76.変わりゆく日常

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76.変わりゆく日常

 仏間に隣の部屋でこたつを囲み、お茶を飲んで一息つくと「ちょっと会社に用事があるので」と杉崎は慌ただしく帰っていった。母は喪服のままこたつに肩までもぐり込み、髪がボサボサになるのもまったく気にしない。 「お父さんが死んだときもだけど、今回も達哉がいて助かった」  泣いたせいか母は鼻声だった。 「楓、明日は仕事よね。伊東君もいるから大丈夫だと思うけど、無理しないのよ」 「うん。お母さんもね」 「色々やらなきゃいけないことはあるけど、ぼちぼちやってくしかないわ。楓、あれから伊東君と話したの? 結婚のこととか」 「結婚するよ。言ってなかったっけ?」  母はこたつからむくりと起き出した。 「聞いてないわよ」 「おじいちゃんの前でちゃんと報告した。死んじゃったすぐあとだから、おじいちゃんまだあの病室にいたと思う。恭明と一緒にメゾン・ド・アリス続けるから安心してって言っといた」 「オーベルジュはやめたのね」  母の顔は少し残念そうだったけれど、口調はあっけらかんとしている。それが少し気になった。 「お母さん、杉崎さんから聞いてない?」 「達哉には話してたの?」  母の声が裏返る。どうやら、杉崎は紅葉のことを母に話していないようだった。  恭明が杉崎に紅葉の件を伝えたのが十日。祖父が亡くなったのがその日の午後。紅葉について調べる暇などなかったはずだ。彼のことだから、ちゃんと確証を得てから母に報告するつもりなのだろう。 「話してなかったかもしれない。ごめん、勘違い」  わたしが誤魔化すと、母は「ふうん」と肩をすくめてまたこたつにもぐりこんだ。  母が紅葉の件を知れば、直接彼女を呼び出して問い質しかねない。紅葉なら得意の喋りで煙に巻いてしまうだろうから、完全に追い詰めるには証拠が必要だ。「会社に用事が」と帰った杉崎は、もしかしたら紅葉のことを調べているのかもしれない。 「明日からいつもの日常かあ」  母がため息まじりにつぶやいた。祖父がいない空白を感じるのは、わたしよりもこの家で祖父と一緒に暮らしてきた母の方。 「さみしくなったら杉崎さんに来てもらったらいいよ」 「ううん」  母は曖昧にうなって目を閉じる。わたしは杉崎がこの家にいるのが日常になったら、と想像した。  母を任せられる安心感。ときに鬱陶しく感じられることがあっても、一度日常になってしまうときっと失うことが恐ろしくなる。祖父を見舞うというここ最近の日常は、わたしの生活から失われてしまった。  メゾン・ド・アリスもずっと同じ日々が続くわけではない。祖父の死で独立の件は宙ぶらりんになってしまったけれど、店の土地をわたしが相続するからには恭明とちゃんと話し合わなければいけなかった。その一方でオーベルジュの件も気になっていた。  
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