お菓子の国

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【1】ブルーチーズの現実  高層ビル群が乱立する都会。あくせくと動き回る人達は、一体何に急かされているのか。恐らく、彼らもまたその理由を分かってやしない、いや端っから考える気があるのかすら疑わしい。なぜなら、立ち止まって考える暇すら与えられていないのだから―。  ここにも1人、あくせくと動き回る人間がいた。名前は立花優。彼女はその名の通り、人に優しくし過ぎてパンク寸前の働きアリである。  優は今日もまた寝不足の顔を引っさげ休日出勤に勤しむ。本来の担当者は、叔父さんのマタイトコが危篤なのだとか。せめてもっとましな理由を、と言いたいところだが、優は違った。「それは大変!すぐに行ってあげてください!」血相を変えて叫ぶと、ドンと胸を叩いた。「私が代わりにやっておきますから。」…そう、彼女はいい人。“都合の”いい人なのだ。    今日はやけに蒸すな…。生ぬるい風を顔に送りながら、吹き出す汗を拭う。6月も中旬を過ぎたというのに未だ梅雨明けを聞かない所を見ると、このジメジメ感はまだ続くのだろう。  優はふーっと軽く息を吐いた。意識して軽くしないと、得体の知れない何者かに取り込まれそうな気がする。最近身に付いた癖だ。    休日勤務を終え、疲れを訴える身体を慰めながら家路を辿る。そうだ、何かご褒美を買って帰ろう。そう思った途端、ふわりと身体は軽くなり、甘い香りが鼻を掠めるのだから不思議なものだ。ああ、甘いお菓子なんてどうだろう。優は導かれるように細い路地を進むと、一軒の店の前に立っていた。  時刻は18時を少し回った頃。店を囲む家々からは、チラホラと明りが漏れ始め、夕餉の慌ただしさが風に乗って感じられた。あ、カレーだ。颯爽と現れたスパイシーな彼は、すぐさま優の心を鷲掴む。今日はカレーにしよう。早速、冷蔵庫の中身と相談し脳内リストを作り上げる。カレーとなると、食後のデザートは冷たいアイスかな。優は、再び目の前の店へと視線を向けた。  見るからに古めかしい木造の建物。道路に面した一階部分が店舗なのだろう、薄らと曇ったガラス戸が4枚と両脇を飾る提灯。そのすぐ横には、これまた古めかしい木造の看板が1つ掲げられていた。  “お菓子の国”  優は思わず眉をひそめた。なんともチグハグな印象を受けたからだ。長年の風雨に晒され、黒ずんだ看板に書かれたにしては、妙に真新しい文字。きっと、最近上書きしたのだろう。そう納得する反面、なぜか引っかかる。 この店…なんだか変だ。  途端、一陣の風が吹き抜けた。…帰ろう、早く!優は弾かれたように踵を返すと、一目散に家路を急いだ―。 【2】マスカルポーネの揺らぎ  「立花さ~ん、いつもごめんなさいね。」 クネクネと身体を揺らし、崎田は言った。また身内に不幸があったらしい。今度は、母方のマタイトコなのだとか。優は隈の出来た目元を和らげ、フルフルと首を振った。 「困った時はお互い様ですから、気にしないでください。」 これは本心から出た言葉だったのだが、途端に崎田の顔は醜く歪んだ。 「あっそ!じゃあよろしく。」 力強くバンっと叩かれた机、荒々しく去っていく靴音。恐らく、強烈な皮肉にでも聞こえたのだろう。しかし、目を丸くして見送る優からは一切の邪気は感じられない。案外、己が一番分かっているということなのだろうか―。  崎田の仕事も終わらせ、優が会社を出る頃にはすっかり辺りは闇に包まれていた。とは言え、どんぐりの背比べのように乱立したビル群や立ち並ぶ飲食店からは煌々とLEDが輝き、いまひとつ夜という感じがしない。その内、時代と共に“夜”という単語が失われたりして。フッと浮かんだ戯言は、薄ら背筋の冷えるものだった。    最寄り駅につき、ふと時計を確認すると時刻は21時前。無意識にため息が漏れた。またこんな時間…。優は、いつまで経っても点滅したままの電灯を見上げ、泣きそうな気分になった。私もこの電灯と同じだ。いつまで声なきSOSを上げ続けるつもりなのか。 「ちょいと!」 「す、すいません!」  突然浴びせられた声は、優を飛び退かせた。