桜になりたかった彼女

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 桜の花びらが散って、もう誰も寄り付かなくなる頃——それは年に一度やってくる——、そのたびに僕は、彼女の口癖を思い出す。 「せめて死ぬときだけは、綺麗でいさせて」  彼女は、美しく死ぬためだけに、生まれてきた。  ――――――――――  僕が借りていたワンルームの隅で、彼女はいつも膝を抱えていた。いつから一緒に暮らしはじめたのか、僕はもう全く思い出せない。  けれどとにかく、僕の部屋の隅に、彼女がいた。  美しくない。  僕は彼女が好きだった。  だって、美しい人なんて、目が腐るほどたくさん、ブラウン管を通して見てきたから。彼女は今まで一度もあの画面に映ったことなどなくて、そして死ぬまでずっと、あの画面に映らなかっただろう。  彼女の涙は、ドラマで美しい悲劇のヒロインが流すような、透き通った涙ではなかった。  何の感情も持っていないくせに、彼女の涙は濁っていた。  彼女の涙は、なんだか可笑しかった。悲しくて、悲しすぎて、いっそ笑ってしまうような。  煙草を吸おうと思ってベランダに出ると、桜の花びらが飛びこんできた。薄っぺらくて弱い、いきものの、亡骸。僕はそれを雑に払いのけて、紫煙をくゆらせる。 「桜になりたかったなぁ」  少しだけ開けたままの窓越しに、彼女のか細い呟きが聞こえた。  きっと彼女は、僕に聞こえることを見越して、そう呟いたのだろう。  僕はごめんだよ。  ……そんなくだらない返答を、飲み込む。  ベランダに置きっぱなしになっている、灰皿代わりのアルミ缶に、煙草を押し付けた。  窓を開けて部屋に戻る。彼女はやっぱり、微動だにしていない。 「なんで桜になりたかったの?」  それはちょっとした好奇心でしかなかった。ほんとうは、彼女が桜になりたかった理由なんて、どうでもよかった。けれど彼女は、乾いてがさがさになった唇をゆっくりと開く。 「桜は、散るときが一番、美しいんだって」  ああ、誰かが言っていたような気がする。誰か知らない人、僕とまったくなんの関係もない、人。 「わたしも……、せめて死ぬときだけは、綺麗でいさせて」 「僕にそんなこと言われても、困るよ」 「ごめんなさい……」  彼女の声は、涙で少し滲んでいた。  困る、なんて、本気で言ったわけじゃない。  なのに彼女は勝手に傷付く。  そんな彼女の存在が時々、鬱陶しくてしかたなかった。でも、あるいは、だからこそ、だろうか。彼女を愛おしいと思う気持ちも、鬱陶しさと同じぐらいに、僕の中から溢れてくる。  けれど僕は結局、彼女の頬にさえ触れることはなかった。  ――――――――――  物心ついてから、何度目かの春。  目が覚めたら、彼女は天井からぶら下がっていた。 「せめて死ぬときだけは、綺麗でいさせて」  彼女の声が、はっきりと鼓膜によみがえる。  それを振り払うような気持ちで首を横に振った。そしてもう一度、彼女を見上げた。  それが、君の望んだ「綺麗な死」なの?  ……言葉にしようとして、やめた。どうせ彼女には聞く耳も喋る口も、もうないのだから。どんなに見上げていても、彼女はもう動かなかった。  ――――――――――  彼女の名前を、僕はもう思い出せない。  ただ年に一度、桜の花が散ってしまう頃に、彼女の口癖を思い出すだけだ。  あれから何度目の春なのか、僕は数えていなかったから、それすらもう分からない。  散って茶色くなってしまった桜の花びらを、僕は箒で掃く。  もうなにもかもがどうでもよかった。けれど、きっと僕はまだしばらく、生きてしまうのだろう。
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