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俺は紙を丁寧に折りたたんで苺に突き返した。
「なんでよう! サインしてくれるまで帰らないから……あっもしかして彼女できたとか!」
「違う」
「じゃあ受け取ってよ。真面目に働くから!」
「苺が十八になったら俺が本物を持っていくから」
心臓が喉元からとび出しそうになる。ぐっとこらえて苺の手を取った。本当は一人前のイチゴ農家になったら迎えに行くつもりだった。たとえ時間がかかったとしても、苺が他の男と結婚しないかぎりは諦めないつもりだった。
「それまで金を貯めて、一人前を目指してがんばるから。苺も高校を辞めるなんて言わずに……」
「わあー嬉しいよー!」
今度は泣き笑いをしながら俺に抱きついてきた。婚姻届(仮)は踏みつぶされてクシャクシャになっている。
辛い記憶を消し去る方法なんて知らない。でもきっと忘れているだけの優しい記憶は心の奥にずっとある。二人の泣き顔も上書きできる。
苺と二人ならきっと乗り越えていける。
「ちょっとあんたたち、進学はどうするおつもり?」
急に障子が開いて俺は硬直した。仁王立ちした母さんの後ろに、苺の母親までいる。大あわてで苺を突き放したが全身から汗が出て止まらなくなった。
「えっと……大学には行ってそれから……」
「私は大学なんか行かないってばー! おばさん、今日からよろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げた苺に「あらまー可愛いお嫁さんねえ」と母さんは言った。「ばかなこと言ってないで!」と苺の母親が小さな頭を上げさせようとするが、苺は「やだってばー!」と全身で拒否をする。
大騒ぎをする苺とその母親を制して、母さんは言った。
「今夜は泊まっていいから、二人でよく話しなさいな」
人生は長いわよ、と母さんは苺の母親の肩を押した。拍子抜けした俺は苺と顔を見合わせる。
「雨音くん、ほんとに結婚してくれる?」
「うん、まあ」
「何よーその返事。じゃあ婚約指輪ちょうだい」
「そんなものすぐにあるわけ……」
ふと思いついて俺は庭に出た。雨はいつの間にか上がって太陽が顔を出している。
苺の手を引いて、じいちゃん手製の門扉をくぐった。露地イチゴの畝から出来損ないの実をひとつつまんで、茎ごと切り離す。
つるのような茎をくるりと巻いて環状にした。赤い実の部分を上にして苺の薬指にはめる。
「いつか必ず、ちゃんとしたのを渡すから」
「ううん、これでいいよ!」
雨に濡れた不格好な指輪をはめたまま、苺は俺に抱きついた。雨粒はゆっくりと滴って水たまりの中に優しく落ちる。
この実がだめになっても茎は残って次の苗となる。寒い冬を耐えればまた雨が降り、温かな大地で赤い実をつけるだろう。
朱に染まる空を見上げながら苺の手を握った。腫れぼったい目元がふんわりとゆるんだので、母親たちに見えないようそっと口づけた。
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