ホームのど真ん中に突っ立ていたのだ、当然と言えば当然か。優は伏し目がちに近くのベンチへ移動すると、ストンと腰を下ろした。今日はどうもナイーブでしょうがない。込み上げる涙をなんとか引っ込めようと深呼吸を繰り返していると、足元で何かが動いた。それは、小さな小さな老婆だった。  「ちょいと!そこのお嬢ちゃん!」 ああ、これは本格的にヤバイ。優はきつく目を瞑ると、消えろ消えろと呟いた。もぉたくさんだ、限界なんだ。これ以上、脳細胞を働かせないでくれ―。 「聞こえてるんだろ!?ええ?返事したらどうなんだい!」  しかし、一向に消える気配のないそれは、むしろ声高に叫んだ。なんなの、私の幻覚の癖に歯向かう気?優は無性に腹が立った。そして、カッと目を見開くと眼下の老婆を睨みつけた。 「うるさいんだよババア!聞こえてるわ!こっちは今日、心の底から疲れてんの。少しでいいから静かにして、むしろ今すぐ消えてさようなら。」  ここが駅のホームだとか、周りから見たらヤバイ人だろうなとか、夜ご飯何食べようかとか、駅員さんこっち見てたなとか、今はどうでもいい。優は深いため息を1つ吐くと、崩れるようにベンチに身を沈めた。今はただ、ゆっくりと眠りた… 「そうはいくかい!お前さんには、やってもらうことがあるんだ!あたしを”お菓子の国”に連れていきな!」  【3】 カマンベールの足跡  思い返せば、今日は朝からツイてなかった。ふたご座は最下位だし、定期は忘れるし、ストッキングは伝線するし、コピー部数間違えるし、コーヒーは…もういいか。極め付けがこれだ。優はふんぞり返る老婆を一瞥し、はーっとまたため息を吐いた。何がお菓子の国だ、そんなメルヘンな場所行くくらいなら眠りたい。  またしても目を瞑ろうとした優に、老婆はそうはさせるかとばかりに大声を出した。 「お願いだよー!この老い先短いババアの最後の頼みさ。あたしをお菓子の国に連れてっとくれ。頼むよ…お前さんだけが頼みの綱なんだ。」 辺り憚らずオイオイと泣き喚く声、合間に覗くチラチラとした視線。ああ本当に今日はツイてない。…ああもぅ分かったよ!  優は荒々しく老婆を掴み上げると、ポイっとベンチに放った。もはや幻覚ではありえないリアルな感触。どうやら、これが俗に言う不思議体験と言うやつらしい。  「で?」 ベンチに放った衝撃で腰を打ち付けたらしい老婆を冷たく見据え、優は背もたれに頬杖をついて問いかけた。もはや疲れはピークのその先。つくづく優しさとは、施す側の余裕ありきの所業だ。  老婆は執拗に腰をさすりつつ、恨みがましい目で優を睨みつけたが、再度顎で催促されると途端に両手を擦り合わせた。 「あたしはエメンタール。さるお方の命により、フロマージュ王国からやって来た只のババアさね。お前さんにお願いしたいのは、何も難しい事じゃない。ただお菓子の国に連れて行ってもらいたいだけなんだよ。」  多分に媚びを含んだ上目遣い、しおらしく祈る仕草がまた癇に障る。このババアわざとやってるのか。…とは言え、またしても登場した”お菓子の国”という単語。その上、老婆は執拗に連れて行けと言うが、優に思い当たる節などない。 「あのさ、悪いんだけど。そのお菓子の国?ってとこ、知らないんだよね。一緒に探してあげたいけど、今日は本当に疲れてるから無理。」 これ以上、下手に希望を持たせるのも酷な話だ。優は出来るだけキッパリと言い切った。これで老婆も諦めて他に行くだろう。  ところが、老婆はやれやれという風に肩を竦めると、フッと鼻で笑った。それがまた優の怒りを追い炊きする。やっぱりわざとかもしれない。 「なに?」 瞬時に再沸騰した怒りをそのままに鋭く睨みつけると、老婆はトントンと己の肩口を叩いて見せた。 「カマンベールの足跡が付いてる。お菓子の国に行った証拠さね。」 …は?優は示された肩の辺りに目を向けるも、これと言った変化は見られない。もしやこのババア、カマかけたか。途端、目を吊り上げた優は、怒鳴りつけてやろうと口を開いた。  その瞬間、老婆はすっと片腕を突き立てた。途端、緊迫した空気が2人を包み込み、心臓の音がやけに大きく聞こえた。そんな永遠とも思われた数秒の後、やっと片腕を下ろした老婆は、ニヤリと口の端を持ち上げた。 