し示した頃に、名雲に連れられて自宅を出た希美。玄関先で夫が深々と頭を下げている。その横にいる息子の顔を最後に見やる雌犬。
扉は静かな音を立てて閉まり、衣服を纏った希美が久しぶりに二足歩行を見せる。子供の手を繋ぐようにして優しく接する名雲の姿。
マンション駐輪場に止めてある自転車にももう希美が乗ることはない。これからは四足歩行が生活の基準となる。
昼の太陽の照りつけを、体一杯に浴びて名雲宅を歩いて目指す二人。怖いものなど何一つない。
恐れなどもない。快楽のみが待っている、雌犬になる快楽。
スペンサー教官。名雲の口元は笑みを湛えており。とても嬉しそうな表情をしている。
昼過ぎの根岸宅。
希美宅マンションの真向かい。同階数に位置し常に希美のことを監視していた変態男根岸。
今この瞬間。あり得ない光景を目撃し、驚愕の表情を浮かべている。
人さらいの瞬間を確かに目撃し、警察に通報しようにも自身も変態であることには変わりなく。部屋の中で右往左往するしかない現在の根岸の姿。
「名雲が希美ちゃんをさらった。犬になった希美ちゃんを事もあろうに夫の目の前で正々堂々とさらった……」
考えが追いつかない根岸。一昨日犬となり果てた彼女を目撃し、家族公認の愛玩ペットとなった愛する人をただ見続けるしか他なく。その次の日には名雲という忌むべき存在が希美を白昼堂々連れ去った。
何が起こっている。この世界は異常だ。俺は正常だ。外の世界には不思議が満ち溢れている。こんな非人道的なこと起こっていいはずがない。と根岸は思う。
後をつけなくてはと瞬時に思った根岸は、勢いよく自宅マンションを出て二人の尾行を開始する。
電信柱の陰に隠れるおなじみの行動を根岸は見せ、着実に名雲宅に近づいていっている。東地区から西地区へ移動するだけ、同じ街の行動範囲内だった。
数十分後に二人が入っていった建物。
築年数の浅そうな綺麗な見た目の一軒のアパート。その一階の一室に名雲と希美は入っていった。
電信柱の陰からその光景を見つめる根岸。恨めしそうな表情を浮かべながら握る拳に力が入る、今すぐにでも乗り込んでやりたい。その衝動を抑えじっとアパートの一室を見やる。
アパート一階裏側に周り込み大きな二枚窓を確認する。カーテンが締め切られており中を窺い知ることはできない。
持ってきていた盗聴器のイヤフォンを耳にはめる。
すぐに声は聞こえてきた。
「雌犬に最初のプレゼントだ、さあこっちへおいで」
聞き耳を立てる根岸は表情を曇らせた。
「赤いレザー製の首輪だよ、うんピッタリだ、よく似合っている」
室内犬に赤い首輪を取り付けた様子をイヤフォン越しから知る根岸。嫉妬の念が心の中を駆け巡る。心奥底に溜まったドロドロになった黒いもので呼吸が苦しくなる。その間にも鼓膜を振動させる名雲の声。
「服を着ているから違和感があるのか、さあこっちへおいで脱がせてあげるよ」
衣服の擦れる音が一枚一枚根岸の鼓膜を刺激する。この状況においても下半身が隆起してしまうのは男の性。
アパート裏の物陰で口を右手で押さえながら鎮まろうとする根岸。あのカーテンの裏側を否応なく想像してしまう。人間と犬とが共生するアパート内の間取り図を瞬時に頭の中で妄想し静かに涙を流した。
嫉妬。嫉妬でしかない。これはあのホテルの一室ではなく、憎むべき相手の自宅。恋焦がれる相手は身も心もついにあちら側へと行ってしまった。酷い嫉妬の念。嫉妬でしかない。
「ケツを向けろ、そうだ、調教のしがいがあるなこの白い尻は。ぶっ叩くぞっ! 思い切り鳴けっ!」
臀部を引っ叩く音と共に雌犬の鳴き声が根岸の脳内を直に直撃する。
声にならない泣き声を押し殺し、奇妙な嗚咽を漏らす変態男根岸。
