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都内近郊閑静な住宅街の一角。
建売住宅の白い大きなお家。広い庭も付いている。
運よく手頃な物件が見つかった名雲家は、既にここに住居を移し四人での共同生活を半年前から始めている。夫、妻、子供、犬。
朝の日常風景を少し覗いてみる。現在の時刻朝の七時過ぎ。
広いリビングルームは白を基調とした家具で統一され、四人掛けの大きな白いレザーソファーが壁際に配置されている。その前に白樺材で出来た灰色の長いローテーブルが存在感を持って鎮座している。
天井からはインテリア性の高いシャンデリア照明が設置されており、ソファの真向かいの壁には60インチのテレビ液晶が壁面に埋め込まれ朝のニュース番組を流している。
白い巨大なダイニングテーブルにスーツを着て座る名雲の姿。
トーストをかじり新聞を読んでいる。テーブルには皿に乗ったサラダとハムエッグがあり、マグカップに入った香り高いコーヒーから湯気が出ている。
キッチンでは妻である桜井がシンクの掃除をしている。髪を後ろで束ねエプロン姿の専業主婦。今年桜井は二十六歳になる、子供はもう一人欲しいので妊活に日夜励んでいる。
名雲の足元フローリングに寝ている全裸の人間。この一家の愛犬である。
愛犬の名前はノンちゃん、親しみやすい名前をと名雲が命名した。家族全員ノンちゃんのことが大好きで、人類の最良の友であるペットという存在に日々癒しを感じている。
ノンちゃんの股間から血が滲んでいる。生理である。
桜井がすぐにティッシュで拭いてあげる。真っ赤に染まる白いティッシュ。フローリングにもポタポタと垂れている。
「ママ、やっぱりこの子にもおむつが必要かな?」
「うん、こればかりは仕方がないもの、今度買ってくるわ」
「それより涼はまだ起きないのか、最近生活がダラけているな、通信教育もいいけど普通の学校に通わせてあげたい」
二階に繋がる階段を見やる名雲。
「あの子を入学させてくれる小学校ってあるのかしら、もうだいぶ身体も大人で他の子達とは少し違うから虐められないか心配」
「あの子は賢い子だから心配することはないよママ、きっと自分でより良い進路を決めて大人に育っていく」
股間が綺麗になったノンちゃんはソファに駆けて行き横になった。
階段の降りる音が静かに聞こえ根岸が姿を現した。パジャマ姿の子供のような姿。随分体格のいい子供。八歳の少年には到底見えない。
「今朝ごはん準備するから待っててね涼」
トースターにトーストを入れていく桜井。サラダも皿に盛り付けていく。
「コーヒーはブラックにする?」
頷く根岸。
テーブルに着き眠い目を擦る幼い少年。まだ頭がボ~っとしているようで半目が少し怖い。
「涼、明日からはもう少し早く起きような、ママが洗い物遅くなって困るだろう」
「うん」
寝癖で爆発した頭で言葉少なく返事をした根岸。少し伸びたヒゲが青々しい。
「もうこの家に越してきて半年が経った。早いものだな、あっという間だったよ」
感慨深くそう言い両腕を組む名雲。
「幸せだから時間が経つのも早く感じる、ママと涼とノンちゃんと暮らせてパパは幸せ者だよ」
「あなた時間、遅刻しちゃうわ早く食べちゃって」
「おおいけない、本当に遅刻してしまう」
急いで朝食を胃袋に入れる名雲。市役所までは片道一時間はかかる。この一軒家を買うためこの幸せな家庭を維持するため、片道一時間の通勤時間はちっとも惜しくなかった。
「ママ、行ってきます」
桜井に近づいていき行ってらっしゃいのキスをする二人。フレンチなキスで今日も一日が始まる。その光景を見てあくびをするノンちゃん。愛犬があくびをして始まる一日も幸せそうでなんかいい。
午前十時。
オンラインで通信制の小学校授業を受ける根岸の姿。パジャマ姿は変わらない、一日中パジャマで過ごす。
その横を掃除機をかけていく桜井。
ノートパソコンに映る算数の授業を口を開いた表情で見つめている根岸。リビングで授業を受けている光景。ソファに座る根岸の隣にはノンちゃんもおり、愛犬を真横にオンライン授業を受けることのできる素晴らしい時代になった。
スッと横の雌犬を見やる根岸。
愛犬のことが大好きな八歳児。好意的な好きではない恋愛感情を伴った本物の愛。この一人と一匹身体の関係にある。そういう関係。毎晩抱いている。
昨晩も激しかった。両親も毎晩ヤる。家族全員皆んながヤる。皆んなが対象、仲間外れはよくない。
仲のいい家族。こんなに仲のいい家族は世界に一つたりとも存在はしない。妊娠する可能もある。避妊教育を息子に教えない父親。