「見つけたよ、カマンベールの足跡だ。」  それはまるで、深海を泳ぐクラゲだ。 老婆がクイっと親指の先で示した場所には、確かに何か白いモノがふわふわと浮いていた。これが、カマンベールの…。優はしげしげとその物体を見つめると、そっと吐息をついた。今日は焼き魚だな。  「さぁて、追いかけるよ。」 見ると、早くしろとばかりに老婆は腰に手を当てていた。え、追いかける?キョトンとした顔で見つめる優に、老婆はこれ見よがしなため息を吐いて見せた。 「お菓子の国はね、誰でも入れるわけじゃないんだ。方法は幾つかあるけど、今はカマンベールの足跡を追っていった方が早いに決まってるだろう?…まったく、しっかりしとくれよ。」  待って、どうして私が呆れられている。釈然としない気持ちを抗議しようにも、早く早くと捲し立てられると脊髄反射で動いてしまうこの身体が恨めしい。こうして、気付けば歩き出していた優であった―。    月夜の散歩と洒落こむには短いが、夜風で涼むぐらいには丁度いい。そんな数分の時を経て、遂に優たちはかの地へと辿り着いた。  月の光を受け、怪しく光る4枚のガラス戸。両脇にぼんやりと灯る大きな提灯。その明りが照らし出す、年代ものの大きな看板。ああ、そうだった。優は今更ながらにその名を口にした。 「お菓子の国…。」 【4】ゴルゴンゾーラの通行証  それは、敷地に入った瞬間から聞こえ始めた。シャラン、シャラン…大きな鈴が一歩また一歩と、まるでこちらに近づいてくるように等間隔で鳴る音。その合間には、カーンカーンという何か硬いものが打ちつけられる音が続く。これは何の音だろう。優はサッと辺りに視線を這わせたが、音の出所はおろか、奏でるモノすらその目に捉えることが出来なかった。その間にも音は大きく、徐々に近づいて来ていることが分かる。なんだ、何が起きている?  その時、目の端で何かが動いた。なんだろう。確かめるように目を細めた途端、腰を抜かすほど驚いた。両脇に掲げられていた提灯が独りでに動いているのだ。しかも、こちらに近づいてきているではないか。優は恐怖のあまり震え上がった。  ふらりふらりと、まるで月夜のダンスに興じる天女のように。提灯は優雅に1歩また1歩とその距離を縮める。ああ、これは夢だ。自分に言い聞かせるように声に出してみた。しかしそれも束の間、肩口からは忍び笑いが聞こえた。 「夢なもんかい。ほ~ら、おいでなすった。怖い怖い魔女のお出ましさ。」  「ようこそお出で下さいました。当店主のクロノメと申します。以後お見知りおきを。」 裾の長い袖を持ち上げ、顔の前で組み合わせると彼女はニッコリと微笑んだ。どこか異国の息吹きを感じさせる顔立ちに、作法。優は一瞬、異国に迷い込んだのかと錯覚した。しかし、言葉はしっかりと理解できる。  そういえば、老婆もまた異国の顔立ちだ。なぜ言葉が通じるのか。先程まではそこまで頭が回っていなかったが、考えてみれば不思議な話だ。 「お嬢ちゃん、あんたは頭が固くていけないね。この国で使われている言語が、どうして他所で使われていないと思うんだい。」  肩口から届いた返答に、ああなるほどと納得した。と同時に、あれ口に出していたっけ?と思った途端、コロコロと涼やかな笑い声が聞こえた。 「ほほほ。皆様、始めは驚きなさるのです。ここは、あたくしの店。ちょっとした遊び心を込めておりましてよ。」 そうクロノメは言うと、ふーっと提灯の明りを吹き消した。 「本日は、月明りだけで十分でございますね。」    さぁさ、こちらに。そう促された優たちは、クロノメの後に続いた。確か今日は満月だ。見上げれば、零れ落ちそうな程立派な満月が空になっている。地上に視線を戻せば、黒曜石のように艶めくクロノメのドレス。さして目の肥えてない優ですら美しく感じるのだ、見事な演出と言えるだろう。  と、不意にクロノメが振り返った。本日はこちらに致しましょう。そう、片手を広げて見せたのは、日本百景の1つにありそうな立派な池だった。水面には瑞々しい睡蓮が咲き乱れ、ポッカリと開いた中央には、もう一つの月夜が映し出されている。優は無意識にスマホを探している右手に気付き、自分も現代人なんだなと場違いに悟った。    