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死人は、安らかな顔をしていた。余りにも顔が綺麗すぎて今にも目が覚めそうだった。肩を揺すってあげれば、眠そうな顔で、微笑みながら。
「岡野健太さんが亡くなりました」
『……分かった』
死人の父親に電話をかけても、特に反応は得られなかった。遠い国で誰かが死んで無関心でテレビを眺めているような。
「どうして、面会に来なかったんですか。岡野さんは最後まで貴方が来ない事を気に病んでましたよ」
『そうか、ご苦労』
電話は切られた。死人の父親は、最後まで撮れ高を気にしている様子だった。
クソ喰らえ。
「笹岡陽菜さんですか」
「……はい」
死体安置所の匂いはあの時のフレグランスでは無くて、私の最初の印象通り消毒液の匂いで満ちていた。
岡野健太。好きだった人にも父親にも裏切られて、特に関わりの無い私との会話に最後まで興じた、哀れな人だ。
「……実は、岡野さんから、手紙を拝借しております。それも、貴方宛に」
「手紙……?」
渡されたのは封筒も無い剥き出しの1枚の紙だった。私は紙を開いた。
『こんにちは。これを読んでいる時は僕は既に亡くなっていると思います』
手紙には短い文と、クローバーが同封されていた。
『きっと僕は、天国にいると思います。これだけ苦しんで何も無かったら、報われないよね』
文は続く。私は涙を、抑えられない。
『別に伝える事も無いけど、この手紙はテレビに映さないでね。恥ずかしいから』
『クローバーは結局渡せなかったので、誰か愛してる人にでも渡してあげて下さい』
『最後に1つだけ。僕に優しい嘘を吐いてくれて、どうもありがとう』
病人は、死人は、岡野健太は最初から気付いていた。好きな人がもうここには来ない事を。私の嘘を受け入れて、何も知らないフリをしてくれていた。
岡野健太は、確かに生きていた。
「……読めましたか?」
「はい」
「……親族も来ないようですので、最後に化粧してあげて下さい。きっと彼も、それを望んでいるでしょう」
彼から教わった、エンゼルケア。
「……ごめんなさい。私、貴方の事、心で病人と言っていました。確かな名前があったのに。呼べず仕舞いでした」
青白い肌が、化粧で更に白くなっていく。
「今更言ったってもう遅いけれど、私は確かに幸せでした。……貴方が生きた証は、誰にも渡しません。貴方をお金稼ぎの道具にはしません。私は、貴方が逆らえなかった父親に反抗してやります」
化粧が終わる。私は持っていたクローバーを、胸でクロスされた手の内に隠した。
「どうか安らかに、健太」
病院から出て、新鮮な空気を吸う。フレグランスの匂いはしないし、蝉の声ももう聞こえない。私は、独り言を呟いた。
「さようなら、私のクローバー」
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