11人が本棚に入れています
本棚に追加
石橋沙織は早川颯太と二年前から同棲している。
今朝、些細なことで口論になった。
床に脱ぎ散らかしたままの颯太の服を見て、イライラが限界に達したのだ。
着替えを終えてテーブルに着こうとする颯太に、沙織が指差して言った。
「颯ちゃん、それ! 脱いだらちゃんと洗濯かごに入れてっていつも言ってるじゃん!」
「あ、ごめん」
颯太は慌ててそれを拾い集める。
そこで終わっておけばよかったのだ。
「一昨日も言ったよね?」
「……ごめん」
再び謝る颯太に、沙織は更に被せて言った。
「いつもいつもごめんって、取り敢えず謝っとけばいいとか思ってる? それでまた同じことするって、私のことバカにしてるの?」
言い過ぎだとわかっていながら、止められない自分がいた。
「悪いと思ってるから謝ってんだろ! 謝るしかねーじゃん! 謝んないほうがよかったのかよ?」
「そんなこと言ってんじゃないじゃん!」
颯太の言う通りだ。謝らなかったらもっと腹が立っていたと思う。
颯太は朝食に手もつけないまま、仕事に出掛けてしまった。
沙織は大きな溜め息を吐いた。
イライラの原因は……生理前のアレだと思う。
窓の外は、清々しい天気なのに、沙織の心はどんより曇り空だった。
――朝から酷いこと言っちゃったな。
沙織は後悔の念に駆られた。
手付かずの颯太のサラダを冷蔵庫に仕舞い、一人で朝食を済ませた。
洗濯機を回している間に、洗い物をして掃除機をかける。家事は得意なほうだ。
会社員の颯太と、販売店員の沙織は、休日が殆ど合わない。それを知った颯太から、付き合うと同時に「一緒に住まないか?」と言われ、沙織は躊躇なく「はい」と返した。
恋愛には勢いが大事だ、と沙織は思う。慎重になりすぎて行動に移さないよりも、行動して失敗する方が、後悔もなく自分自身が納得出来ると思うのだ。
勢いで始めた同棲だったけれど、颯太とはうまくいっている、と沙織は思っている。
他人同士が一緒に生活するのだから、食い違いは仕方のないことで、それはお互い擦り合わせていくしかない、という考え方だった。
勿論喧嘩もするけれど、だからといって、颯太のことを嫌いになるわけではない。
しかし、今朝の口喧嘩は、喧嘩というより、沙織が一方的にイライラをぶつけただけだ。
罪滅ぼしのつもりで、今日は颯太の好物を作って帰宅を待とうと考えた。
洗濯物を干し終えると、沙織は買い物に出掛けた。
颯太の好物は、ハンバーグだ。ワンプレートに、こんもりとライスを盛り、ハンバーグにエビフライとナポリタンとサラダを添える。お子様ランチのようなそれを、颯太はいつも「俺様ランチ」と呼んで嬉しそうに食べるのだ。
帰宅して昼食を済ませ、少し部屋の片付けをしてから、夕食の準備に取り掛かかった。後は颯太の帰りを待って、ハンバーグを焼きながら、エビフライを揚げるだけ。
さっきまで晴れていた空は、急に雲行きが怪しくなってきた。沙織は慌てて洗濯物を取り込んだ。
紅茶を淹れてソファーに腰掛け一息つくと、パラパラと雨音が聞こえてきた。ベランダに出ると、雨粒が駐輪場の水色の屋根に、水玉模様を作っている。どんよりした雨空を見ていると、今朝のことを思い出して、沙織は憂鬱な気分になってきた。
ふと思い立って、玄関に向かった。案の定、傘立てには颯太の傘が残っていた。
時計の針は、五時を少し回っていた。颯太は電車に乗る頃だろうか。変なところで節約する颯太は、おそらくコンビニで傘は買わないだろう。ちらちらと窓から外の様子を窺っていたが、徐々に雨足が強くなってきたのを見て、沙織は駅に向かった。
傘に落ちる雨音を聞きながら考える。
――何よりもまず、颯太にあやまろう。
ごめん、と謝る颯太に、あんな酷い言い方をしたのだから……。許してもらえるまで何度でも謝ろう、と決めた。
駅に到着すると、ちょうど電車が到着したようで、改札から続々と人が出てきた。
――あ!
沙織が見つけるのとほぼ同時に、颯太が手を上げた。
「沙織、迎えに来てくれたんだ」
颯太は少し眉を上げてから柔らかい笑顔を見せた。
「颯ちゃん、今朝は――」
「お疲れ様です」
遮るように後ろから声がした。
颯太の後輩の井上だった。
「おう、井上。同じ電車だったんだ」
「いいっすねぇ……お迎え」
井上は羨ましげに颯太に言ってから、空を見上げた。
「てかお前も傘忘れた?」
颯太は沙織から受け取った傘を、井上に差し出した。
「え、いいんすか? めちゃくちゃ助かります! てか実は口実だったりして……」
井上は丁寧に礼を言って背を向けた後、振り返ってニヤニヤしながらもう一度会釈した。
沙織が広げた傘を颯太が持ち、寄り添って歩く。
沙織は言いそびれた言葉を口にした。
「颯ちゃん、ごめんね」
颯太は黙ったまま沙織に目を向けた。
――やっぱり怒ってる、よね?
「お前生理前だろ。機嫌悪過ぎー。まあ一番悪いのは俺だけどな……」
颯太は苦笑いしながら、沙織に紙袋を差し出した。沙織の好きなスイーツ店のものだった。
「これで機嫌直して」
コンビニで傘は買わないくせに、その何倍もするスイーツを手にはにかむ颯太に、胸がキュンとした。
沙織は傘を持つ颯太の手首を掴んで、引き下げた。
傘に頭を押されて颯太が身を屈めると、沙織は顔を傾けキスをした。
「――ッ!」
傘の上で雨音が弾んだ。
【完】
最初のコメントを投稿しよう!