3.その人はスーパーシェフ

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3.その人はスーパーシェフ

 カシャカシャと泡立て器を回してドレッシングを乳化しながら、頭の中には包丁を持った翔平の手が映像として残っている。 「翔平さんの手はきれいですからね」わたしは言った。 「そんなことないですよ。ちゃんと働く男の手です」  翔平はやはり手を止めず、こちらを見ようとはしない。  翔平の手の美しさはスラリとしているのではなく、骨ばった節々と素材を扱うときのしなやかな動きに色気がある。恭明の手指は不器用で誠実な彼らしく無骨という表現がぴったりだ。 「おつかれさん」  祖父が恭明と紅葉を連れて厨房に顔を出し、濱田とフロアスタッフの香苗と圭吾がその後ろについて入ってきた。全員の視線が紅葉に注がれ、彼女はそれに臆することなく、むしろ当たり前のようにそれを受け止めている。 「来月、九月一日からしばらくここで働くことになった熊埜御堂紅葉さんだ。基本的にはコックとして働いてもらうことになる」  驚いて目配せしあったのはわたしと真奈と翔平、それに香苗だった。  すでに事情を知っている恭明と濱田は別として、おそらく圭吾以外のスタッフは紅葉が「マネージャー」として本部から派遣されてきたものと考えていた。確認し合ったわけではないが、今の目配せはそういうことだ。働き始めて半年ほどの圭吾は、以前本部のマネージャーがメゾン・ド・アリスにいた頃のことを知らない。  祖父が現場から身を引いたのは軽度の脳梗塞で入院したことがきっかけだったが、そのとき本部から「マネージャー」という肩書でやってきた人物がいた。一年もせずいなくなったのは祖父が追い出したからだ。  祖父がはじめた maison de Aliceは、今はティーズアクトという株式会社の一店舗。祖父はティーズアクトの会長ではあるが、発言力があるのはメゾン・ド・アリスに関してだけで、現社長である小森敦子が会社のほぼすべてを取り仕切っていた。  小森敦子はわたしの母だ。  もともと祖父と母の考え方は合わなかったのだが、前社長である父が亡くなって以来それが顕著になった。母は効率主義者であり、祖父は職人気質。母の視点に立てばメゾン・ド・アリスは利益の上がらない非効率な店でしかなく「会長の道楽」と憚らず口にしている。  祖父の入院を好機とばかりに母はメゾン・ド・アリスに本部の人間を送り込んできたけれど、祖父は医者が予想していたよりも早く回復し、マネージャーは本部に追い返されることになった。  厨房を恭明に任せると祖父が決めたのは利き手に麻痺が残ったことが原因だ。以来一人分の労働力の穴は埋まらないまま、フロアスタッフが一人辞めて圭吾が入り、忙しい時期に臨時アルバイトを雇ったりして今までやっている。  厨房にもう一人雇えないかと、恭明は何度か祖父に相談したようだった。けれど正社員を入れるとなると本部の許可が必要で、人件費を増やす前に原価を下げろと言われるばかり。紅葉がコックとしてここで働くということは、本部がこれまでの対応を覆したということだ。つまり母が許可したということ。  祖父が母を説得したのか、それとも母が何かしらの意図をもって紅葉を差し向けたのか。 「熊埜御堂紅葉です。名字は長いので、紅葉と呼んでください。七月の末まで長野で働いていて」 と、紅葉はその言葉に続けてあるオーベルジュの名を口にした。  ――オーベルジュ木那佐。たしかミシュランガイドで星を獲得していたはずだった。  紅葉はそのあとも流暢に経歴を語った。高校を卒業したあと語学もできないままフランスに渡り、現地のレストランを転々とし、さらにイタリアで経験を積み、帰国したあとは東京に新規オープンした店でシェフを任され――それは料理専門誌で読んだことのある成功者インタビューのようだった。  なぜそのような人間が、というみんなの疑問を祖父は察したらしい。 「来年、ティーズアクトがオーベルジュを開くことになった。彼女はそこのシェフに就任する。今年いっぱいか、春頃までになるか分からないが、オーベルジュが始動するまではうちに来てもらう。そういう事情だから、熊埜御堂さんの勤務については本部の方に任せてある。メゾン・ド・アリスの体制は基本的には今まで通り。彼女がいるあいだにお互い吸収できるものは吸収して、せっかくの機会を活かすようにしてほしい」  祖父の言葉を引き取って、紅葉がまた喋りはじめた。 「本当は明日からでも毎日みなさんと一緒に働きたいのですが、そういうわけにもいかないのが残念です。可能な限りお店のお役に立ちたいと思っています。色々学ばせてください。九月からなのでもう少し先ですが、どうぞよろしくおねがいします」
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