「ああ忘れていたねトイレを躾ないと。このおしっこシートに用を足すんだ、お利口にできたらジャーキーをあげるからね」
「お、言ったそばからぐるぐる回っているな、トイレはここだ狙いを定めろ」
根岸の鼓膜に名雲の大きな笑い声がこだまする。
「随分水圧というか勢いがいいな、思わず笑ってしまったよ、我慢してたんだね」
その言葉に少し笑ってしまった物陰に隠れる根岸。口角が微妙に上がっている。目元は笑ってはいない。
午後の風が根岸の頬をかすめる。日陰で直射日光はこの場所には届かない。
「三十二歳の雌犬生活がここから始まるんだ。なあ楽しみだろ、完全に人間を捨て去った生活を提供してやる。これはあれだなドMの域を完全に通り越しているな、少し可哀想にも思える」
根岸は右手で口元を押さえながらうな垂れた格好を見せる。
「お座り」
「吠えろ」
「ワンワンッ!」
従順な関係性を望んだ先に掴み取った未来。至福に震え上がる想い。一糸纏わぬ姿の裸体の希美。待ち望んでいた完全な犬としての生活。夫も子供も関与してこない獣とご主人様の関係。
日の差さない物陰で静かに未だ首をうなだれる根岸。そっとイヤフォンを耳から外した。異常な性癖に心底うんざりした様子。もう興味を失った対象。
根岸は音も立てずにその場を去った。
夜の七時。
おなじみのバスロータリー前の花壇付近物陰でじっと待ち続ける桜井の姿。恋焦がれるあの人を待ち続ける。生娘みたいな発想力で毎日飽きることなく繰り返される待つという行為。
風が冷たい。もうじき秋の季節がやってきてそのあとに冬の季節に移り変わる。春になって美しい桜が咲き、初夏が続き周り巡って一年が過ぎていく。
パーカーの袖を引っ張り手を包む桜井。
吐く息はまだ白くはならない。まだその季節ではない。夜空の満月がこの時期だと異様に綺麗で。輪郭が整いすぎて作り物みたいに見えてくる。
桜井の背後から近づく人影。静かに音も立てずに接近する。
屈んで呑気に待ち続ける女の肩をそっと手が触れた。反応するように機敏に振り向く桜井。
そこには根岸の姿があった。
「なんだ根岸さんか、驚かさないでくださいよ」
「桜井さん、残念なお知らせだ」
きょとんとした表情で根岸の顔を見やる桜井。
「あの二人はもうここには来ないよ。一緒に暮らし始めたんだ、ホテルに行かなくてもよくなった。自宅があるから」
複雑な表情を見せる変態女。頭の中で色々と考えてしまう。
「名雲さんの家ってこと?」
頷く根岸。
事実としてそこに事実が存在し、嘘偽りない根岸の頷くその姿。嘘であって欲しいという願いは無情にも崩れ去り、真実というモノが透明な壁となって桜井の前に立ちはだかる。
「僕の最愛の人は犬として名雲宅アパートで暮らしている。真っ赤なレザー製の首輪をつけて貰い正式に愛玩犬としての人生を歩み始めた」
「キミの最愛の人はもう立派な調教師だ。トイレの躾も完璧。室内犬の素質をあの人はやはり持っていたんだ」
沈黙する桜井。
俯き静かに泣き始めた。ただ黙ってそれを見ていることしかできない根岸。
引きつり気味の泣き声を発しアスファルトに透明な涙をこぼす桜井。次第に根岸の方も感情が昂り一緒に俯き泣き始めた。
男女が子供のように泣く光景。互いの為を思って泣いているのではない、恋焦がれるそれぞれの相手のことを思って泣いている。今この瞬間。桜井と根岸はお互いの心情が痛いほどよく分かった。
桜井が呟く。
「奇跡が起こらない限りもう可能性はないですよね……」
「桜井さん、残念だけどもう無理だと思う。一緒に暮らし始めちゃったから」
沈んだ表情で静かに話し始める根岸。
「鎖は希美ちゃんの首に繋がれていて、その先端を名雲が持っている。あの鎖は硬そうで壊せそうにもない。さすがの僕にも無理だな」