「では例のものを拝見いたしましょう。」 ふわりふわりと吹き始めた風に乗って、クロノメの涼やかな声が届いた。例のもの?首を傾げる優の傍ら、老婆は緊張した面持ちで頷いた気配がした。 「ああ、これでどうだい?」 そう彼女が差し出したのは、小さな白い塊。微かに鼻を掠めたこの香りは、チーズだ。これが”例のもの”だというのか。  すると、突然強い風が吹き抜けた。それは全てを吹き飛ばすような、そんな強引さを宿した風だ。優は咄嗟に顔を覆ったが、その威力に目を開けていられない程だった。ようやく収まった頃には、髪をまとめていたゴムは何処かに吹き飛ばされ、老婆は辛うじて髪にしがみついている状態だった。    突風が収まると、また心地いい風が辺りを包み込み、優はホッと息を吐いた。一体、何が起きたというのか。すると、いつの間にやら陶製の椅子に腰かけていたクロノメが、申し訳なさそうに眉根を寄せていた。 「申し訳ございません。どうも未だ加減を覚えきれていないようで。」  見ると、彼女の傍らには龍のような生き物がフワフワと浮いているではないか。え、何あれ。「クロです。」「カマンベールさ。」ほぼ同時に聞こえた回答は、同じ対象を指しているようだった。もしや、野良猫が各家庭で別の愛称を持っているあれか。なーるほど、お主も悪よの。  ニヤニヤと笑う優の視線は、どうやらお気に召さなかったらしい。再び吹き荒れそうになった風は、サッと差し出された扇によって阻止された。 「お客様の前ですよ。…さて、話を元に戻しましょう。」 クロノメの手には、先程まで老婆が携えていたあの白い塊があった。なるほど、あの突風はその為の。遅ればせながら納得した優だったが、改めて同情の視線を龍もどきに送った。不器用な子なのね。  「確かに受け取りました。ゴルゴンゾーラの通行証。」 クロノメはすくっと立ち上がると、空中にそれをそっと置いた。そう、置いたのだ。そして、唖然と見守る優の目の前で、見る見るうちに池の水面が盛り上がり始めたのである。   【5】ゴーダの美意識  一体何が起ころうとしているのか。静寂の美を誇っていた水面は今や、根底から覆ろうとしている。ああ睡蓮が、ああ水草が…!容赦ない暴力に晒された可憐な生き物たちは、成す術もなく水中に沈みゆく。なんてことを。人様の庭とは言え、これはもはや美への冒涜だ。混乱した優の脳内は、そもそも空中に置かれたチーズの存在や、独りでに盛り上がる池の不思議さよりも、一端の芸術家よろしく憤っているのであった。  すると、盛り上がりの頂点から何かが見えてきた。優は目を凝らし、まるで親の仇と対峙しているかのように睨みつけた。…が、その目も徐々に驚愕に見開かれる。 「嘘でしょ…。」 それは、天高く輝いているはずの月だった―。  ザッバーン。文字に起こすとどこか滑稽な音を立てて、月はその全体を現した。ああ、月だ。どこから見ても月だわ。もはや驚くことすら疲れた優は、白けたような視線を送る。 「お嬢ちゃん、こっからだよ。」  すると、優の髪をギュッと握った老婆が震える声を出した。まだ何かあるのか。優は次から次へと巻き起こる不可思議な現象に、変な話慣れ始めていた。むしろお腹いっぱいとでも言うべきか…。そして気が付いた。あれ、私の役目って終わったんじゃ…?  「エメンタール様、大変長らくお待たせいたしました。今宵は何を調理なさいますか?」 月が完全に姿を現し、クルクルと自転を始めた頃。クロノメは両腕を高く上げ、声高に叫んだ。 「チーズケーキを。ベイクドチーズケーキを作るよ。」 片や老婆エメンタールは、ぼそぼそと優の髪の隙間から答えた。なんでもいいけど、こそばゆいからやめて欲しい。  クロノメは大きく1つ頷くと、承知いたしました。と顔の前で手を組んだ。 「どうぞ、ご武運を。」 その瞬間、現れたのは磨き上げられたステンレス製のキッチンだった。   【6】エメンタールの懇願  「さぁお嬢ちゃん、頼んだよ!」 いつの間にか頭上に移動していた老婆は、優の髪を両手に掴むと手綱よろしく引っ張った。いや待て待て待て。優は、自分でもびっくりの早業で老婆を掴み上げると、眼前に持って来た。 「おいこら。調子に乗るのもいい加減にしな。