エンゼルケア

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 私が病室に抱いていたイメージとは違い、その病室の匂いは消毒液の匂いでは無かった。仄かに檸檬の香りが漂っている。それはその病院特有の物では無くて、ベッドの横に置かれている黄色のフレグランスによるものだ。 「こんにちは。貴方の父親からご紹介されました。テレビディレクターの、笹岡陽菜と申します。今回は貴方の終末期の治療についてテレビで特集を組む予定である事をお伝えしに来ました」 「……誰が許可したの?」 「貴方の父親です」  目の前にいる少年━━━━岡野健太ははっきりとした声で私と話している。何処にでもいるような、普通という印象を私に与えた。  数えるのも億劫な程の管と、病的な肌の白さを除けば、だが。 「貴方の父親は私の直属の上司です。貴方がこの取材を断った場合、私の首が飛びます」 「……なにそれ」  病人は気だるげな様子で備え付けられた小さなテレビを眺めている。テレビから聞こえる観客の笑い声。病人は笑っていなかった。 「権力という物は人を簡単に変えます。2年前は優しかった貴方の父親は、今は撮れ高を探すモンスターに成れ果てました。今の私はそのモンスターに隷属する奴隷です。惨めで哀れな私を助けられるのは、岡野健太さん。貴方だけなんです」 「……病人にそんな事言って、人の気持ちを考えられないの?僕は手術後で気が滅入ってる。いつ死ぬかも分からない。それなのに僕のお父さんの悪口を言って、精神的なストレスを与えてる。そんな人を、どうして助けないといけないの?」  それきり病人はテレビの世界に入り込んで、口も聞いてくれなかった。やはり世間話から始めて、心を開いた方が良かったのかも知れない。私がそうしなかったのは、この圧迫するような病室から逃げ出したかったからかもしれない。檸檬の香りでも隠しきれない死の香りが、この部屋からは漂っていた。  20分程度待ったが、会話のきっかけも無かった。テレビの音だけが、この空間に流れていた。 「……1つ、お願いがあるんだけど」 「はい」 「クローバ、取ってきてくれない?3つ葉じゃなくて、4つ葉の」 「どうしてですか?」 「……渡したい人がいるからだよ」  忌々しげな目でこちらも睨んでくる。中学生とは思えない、退廃的な。そして病人は意地の悪い顔で、こう嘯いた。 「もし持って来られたら、取材受けても良いよ。まあ、無理だろうけど」  病人はきっと、この周りにクローバーが生息していない事を知っている。そして私の取材を受けない為に、この問題を設定したのだろう。でも、病人は知らない。  撮れ高の亡霊の、底知れぬ執念と悪意を。  翌日。病室は檸檬の香りから林檎の香りへと変わっていた。フレグランスの容器も黄色から赤色に変わっていた。 「持ってきました」 「……意外と早かったね」  病人は平静を装っていたが、声色に隠しきれない動揺を孕んでいた。 「ええ。入手の手段は問われなかったので、花屋で買ってきました」  病人は呆れた様な短い嘆息を漏らすと、諦めた口調で話し出す。 「取材って、何をするの?」 「受けてくれるんですね?」 「……僕のお父さんのせいでこんな苦行をしてるんでしょ?じゃあ助けないと、僕があなたを殺すみたいで、仕方ないじゃん」  病人はあくまで私を助けるためで、テレビに出たい訳では無い事を何回も強調していた。 「私は2週間は交渉するだろうと覚悟していました。早く承諾してくれて助かります」 「……別に」  少年は今日もテレビを見ていた。私は携帯してきた小型カメラで、その様子を撮る。 「……撮っていいとは、言ってないけど」 「これも取材の一環です。貴方の父親から自然な様子で、家族が撮ったホームビデオの様にと希望されていますので」  病人は一瞬戸惑った様子だったが、すぐにテレビに集中した。私は林檎の香りを楽しみながら、その様子を撮り続けた。  私は、病人について何も知らない。上司、つまり彼の父親から教えられたのは名前と年齢と家族構成。そして病名だけだ。  心臓腫瘍。一言で言えば癌だ。本来心臓に癌が出来ることは稀らしい。しかし、病人は死神に愛された。出来るはずのない場所に癌が出来たのだ。  岡野健太は早くに母親を亡くしていて、兄弟もいない。父親は病室に1度も足を運んでない。息子よりも重要な仕事があるらしかった。 「はい。撮れました」 「そしてそのデータをテレビに流して、お金稼ぎするんですね」 「はい」 「……冗談の通じない人は、苦手」  酷い事を言ったのを気に病んだのか、少し申し訳無いような顔をしていた。初日の印象とは違い、どうやら病人は優しい類の人間の様だった。 「気に病む事はありません。寧ろそうやって毒を吐いてくれた方が、病人のリアルな生活として注目されそうです」 「……最低」 「それが仕事なので」  病人は尚更ぐったりしたような顔で、私の顔を見つめる。 「どうしました?」 「いや、何でも無いです」  そうして私と病人の、短い取材が始まった。
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