犬と人間のハイブリット混合種が生まれる時代。その第一号がこの家庭になる未来もそう遠くはない。禁忌を冒すという考え方は名雲家には存在はしない。みんな仲間、みんな家族、愛は種族の垣根を超える。
オンライン授業にもう飽きている様子の根岸。ソファにもたれかかりノンちゃんの白いお尻を触っている。揉み心地の良い柔らかい尻。乳房にも触る。授業どころではない。
「こら涼! まだお昼でしょ夜にしなさい」
母親に叱られしょげる根岸。昨晩はあんなにいやらしく喘いでいた母親が今では強気に叱ってくる。不思議に思う八歳児。昨晩ママはパパに叱られて興奮していた。希美同様に桜井もMの素質を兼ね備えていた。
オンライン授業が終わりボールを手にする根岸。それをノンちゃんに見せる。
尻尾がない雌犬はケツを振るしかない、遊んでくれると理解し鼻息荒くハッハッと言っている。
愛犬と息子が一緒に遊ぶ光景を微笑ましく眺めている桜井。今は幸せかと問われれば素直にハイと答える桜井。家族ができて一緒に過ごして毎日楽しく暮らしている。今ではもう昔のことは思い出せない。実家でニート生活を送っていた自分がこんなにも劇的に変われた。幸せは向こうからやってきた。自然とこうなった流れに身を任せただけ。
窓からの日差しが暖かい午後の時間。
大きなソファに三人で座る。真ん中に桜井、両隣にノンちゃんと根岸。
絵本を読んで聞かせる優しいママ、文字も言葉も理解できない雌犬。根岸も静かに絵本を見ている。
「ママ、この絵本はどういうお話なの?」
小さく微笑む桜井。
「ロバ、イヌ、ネコ、オンドリは音楽隊に雇ってもらおうとブレーメンを目指します」
「旅の途中の小屋で泥棒が美味しいご飯を食べているのを見つけたので四匹は泥棒を追い出しました」
「四匹はとてもいい小屋を手に入れたのでブレーメンへ行くのをやめてここに住むことにしました」
首を傾げる根岸。
「何で泥棒さんは小屋を追い出されたの? 何か悪いことしたの」
小さく笑う桜井。
「何でなんだろうね、ママも不思議、泥棒さんは悪い人なのよきっと」
根岸も小さく笑う。
「住むお家が見つかってよかったね動物さん達」
夕方まで三人でお昼寝をし目を覚ました桜井。午後の四時を過ぎていた。夕飯の支度をしなければと慌ててキッチンに立つ。まだ寝ている根岸とノンちゃん。その寝顔がとても幸せそうで。
午後六時。夫の帰宅。
夕飯のクリームシチューの匂いがリビング内に立ち込めていた。優しい匂い。包まれるような匂い。
「あなたお帰りなさい」
「ああ、ただいま」
「先にお風呂入ってきてもいいかな? 汗かいちゃって」
脱衣所に入り鍵を閉める名雲。ネクタイを外しワイシャツを脱いだ。肌着をゆっくり脱ぐ。季節は初夏の季節。汗もかく。
名雲の背中に点在しているおびただしい数の根性焼きの痕。何年経っても消えることはない刺青紛いなモノを幼少期に母親につけられた。丸い火傷痕。
今では母親を憎んでなどいない、。家族を知った名雲は群れで暮らす動物の重要性を知った。あの時母親はこう言っていた。
『この小さな丸い点々があなたを将来輝かせるの、きっと役立つ日がくるわ』
『あなたは母さんの息子なんだもの』
名雲の性格は母親譲りと言ってもいい。非常によく似た側面を持つ親子。その根底には優しや情が滲み出ている、冷酷な人間などではない。
浴室に裸で入りシャワーを浴びる名雲。
背中の痕にはもう染みないはずなのにこの日は何だか違和感がある。何かの前触れかと名雲は思った。
リビングでノンちゃんとボール遊びをする根岸。楽しそうに遊んでいる。とても楽しそう。
――白い一軒のお家。ここが数分後に惨劇の場へと変貌する。何も知らないノンちゃん、根岸、桜井、名雲の四人。
この家族崩壊する。家族ごっこは終焉を迎える。ある一人の来訪者の手によって。
脱衣所で体を拭いているこの家の主人が。生まれたままのその姿で阿鼻叫喚、他を憎み蔑み罵倒し、それでいて救いようのない結末を辿る。その光景が数分後現実のものとなる。
桜井がダイニングテーブルの上に熱々のシチューと缶ビールを用意する。よく出来た妻。
インターフォンが鳴る。
いつものインターフォンの音なのに、この日はとてもクリアに聞こえる。輪郭が鋭くなった音となって四人の鼓膜を静かに刺激した。
地獄からの使者。今まさに玄関前に突っ立っているその姿。まだ扉は開けてはいない。鍵が掛かっているから。
は~いと言って桜井が玄関の鍵を開け応対する。ドアが開けられた。
現実と真実、リアルや正解が玄関前に突っ立っていた。
そこには希美の夫の姿があった。
「あ、どちら様でしょうか? こんばんわ」
「妻を返していただきたく参りました」
頭の中が混乱する桜井。妻。返す。この人は誰?