私の役目はもう終わったでしょ。私は帰ります、さようなら。」 せめてもの情けで、キッチン台に降ろした自分を褒めたい。本来なら、地面に叩き落としているところだ。  しかしそこは抜け目のない老婆である。「いいのかい?」ただ一言、そう聞いたのだ。涙を浮かべるというオプション付きで。優の喉元からはグッという音が漏れ、天使と悪魔が取っ組み合いを始めた。もう一押し、恐らく老婆はそう思ったのだろう。スッと膝をつくと、三つ指ついて見上げてきたのである。「どこで覚えた…!」それは、優の敗北宣言に違いなかった。    「わかったよ!やればいいんでしょ!」 悪態をつく優と、小さくガッツポーズをする老婆という異色のコンビは、今宵限りの結成を果たした。とは言え、お菓子作りなど小学生以来という優はもはや素人同然。果たして役に立つのだろうか。 「心配しなさんな。お嬢ちゃんは、あたしの分身を手伝ってくれたらいい。」  その途端、キッチン台にいた老婆が3人になった。二度見では足らず三度見したが、やはり3人いる。そして何かゴソゴソし始めると、お揃いのエプロンに着替えていた。不覚にもキュンとしてしまったのはここだけの話だ。  「まずはクリームチーズを用意しな!」 1人の老婆が指示を出すと、残りの2人がオー!と手を挙げた。そうして運び込まれたのが、木枠に入った白い塊だ。ピッピ、ピッピ、ピー!軽快な笛の音に促され、キッチン台の下に到着すると、3人の老婆はじーっと優を見上げた。「ああ、持ち上げるのね。」3人の視線に見守られ、ひょいっとキッチン台に乗せれば、ガラスのボールがフッと現れた。「移し替えるのね。」笛を咥えた老婆がじっと視線を向けるので、優は苦笑いを浮かべ移し替える。  続いて運び込まれたのは、麻袋だった。赤い顔してフーフー言いながら運ぶ老婆1をひょいと持ち上げ、中身を覗くと、サラサラとした白いものがあった。「まぁ砂糖でしょうね。」独り言を呟けば、正解!とばかりにハイタッチを求めてくる老婆2と老婆3。なんなの、と思いつつもハイタッチを返せば、同時にボールを指さした。どうやら混ぜろということらしい。さっきから指示が微妙に雑なのは何故なのか。  ぶつくさ言いながらも混ぜていると、コケコッコー!という馴染みのある鳴き声が聞こえた。おや、鶏がいるのかと見渡せば、老婆1がコケコッコー!と言って羽ばたく真似をしていた。「お前かい。」一応、礼儀としてツッコミを入れたが、老婆1は何事もなかったかのように卵を割り入れた。    「後は仕上げだね。あんたたち、いいかい!」 そうして老婆たちは、まるで妖精のように生地の上を飛び交った。振りかけられる色とりどりの粉は、きっとこの世界には存在しないものなのだろう。なんとなく察せられた。  ひとしきり舞い踊った老妖精たちは、光る汗を満足そうに拭うとスッと生地の入った型を差し出した。 「最後の仕上げは、いつだって同じさ。そうだろ?」 うんうんと頷く同じ顔が3つ。最後の仕上げ?優は遠い昔の記憶を必死で遡り、最後の仕上げに当たる技法を探したが、何一つ思い当たらなかった。 分からない、そう首を振った。 「分かるはずさ。」と老婆1が笑う。 「思い出して。」と老婆2が笑う。 「仕方ないねぇ。」と老婆3が笑うと、分身は消え老婆は1人に戻った。 「最後の仕上げ、それは愛情だろ?」  次の瞬間、優はホームのベンチで目覚めた。 【7】ゴーダの再会を夢見て  あれから早2週間が経った。こういう時、大体の主人公は何か劇的な変化があったりするのだろうが、優にはこれと言った変化は訪れていない。相も変わらず残業の日々だし、”都合の”いい人からはまだ暫く抜けられそうにない。  ああ、でも一つだけ変化があった。それは最寄り駅の電灯だ。やっと声なきSOSが届いたらしい。今や天下のLEDが煌々とホームを照らしている。  そうそう、優の日課も1つ増えたのだったか。残業を終えた21時頃、彼女は最寄り駅のホームをひとしきり歩く。なんでも、小さな小さな老婆に言ってやりたいことがあるんだとか。だから、見かけた方はどうかご一報を。    
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