鈍色の極太の鎖を頭の中で想像した桜井。断ち切れないほどに強固。切れ味の鋭い刃物でも刃先が砕ける強さ。それほどまでにあの二人の絆は強いと感じた。
パッと前を向き正直な言葉を述べる桜井。
「根岸さん、私、生の声を聞きたい、今この瞬間の生の声を聞きたい」
真剣な桜井の表情に一瞬後退りをする根岸。これは本物だと思った。本気で名雲に恋焦がれ今でも愛している。こんなに愛されたら人は本望だ。ストーカーでも真剣に恋はしている、同じ人間なのだから。
手を繋いで二人は駆けた。名雲宅アパートまで一緒に走った。なぜか手を繋いでいた。片方が片方を引っ張り上げる要領で共に夜の街を駆け回った。
名雲宅アパート裏手。物陰付近。
一緒にうずくまり桜井にイヤフォンを手渡す根岸。耳にはめる桜井。
一気に赤面する桜井の顔面。むせて咳をした。シーと自身の口元に指をやる根岸。
「ヤってる……」
「どんな風に?」
「獣っていうか……何だか私恥ずかしくなってきた。だってここホテルじゃないし、名雲さんの家」
しゃがみ込んだ姿勢のまま俯く桜井。
「家でヤってるのよね。他人を気にせずに二人だけの空間で。でも私たちは今それを聞いている」
「ちょっと僕にもイヤフォン貸してください」
「あ、ちょっと待って、何か動きが」
一瞬の間、静寂が物陰一帯を包み込む。
「どうしたの?」
「とうとうあの女やりやがった……名雲さんに噛み付いた、腕を噛んだみたい」
「え、どういうこと?」
桜井の顔が激昂する。みるみる赤くなり根岸の静止を振り切ってアパートへと駆けていく。必死に止めようとする根岸。桜井の胴に被さりアパートには行くなと抑えた声で懇願している。
ストーカー女の本性が現れた。桜井はそのままアパート一室ドアの前まで突撃する。一心不乱にインターフォンのボタンを連打する桜井の姿。
根岸が唖然とした表情でそれを見守っている。
「出てこいクソ女! 私の名雲様に噛みつきやがって! 殺してやる!」
数十秒後。玄関のドアが開かれる。
パンツ一枚の名雲の姿。その後ろに裸の希美が四足歩行で存在している。名雲の腕からは血が流れていた。
玄関前一畳ほどのスペースに名雲、希美、桜井、根岸の四人が勢揃いした瞬間。
会ってはならない者同士がそれぞれの思惑の元一堂に会した。
名雲は後ろの希美を気にかけるように見やり、ドア前の桜井は興奮した様子で名雲を見やり、名雲の後ろにいる希美を根岸は勃起しながらその姿を見やり、当の本人希美は宙を眺めている。
四つの視線が交わることはない、それぞれが互いに見つめ合っている。世間一般的にこれは修羅場と呼ぶのだろう。修羅すら超えた地獄のようなこの風景。人間三人と犬一匹の奇妙で珍妙な物珍しい光景。
物語はここから急速に展開していき、最終的にこの四人は幸せそうな大きな白い一軒家で暮らす日々を送ることになる。三人の人間と一匹の犬が同じ屋根の下の元一軒家で暮らす。名雲の望んだ未来が現実のものとなる。
劇団員と観客の関係性。読者である我々はもちろん観客側として存在している。
スペンサー教官のお手並み拝見。この一座の座長は非常にやり手で有名。名雲というこの男は大胆かつ不適で、妙に憎めない性質を合わせ持っている。
物語は急速に加速していく。筆者である私でさえも制御することの出来ない無秩序な物語展開へとこの先なっていく。
劇中歌は激しさをもって過激さを増していく。歪んだノイズが我々の鼓膜を振動させる。
心臓の弱い方はここで読了を勧める。筆者である私は責任を持つことができません。
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