「希美の夫です」
瞬時に察した桜井は慌てて脱衣所にいる夫に助けを求めにいく。慌てて脱衣所のドアを開け言葉にならない言葉を吐き続ける。
「ノ、ノ、ノンちゃんの旦那さん、来た、今来てる、玄関に」
土足で家に上がる希美の夫。一直線にリビングへ向かい希美の姿を安堵した様子で見た。
夫の姿を前にしてももう希美は犬なのであって。隣にいる根岸はこのおじちゃん誰? と言った様子で希美の夫を見やる。
「ちょっと一体なんなんですか! 勝手に入らないでください、警察呼びますよ!」
「呼んでもらって結構です、あなた方のほうが犯罪だ、妻は返してもらいます、帰るよ希美」
雌犬に優しく語りかける夫。
脱衣所からフルチン状態のまま出てきた名雲。血相を変えリビングに登場した。助走をつけて希美夫の右頬に渾身の右ストレートを放つ。顎骨と頭蓋を揺らしその場に膝を着く希美夫。
悪魔の使者はその体勢のまま静かに泣き始める。嗚咽混じりの悲痛な叫びとなって幸せな一家団欒をぶち壊しにする。
そのまま静かに語り出す希美夫。
「子供が泣くんです……ママがいないって……子供に母親は必要なんです」
何かに懇願する希美の夫。
「お願いです、妻を返してください、お願いします」
怯えた表情の根岸を雌犬が守っているこの状況。桜井も唖然とし名雲にいたっては怒りで身体を震わせていた。家族を守るのが一家の主人の役目。幸せは自分の手で守る。
「帰れっ! 家族に危害を加えるようなら警察を呼ぶ!」
「名雲さん……お願いします。妻を返してください、返して」
初夏の気候がダイニングテーブル上の缶ビールに水滴をつけ始める。このままではシチューが冷めてしまう。
「名雲さんっ! お願いします! お願いします! お願いします!」
冷酷な表情ではない冷静な顔で希美夫にこう告げるスペンサー教官。
「お帰り願えますか、家族が怯えています。もう私たちに関わらないでいただきたい。そもそもなぜこの家が分かった? 尾行でもしたのか?」
静かに頷く希美夫。
頭を抱える名雲。何が目の前のこの男をこうさせた。あのまっさらな青空の広がる日曜日の午前中は今でもはっきりと覚えている。希美を譲渡され受け取った日のことを。あの日のこの男はこんなにも妻を愛してはいなかった。希美の夫である以前に一人の男の人間。絆など感じ取れなかった名雲。
「あの日、あなたに飼育できるのかその度胸はありますかと私はあなたに問いたはずだ。責任を放棄し手放した末に今度はまた返してくださいと来たもんだ。こんなに狂った人間を私は見たことがない、あなた異常だよ」
咽び泣く希美夫。
「元妻を御覧なさい、あんなに怯えています、どうです、あなたを怖がっている」
「私たち家族の幸せを壊さないで――」
その瞬間ありったけの叫び声を発する希美夫。家が壊れるくらいの絶叫。一瞬身体がビクッと反応する四人家族。成人男性の魂の叫びを聞き、段々と怖くなってきた名雲。
泣き崩れもうどうしようもなくなった男は静かに立ち上がり玄関を目指す。返してもらうことは叶わなかった。
リビング内。
希美が二足歩行を見せる。
目には涙を浮かべ玄関に向かい手を伸ばしている。しゃっくりをしながらの泣き顔。懇願し、人間に戻りたいと思っているのだろうか。
夫が玄関を開けようとし、駆ける希美。
後ろから思いっきり抱きついた。夫に。その感触ですぐに妻だとわかった希美夫はまたもその場に泣き崩れる。玄関先で泣く人間二人。
「ごめんなさい……あなた」
人間の言葉をしっかりと喋った希美。犬を望み願いが叶った先で自ら犬を放棄し、また人間に戻りたいと思う愚かな人間。この女何がしたい。
幸せな家庭が崩れ去った瞬間。この大きな白い家がもう何も意味をなさなくなり。四人であるから家族なのであって、一人が欠ければさようならをしなければならない。
名雲の本当に悲しそうな表情。せっかく手に入れた幸せな家族がもう無くなった。家族ごっこはもうここで終わり。
桜井の服を着た希美と希美夫は静かにこの家をあとにした。
リビング内で真っ裸の名雲。小さく泣く。泣く。泣く。鳴く。
「ワン」
一糸纏わぬ裸の身体でその男は小さく鳴いた。
まるで犬みたいだ。
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