4.ティーズアクト

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4.ティーズアクト

 不意に、紅葉がはにかんだ笑みを浮かべた。  彼女の視線を追うと圭吾が照れ笑いを隠すよう目を泳がせている。彼女に見とれて穴が空くほど見つめていたのだろう。圭吾の隣にいる翔平と目があった。何が言いたいのか彼は思わせぶりに口の片端をあげると紅葉と祖父に目をやる。そのとき電話が鳴り、濱田が厨房を出て行ったのを機に解散となった。  紅葉と祖父は厨房の裏口近くに立ってしばらく話し続けていた。厨房スタッフの役割と仕事、今日のディナーコースのメニューや食材のこと。彼らの会話は厨房の雑音をかいくぐって耳に届き、わたしの心をざわつかせる。他のスタッフたちがどう思っているのか気になったけれど、開店時刻が近づいているから手は止められない。 「楓、イタパ摘んでこないとない?」  恭明の声にハッと顔をあげた。 「ランチで使い切ったので採ってきます」 「ああ、いいよ。俺が行く」 「いえ、ついでにタイムも採って来たいから」 「じゃあ任せるよ」  恭明は一旦止めたソースパンの火を点け、軽く鍋を揺すると濡れ布巾で飛んだ油を拭く。祖父は神経質なほど清潔・衛生を口にしていたけれど、恭明もよく似ている。厨房を出た途端、特にプライベートな場所ではまったくそういったことに頓着しないのもそっくりだ。  裏口のドアノブに手をかけ、先ほどまでいた祖父と紅葉がいなくなっていることに気がついた。フロアから香苗と紅葉の声が聞こえてくる。ワインの話をしているようだった。わたしは二人の声を聞きながらドアを開け、サウナのような屋外に出る。  店の裏手の菜園の土は茶色く濡れていた。所狭しと植えられたハーブには水滴がついているけれど、水をやった直後らしくまだ葉に張りはない。水道につながれたホースが店の正面方向へとのびていた。 「暑いっすね」  駐車場に水撒きをしている圭吾がこっちを振り返る。「暑いね」と返し、わたしは菜園にしゃがみこんでイタリアンパセリを摘み取った。  メゾン・ド・アリスの開店時刻はランチが午前十一時、ディナーは午後五時。今夜は五時からの予約が三件、五時半の予約が二件、一番遅くても六時半からだった。山の中にあるからか、早めに来て早めに帰るお客さんが多い。  夜は予約営業のみだけれど、それも母には不満のようだった。回転率が低く生産性の悪い店だと母は言う。だとしても祖父のつくりあげた店を効率だけ求めて壊したくない。  祖父がときおり語ってくれる話に「あのころ」がある。「あのころ」とはバブル全盛期の、メゾン・ド・アリスがまだ街のビストロだった頃のことだ。祖父の語る街の姿はわたしが知っているのとはずいぶん違って、多少誇張しているのかもしれないけれど「時代」を感じるには十分だった。 「あのころは大切なものを見失っていた」と祖父は言う。わたしが知っているのは大切なものを取り戻した祖父であり、山の中のメゾン・ド・アリス。  祖父は景気の波に乗って市内にいくつか店を開き、会社を興した。それがティーズアクトだ。料理人として修行していた父も母との結婚を機に祖父の会社に入ったけれど、バブル崩壊とその後の不況で事業縮小を余儀なくされ、老朽化したメゾン・ド・アリスは一度閉鎖することになった。祖父が社長の座を退いて父と母に経営を任せるようになったのはその時。  祖父はほったらかしにしていた生家を改装し、山の中に新しい maison de Aliceを開いた。以来、ティーズアクトの中でもメゾン・ド・アリスだけが特別な位置付けにある。  車のエンジン音で顔をあげると、祖父の車が門をくぐって出ていった。後部座席に紅葉の姿が見えて胸がざわつくのは、彼女が母の認めた人だからだ。紅葉がティーズアクトと何の関わりもなかったならば、わたしは彼女のことを好ましく思っていたはず。 「紅葉さんって、俺らとは住む世界が違うっぽいですね」  水撒きを終えた圭吾が、ホースを巻き取りながら声をかけてきた。
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