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90.芽吹く紅葉
二月の終わりに祖父の四十九日の法要を済ませ、三月に入って一段落すると父と祖父の遺影を囲んで食事をしようと母から誘われた。
「どうせ一緒に住んでるんだから伊東君と一緒に来なさい」
「じゃあ、杉崎さんも呼んだら?」
そんなやりとりがあり、実家の仏間に母と杉崎と恭明とわたしがこたつを囲むという奇妙な会食となった。祖父を偲ぶというより頓挫したオーベルジュの対策会議のようなことばかり話していたけれど、
「メゾン・ド・アリスの方は?」
と杉崎が何の前触れもなく聞いて、わたしと恭明は顔を見合わせた。
「独立したいっていう話は社長からうかがってます。でも、できれば今はやめてほしい。独立計画にも白木設計事務所が関わっていたようだから、そっちも頓挫しているでしょう?」
一切オブラートに包む気のない杉崎の言い方に恭明は苦笑している。
「アリスとオーベルジュの件はまだティーズアクトという同じ舟に乗ってるんです。これ以上社長の心労の種を増やさないで下さい」
「杉崎さんはメゾン・ド・アリスを切り捨てるつもりだと思ってましたが」
めずらしく恭明が皮肉めいた言い方をすると、杉崎は相変わらず「生産性が低いですから」と澄ました顔で返す。クスッと母が笑った。
「杉崎君は伊東君にティーズアクトを辞めて欲しくないのよね」
恭明とわたしが驚いて杉崎を見ると、彼はふいと目をそらす。杉崎の背後に父の写真と、その隣に祖父の写真が並んでいた。わたしの視線に気づいたのか、三人とも仏壇に目をやる。
「メゾン・ド・アリスはなくさない。オーベルジュもいつかやるからね」
わたしが祖父に向かって言うと、こたつの中で恭明がわたしの手を握りしめた。
ゆっくりと季節は移り変わっていく。メゾン・ド・アリスには歓送迎会の予約が入り、春休みになると滅多にない子ども連れの客もちらほらやって来た。
「たいよ~の、はながさい~た~ら」
かわいらしい歌声が聞こえてフロアをのぞき見ると、幼稚園くらいの女の子が両手を広げてクルクル踊っていた。濱田が普段見せない父親の顔をしてその様子をながめている。母親が「すいません」と抱きかかえ、女の子は「バイバイ」と手を振って帰っていった。
いつものようにフロアで賄いを囲んでいるとき、「紅葉さん、元気にしてるのかな」と圭吾がポツリとつぶやいた。
「心配よね」
真奈が言い、香苗がうなずく。翔平は何も言わなかった。
「心配する必要はないと思うけど。彼女はここにいる誰よりもタフだから」
濱田の言葉で翔平の口元にかすかに笑みが浮かぶ。わたしは紅葉が姿をくらましてから毎日彼女のことを思い出していた。メゾン・ド・アリスをどうするのか、オーベルジュをどうするのか。まだ何も決まっていないし進んでいない。
――何も考えず流されて生きてて楽しいことなんてある?
紅葉の言葉が頭を過る。平穏で慌ただしい日々を送るわたしたちを「バカねえ」と笑っていそうな気がする。紅葉ならどうするか、紅葉ならどう考えるのか、わたしは頭の中で紅葉に問い続けている。
「楓、ちょっとコンビニ行かないか?」
恭明が空になった皿を手に立ち上がると、「新婚さんはラブラブですねえ」と真奈がニヤニヤ笑いをわたしに向けた。
「まだ入籍してません。式も未定だし」
「うちの店でレストランウェディングですね。ありとあらゆる高級食材を使い尽くしましょう」
翔平が聞いたことのあるセリフを口にし、テーブルを囲んだスタッフから笑いが起こった。
「あー、わたしも早く推しと結婚したぁい」
真奈がさらに笑いを誘い、わたしと恭明はそれを背後に聞きながら先に席を離れる。一緒に裏口から出て、車に乗り込もうとしたとき駐車場の脇に植わった落葉樹に目がとまった。小さな小さな紅葉が、そこに芽吹きはじめていた。
〈完〉
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